四月十四日 小雨
新学期が始まって、早くも一週間が過ぎた。
まあ三年にもなると、学年が一つ上がったぐらいでそんなに大した変化を感じることもない。将来を考えたら激しく憂鬱にはなるけど、良くも悪くも変わらぬ日常を送っております。
瞬が真紀の部屋に泊まるようになってから、私にお声がかかる機会はめっきり減ってしまったが、昨夜は久しぶりに瞬と同じ夜を過ごすことができた。私の方から彼の部屋に押し掛けたのだ。幼馴染なんだから、それぐらいの自己主張は許されてもいいんじゃあないか。一応、ただのセフレじゃないんだし。
ああ、何だか自分でセフレとか言うようになっちゃおしまいだとは思うけど、結果としてそうなっちゃってるから仕方がない。セフレだからこれは浮気じゃない、私は浮気相手じゃない、そう自分に言い聞かせることで、孤独、プライド、依存、それらのものが複雑に入り混じった彼に対する感情や、親友である真紀に対する罪悪感を、ほんの少し(少しか?)の性欲のせいにして、必死に圧し殺しているのだろう。
それでも私は、真紀の親友という立場上、仲睦まじい二人の姿を頻繁に見せつけられる。
そして、辛いんだ、これが。
辛すぎて距離を置こうと思ったことは何度もあるけど、これも私の犯した業の報いだと真摯に受け止め、ひたすら耐えると決めた。瞬の隣で幸せそうに微笑む真紀の顔を見ていると、この子には勝てないなあ、と思ってしまうんだ。だからきっと、そうして溜まった鬱憤を、夜にまとめて解消したくなるのだろう。身体を重ねている間だけは、私が彼を独占できるから。
もし私と瞬の関係が真紀にバレてしまったら、瞬はどうするつもりなんだろう。そして私はどうしたいんだろう。
瞬と真紀、二人のどちらか、或いは両方と私は縁を切れるのか?
無理だなあ。少なくとも今はまだ。
それに、あと二年もすれば、就職という名の死神によって、私たちを取り巻く環境は大きく変化するだろう。全てを一気に清算するにはいい機会かもしれない。だから、その時までは、どうかこのままで――。
自分の部屋で、白いセーターとデニムパンツに着替えながら、私は独りそんなことを考えていた。口の中には、苦味と独特の臭気を持つあの白い液体の余韻が残っている。
朝食をとって手早く身支度を済ませ、家の玄関に出る。瞬の家はうちの真向かいだ。彼はまだ支度が済んでいないらしい。しょうがないから、少し待ってやるか。
瞬とは小学生の時分から今までずっと同じ学校で、一緒に登校するのはもう十数年来の習慣になっている。子供のころは、向こうの玄関口まで行って『瞬く~ん』なんて呼んだこともあったっけ。でも、この年になってそれはいくらなんでも、と思って、こうしてうちの玄関から様子を伺いながら待っているというわけだ。我ながら、結構健気な幼馴染だと思う。
そして数分後、瞬が玄関に姿を表した。
私もさりげなく、たまたま同じタイミングになったという体で玄関を出る。
どうしてこんな無意味な演技をしてしまうのかは、自分でもよくわからない。ずっと待っていたと思われるのが癪なのかもしれないし、もしかしたら、恥ずかしいのかもしれない。夜になってアルコールが入れば自然と全てを曝け出せるのに、日中で、しかも素面では、色々と面倒な手続きが必要になるのだ。
「おはよう、瞬」
「ああ、おはよう」
昨夜、私の皮膚の上をナメクジのように這い回った唇が、何気ない素振りで朝の挨拶を口にした。この舌と唇が触れていない場所が、私の体にまだあるだろうか。まだ昼の顔と夜の顔を完全に切り離して考えられない私の一部分が、こんなしょうもないことを考えさせる。
ドグラ・マグラの脳髄論じゃないけど、私の下腹部にはきっとほんの少しだけ脳ミソの出来損ないが詰まっていて、私の意思に反して貪欲に彼を求めているんだ。その出来損ないが、頻りにエラーを起こしてしまうのだと思う。自分、不器用ですから。
いつもの道を歩いて、私たちは大学の正門前に着いた。すると、私の名を呼ぶ甲高い声が、どこからか。
「小雨ちゃん! 小雨ちゃん!」
声の主は、同じ文芸部に所属している一年下の友達、堀江梨子ちゃんだ。名字が堀江、名前が梨子。赤みがかったブラウンの髪を風に靡かせ、私の名前を叫びながらこちらに駆け寄ってくる。
彼女はいつもギャル系の派手な服装をしているんだけど、今日もミニスカにノースリーブで、こりゃまた随分寒そうな格好してるなあ、と私は思った。
