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四月七日 心美

 初日の講義を一通り終え、私はすぐに大学を後にした。

 今日は午前中の二コマだけで、昼食前に全ての予定が終わってしまった。初日だから、まだ本格的な授業は始まっていない。その代わり、煩雑な対人コミニュケーションを強いられる場面が多かった。反吐が出そうだった。一日よく耐えたものだと自分でも思う。


 しかし――私は今朝のことを思い出す。いきなり初日からあの人に巡り会えるなんて。

 あの瞬間、私は天にも舞い上がるような気持ちだった。そして、これまで鼻で笑っていたはずの神、悪魔、あるいは運命というものに、心の底から感謝した。今ならナンパやキャッチにすら『ありがとう』と言えるかもしれない。


 初対面の相手が多かったから、色んな奴と挨拶を交わしたけれど、今日はあの人のことで頭がいっぱいで、ずっと上の空だったような気がする。明日からまたちゃんと覚え直さなくてはならない。

 世の中には、名前を憶えられているだけで安心する奇妙な人種がいるらしい。そして、その手の人間に対しては、『名前を呼ぶ』というただそれだけのことが、極めて重要な意味を持つ。多少面倒ではあるが、コツさえ覚えればさほど難しいことではない。名前を呼び、適当に微笑んで、時々褒めてやれば、人間の心を開くなんて造作もないことだ。

 特に、私のように清楚な容姿の持ち主に人は騙されやすいらしい。私には詐欺師の才能があるのかもしれない。絵画や壺を売りつけるバイトを一度はやってみたいと思っているのだが、その機会はあるだろうか。


 私はもともと、人間の顔と名前を覚えるのが苦手だった。だが、芋の品種と結びつけて記憶するようにしてからは苦労しなくなった。どうでもいい他人の顔が芋に見えてしまう私にとって、これは自分なりの記憶術と言っていいだろう。

 メークイン山田、佐藤男爵、キタアカリ鈴木――など、その人間から受ける印象と名前、芋の品種を紐付けして覚えることで、その相手の特徴や名前を思い出しやすくなる。ごつい男は男爵、ケバいからメークイン、田舎臭いからキタアカリ、ハゲていたらひかる、とか。相手の名前を呼ぶ際、たまに芋の品種まで一緒に口にしてしまいそうになるけれど、困るといってもせいぜいその程度。とても便利な記憶術だ。


 そもそも、名前なんて自分で選んでつけたわけでもないのだし、個体を識別する記号としての機能以外にいったい何の意味があるというのか。自分が使っている電化製品の製品番号まで把握している人は世の中にどれだけいるだろう? もちろん、自分にとって唯一無二の大切な相手ならば話は別だが、単なる知り合い程度の間柄で、名前を記憶し合うことに執着する意味があるだろうか。


 私は自分の『心美』という名前が大嫌いだった。何故って、これ以上悪質な詐欺はないと思うから。ブスな美子(よしこ)もバカな賢治も大体見ればわかるけれど、私の心の中は私にしかわからない。

 周りの人間は、まずこの『心美』という名前によって刷り込まれたイメージで私という人間を判断する。『心美』という名前が持つ言霊によって植え付けられた先入観に基づいて私の言動を見る。或いは、いかにも清楚で真面目で女性的な私の容姿から、それに相応しい人物像を勝手に思い描く。だから私は、第一印象で失敗したことがない。その後、妬みや嫉み、その他あらゆる些末な事情によって関係が変化することはあるけれど。

 普通に生活していれば、仮に私に一切何も非がなかったとしても、どこかで誰かに嫌われていたり恨まれていたりする。人間関係とはそういうものだし、そんなことをいちいち気にしても仕方ない。

 だが、私の場合、第一印象をなるべくキープするような言動を心がけていれば、人間関係は自然と広がっていく。これまでずっとそうだったし、これからもきっとそうだろう。

 心の内では嫌悪し軽蔑している相手であっても、それなりに折り合いをつけて関わっていかなければならない。その意味では、私は『心美』という名前から多大なる恩恵を受けていると言えるかもしれない。だから、今の私は、自分の名前をそれなりに気に入っている。


 ふと思い立って、私はLINEの画面を開いた。今日何回目、いや何十回目になるだろう。LINEの友だちリストに新しく追加されたあの人の名前を見るだけで、気分が高揚してくる。


 何かメッセージを送ってみようか。でも、なんて?

 構ってちゃんだとか、面倒臭い女だとは思われたくない。なるべく効果的なタイミングで、効果的なメッセージを送りたい。今はまだその時ではないような気がする。逸る気持ちを押さえながら、LINEの画面を閉じた。


 私の住むマンションは、大学から徒歩十分ぐらい、築十年の十階建て、ごく普通のマンションだ。賃貸の1Kで、私の部屋は四階の南側。マンションの隣は小さな市民球場のある公園で、その周辺をぐるりと囲むように桜の木が植えられており、部屋のバルコニーに出れば、公園全体を見下ろすことができる。桜は今がちょうど見頃で、満開の桜が咲き乱れるその風景は、青葉に来てから一番のお気に入りだった。