もともと少人数の読書サークルに過ぎなかった私たちの団体は、人数を増やし、活動が認められて部に昇格。今年度からは、晴れてサークル棟に部室まで与えられた。文芸部がここまで大きく発展したのは、梨子ちゃんの類まれなるオタサーの姫としての才能のおかげに他ならない。実のところ、部員の八割は梨子ちゃん目当てで集まった男子なのだから。悲しいかな、ガチの読書家は数えるほどしかいないのだ。
北九州出身の彼女は、デリヘルでバイトしてることが地元の彼氏にバレて、去年の冬頃にフリーになった。文芸部の部員がこの頃爆発的に増えたのは、おそらくその噂が広まったせいだ。可愛いし、一見隙が多そうに見えるからね、彼女。
だから、梨子ちゃんならその気になればすぐにでも次の彼氏を見つけられるはずなのだが、今のところそれらしい相手はいないらしい。多分、まだ前の彼氏に未練が残っているのだと思う。見た目ほど軽い女ではないってこと。
「小雨ちゃんおはよ! 瞬くんも久しぶりっちゃない? 今日も真っ黒けっちゃね」
梨子ちゃんは息を切らしながら、北九州弁の独特のイントネーションで言った。
「そうだね……お、お久しぶり」
瞬が少し気圧されたように答える。梨子ちゃんは、人当たりはとてもいいのだが、敬語が全く使えないという欠点があり、私たち上級生に対してもそのスタンスは全く変わらない。瞬と梨子ちゃんも一応面識はあるが、タメ口をきくほど親しいわけではないはずなのだ。それでもこの有様である。
おそらく、誰に対しても馴れ馴れしい梨子ちゃんは、瞬にとって最も苦手なタイプなんだと思う。彼のいつものコーディネートを『真っ黒け』のたった四文字で批評されたことに傷付いたわけではない――多分。
「梨子ちゃん、おはよう。朝っぱらからどしたの?」
私が尋ねると、彼女はニカッと人好きのする笑顔を見せた。
「今ね、新入生っぽい子らに片っ端から『文芸部に入らんと?』っち声がけしよったら、あ〜小雨ちゃんおる〜って思ったけん。今二人なんしよん?」
文芸部に入らんと? の部分の梨子ちゃんの上目遣いテクニックは本当に見事だった。170ある私の身長で同じことをやっても全く様にならないのが辛いところだ。いや、それ以前に、私の顔でやっても全然似合わないのだが。
「今あたしらも学校ついたとこだよ」
「あ〜そうね? ね〜ね~、今日うち半どんやけん、講義終わったらまた新入生の勧誘しようと思っちょるけど、一緒にやらん?」
「ええ、あたし? ん~、こんな仏頂面の女が行っても逆効果じゃない?」
「そんなことないっちゃ! 小雨ちゃんは、ほら、ボインやけ、そこ強調したらいける!」
梨子ちゃんは胸の前で手を丸く膨らませるような仕草をしながら言った。ボ、ボインとは。面と向かって言われると、相手が女でも恥ずかしいものだ。いや、そもそも、文芸部の勧誘方針としてそれは大いに間違っているように思えるのは気のせいか?
とはいえ、今や文芸部において梨子ちゃんの人望と発言力は絶対的であり、まだ二年生でありながら、実質的に部をまとめているのは彼女なのだ。別に、彼女は断ったからといって根に持つようなタイプではないのだが、勧誘などの活動を普段ほとんど彼女に押し付けている手前、どうにも断りづらかった。
「じゃあ、まあ……あたしは午後一コマあるけど、その後でいいなら」
「うん、よかよ。小雨ちゃんあんがと! 授業終わったらLINEしてな!」
私と梨子ちゃんが放課後のスケジュールについて話し合っている最中、こちらへ近付いてくる青いワンピースを、視界の端が捉えた。
「瞬さん、小雨さん、おはようございます」
心美ちゃんだ。彼女は私達の前で立ち止まると、軽く頭を下げた。手入れの行き届いた艶のある長い黒髪がはらりと揺れる。
一昨年会った彼女は、私なんかよりずっと髪が傷んでいたし、健康的に日焼けしており、スポーツ系の美少女という印象だった。だが、今の心美ちゃんは、色白でお洒落で、とても女らしい。全くの別人というとさすがに語弊があるかもしれないが、雰囲気がガラリと変わったのは事実だ。
「あら〜、かわいい子っちゃね! 小雨ちゃん、この子だれ?」
「ああ、この子は袴田心美ちゃん。今年入学した一年生で……まあ、私達のちょっとした知り合いなんだよ。心美ちゃん、この子は二年の堀江梨子。ちょっと変わってるけど、意外といいヤツだよ」
私が紹介すると、心美ちゃんは梨子ちゃんに向き直り、改めてお辞儀をした。背筋に板が入ってるんじゃないかと思うぐらい、とても綺麗な姿勢だ。ゆったりとしたその所作からは気品が感じられ、世間ずれして最近少しいい加減になってきた真紀よりも遥かに、お嬢様らしい雰囲気を醸し出している。