 青梛大には女子寮もあり、私の両親はそちらに私を入れたがった。だが、その女子寮はキャンパスからやや遠く、利便性はあまり高くない。このマンションのほうが遥かに使い勝手がよかったから、少しワガママを言ってここにしてもらった。親に対して基本的に従順な私にしては珍しいことだ。あの時だだを捏ねてよかった――バルコニーから満開の桜を眺めるたびにそう思う。


 今日は朝から雲一つない晴天で、風は少しあるものの、日差しはそれほど強くない。春のぽかぽかした陽気に誘われて、少し周辺を散策してみたくなった。これも、私にとっては極めて珍しいことだ。

 私は大学からマンションまでの最短ルートを外れ、わざと遠回りをして、桜の咲く公園沿いの道を歩いた。大小のマンションが棒グラフのように林立する住宅街の中で、そこだけが箱庭のように美しく切り取られている。桜の下では、まだ就学前と思しき小さな子供を連れた母親が、乱れ咲く桜を見上げながら、ぼんやりとビニールシートの上に座り込んでいるのが見えた。ビニールシートの上に広げられた弁当にはサンドイッチや唐揚げがびっしりと詰め込まれていたが、手をつけられたような形跡はない。

 ワアとかキャアとか奇声を上げ、狂った犬のように叫びながら滅茶苦茶に走り回る子供。それに気付いているのかいないのか、母親のほうは心ここにあらずといった様子で、視線を虚空に漂わせながら、どこかくたびれたような表情をしていた。


 桜の樹の下には死体が埋まっている。

 その麗しき怨念が人を狂わせるのだ。

 あの母親は、子供を殺すだろうか。

 呆けたような母親の顔を遠目に見ながら、私はそんなことを考えた。


 その後、近くのレストランで昼食を取り、スーパーと100円ショップで日用品と食料品を買ってからマンションに戻った。部屋に戻ったのは午後三時過ぎ。今日はもう外出することはないだろう。窮屈なワンピースを脱ぎ捨て、メイクを落とし、シャワーを浴びて一日の疲れを洗い流す。

 風呂上りの化粧水と乳液、ボディークリームなどは、一昨年の秋頃から私のルーチンワークの一部になった、比較的新しい習慣の一つだ。未だに慣れないし面倒臭いとは思うけれど、美しい肌を保つためには欠かせない。春は空気が乾燥しがちだから、肌の手入れは特に入念にしなければならない。

 私は、地道な努力というものが割と好きな方だと思う。中学から高校二年までは、部活でテニス三昧の日々を送っていた。他の誰よりも真面目に練習をしていたという自負があったし、それは結果として表れてもいた。今ではもう、ラケットを握ることすらなくなってしまったけれど。

 肌の手入れをするようになってから、それまでの自分がいかに肌に深刻なダメージを与えていたかを、遅ればせながら理解した。テニスに打ち込んでいた頃には気にも留めなかったことだ。テニスを辞めてから、小麦色に焼けていた肌は私の心と反比例するように白くなり、鏡を見ても、そこにはスポーツ少女だった当時の面影は微塵も感じられない。

 若いうちに、取り返しがつかないようなババアになる前に気付けて本当に良かったと思う。新たな愉しみを見つけた今では、ひたすらボールを追いかけ続けるあの単純な競技のどこがそんなに面白かったのか、もう全く思い出せない。


 部屋着のジャージとトレーナーに袖を通して、ようやく一日が終わる。どちらも高校生の頃から使っているもので、女らしさなんて微塵も感じられない。私は元々女の子らしい服装をさせられるのが嫌いだったはずだし、部屋着だってボーイッシュなものが多かった。もしも今新しく部屋着を選ぶとしたら、もう少し大人っぽく女性らしいものになるだろう。人間、変われば変わるものだ。どうしてこんなに変わってしまったのか、自分でも不思議に思う。


 どうして。どうして。どうして。


 小さい頃の私は、大人によくこの言葉をぶつけて困らせるタイプの子供だった。同族嫌悪というものだろうか、今の私はこういう子供が大嫌いだ。


 その日の午後はゆったりと本を読んで過ごし、シリアルと冷凍食品で素早く夕食を済ませた。夜には、同級生たちが話題にしていた春の新ドラマを見た。『サクラ・トライアングル』というタイトルの恋愛ドラマで、内容には全く興味が湧かなかった。だが、こんなくだらないものでも、見ているか否かが会話の円滑さに影響を及ぼす場合があり、知識としては頭に入れておいたほうがいい。


 退屈なドラマを見終えた私は、市販の睡眠導入剤を一錠口に含み、呷るように水を飲んで、冷たいベッドに潜り込んだ。夜更かしは美容の大敵。この睡眠導入剤は、環境の変化によるストレスで不眠になることを危惧して買ってきたものだったが、青葉の空気は都内よりも私の肌に合っていて、予想していたよりも早く適応できそうな予感があった。


 夢の中の私は男になっていることが多い。男になれたときは大抵楽しい夢で、目覚めを後悔してしまうほど、儚い余韻に満たされている。でも、夢の中でさえ女として過ごさなければならないとき、それはほとんどの場合ひどい悪夢で、寝起きの気分はいつも最悪だ。


 さて、今夜の夢はどっちだろう。

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