「袴田心美といいます。よろしくお願いします」
「うちは堀江梨子。タメ口でいいけ、梨子っち呼んでな!」
梨子ちゃんが手を差し出すと、心美ちゃんもにこやかに笑って握手を返した。二年では五本の指に入ると言われる美貌を誇る梨子ちゃんと、入学直後から学園の新しいマドンナと噂される心美ちゃん。なんと麗しい朝の風景だろう。
「じゃあ、お言葉に甘えて……これからよろしく。梨子っち……って呼べばいいのかな?」
「あははは、よかよ、心美ちゃん」
おそらく梨子ちゃんは『梨子って呼んでな』と言ったつもりだったと思うのだが、彼女の方言に慣れていない心美ちゃんは、それを『梨子っちと呼んで』という意味に受け取ってしまったらしい。まあ、本人が梨子っちでいいと言ってるんだから、私が敢えて口を挟むような問題ではないか。
それから話題は互いの出身地や梨子ちゃんの方言へと移っていった。心美ちゃんは生まれも育ちも都内で、高校も都内の女子高に通っていたそうだ。ここに進学したのは、亡くなった兄が生前通っていた大学だから、云々、でんでん。
ひとしきり話が終わると、心美ちゃんはこれまた上品な声色で、
「それじゃ、私、一コマ目から講義があるので、そろそろ失礼しますね。では、また近いうちに」
と、微かに芳しい百合の香りを残して去って行った。別れ際、瞬にちらりと目配せをしたような気がしたけど、確信はない。ほとんど会話に参加しなかった瞬に対して、『おっ、お前、いたのか』と思っただけかもしれない。
ここ数日、心美ちゃんとは何度か構内で顔を合わせている。顔見知りなのだから、会えば当然挨拶はするし、時間があれば話もする。
心美ちゃんは今日も白いパンプスで、私が知る限りでは、新学期初日以降、彼女は一度もヒールの高い靴を履いていない。それだって、大学生活にこなれてきて、わざわざ学校に気合い入れた服装で来る意味はないと気付いたからかもしれず、まあ、この時期にはありがちなことだ。瞬の身長を超さないためなのでは、という考えがちらと頭を掠めたが、それはさすがに穿ちすぎというものだろう。
多分、一昨年あんなことがあったから、私はどうしても彼女を色眼鏡で見てしまうのだと思う。彼女の兄、袴田先輩は自殺だと警察が結論を出したのだし、心美ちゃん自身に不審なところがあるわけではない。頭ではわかっているんだけど、心美ちゃんがこの大学に進学してきて、私と瞬と真紀の間に時折割り込んでくることに、何か言い様のない違和感を覚えてしまうのだ。
「なんか……」
梨子ちゃんがぽつりと呟く。
「なんか、いい子っぽいけど、どうも、綺麗すぎてちょっと怖い子っちゃね、あの子。あの、真紀ちゃんもばり綺麗やけど、あの子とも違うタイプっちいうか」
梨子ちゃんが他人に対してこういう感想を述べるのは珍しい。
怖い。そう、私が心美ちゃんに対して朧気に感じているものが、その一言に集約されている。瞬は彼女のことをどう思っているのだろうか。私は梨子ちゃんの言葉を否定も肯定もできず、その場に呆然と立ち尽くしたまま、去りゆく心美ちゃんの後ろ姿を見つめていた。
「ね~ね~。心美ちゃんって本は読まんと?」
唐突に梨子ちゃんが切り出した。
「あ~、どうなんだろ。そこまで親しいわけじゃないから……でも何で?」
「あの子が文芸部入ったら、部員そーとー増えるやん! 男は若くてかわいい子が好きやろ?」
さすが、小さな読書サークルを部にまで押し上げた姫の発想である。
「でも、本読むかどうかまでは……」
「もし読まんっち言ったら、入ってから読むフリしてもらうだけでもいいやん? ああいう子が本持っちょったら、うちらなんかよりでたん絵になるけ、聞いてみて損はなかよ」
うち『ら』なんかより、と言われたことにほんの少し傷つきつつも、私は適当に相槌を打った。
「あ~、うん、じゃあ今度会った時に聞いてみるか……」
「いや、あんなかわいい子、きっともう他の部にも狙われよるな。善は急げ、昼休みにでも織原さん連れて勧誘しに行かな」
織原さんとは、梨子ちゃんと同じ二年の、数少ない女性文芸部員である。
「もし話す機会あったら小雨ちゃんからも勧誘しといてな!」
梨子ちゃんはそう言うと、新たな部員候補を物色するべく、再び新入生狩りに繰り出していった。その背中を見ながら、真っ黒けの瞬がぽつりと呟く。
「……ほんと、毎度のことだけど、嵐のような子だな、あの子」
「うん」
筆者は北九州弁話者ではありませんので、北九州弁についておかしなところがありましたらご指摘お願いします。