五月二十一日 瞬
「……はい、もしもし」
「どちら様ですか?」
日曜の朝、俺は真紀の寝室のベッドで目を覚ました。壁一面に広がる大きなガラス窓から、白いカーテンで遮り切れない陽の光が差し込んでくる。朝ってやつはどうしてこうも厚かましいのだろう。
俺が目覚めたのは、ひどくぶっきらぼうな真紀の話し声が聞こえてきたからだ。隣に彼女の姿はなかったが、シーツにはまだ彼女の体温がはっきりと残っていて、真紀もたった今起きたばかりなのだとわかる。時計を見ると、まだ短針が文字盤の『9』を過ぎたばかりだった。休日の朝としては、まだ明け方と呼んでもいい時間帯だ。
「美矢城県警? ……ええ、私が西野園真紀ですが」
警察。
その単語が持つ言霊は、ヘドロのように絡みつく眠気を振り払うのに十分すぎる威力を持っていた。俺はベッドから体を起こし、真紀の声がする方――リビングへと向かう。
リビングに出ると、真紀が寝ぼけ眼を擦りながら受話器を持っているのが見えた。裸に薄いグレーのカーディガンを羽織り、下着すら着けておらず、テーブルの上に腰掛けて足を組むという、なかなか官能的なポーズである。寝起きだから当然メイクもしていない。
ところで、真紀はメイクの有無で人格が変わるという奇妙な設定の二重人格を持っている。普段俺が恋人として接しているのはメイク後の真紀で、つまり、今の彼女はもう一人の真紀ということになる。
普段の真紀が表情豊かで甘えたがりな彼女であるのに対して、もう一人の真紀は、あまり感情を表に出すことがなく、性格も冷たすぎるぐらいにクールだ。両極端な二つの人格を持つ彼女ではあるが、今そこにいるすっぴんの彼女こそが西野園真紀の本体なのだという事実を、俺は受け入れなければならない。
念のために補足しておくが、真紀はすっぴんでもゾッとするほど美しい。ただ、血色の悪さと表情の乏しさのためか、無機的で生気に欠け、人形のような印象が強くなる。全く同じ顔だというのに、化粧と人格でこうも違って見えるものか、といつも驚かされるのだ。
俺の姿に気付いた真紀は、苦笑を浮かべながら電話機のスピーカーボタンを押す。スピーカーから聞こえてきたのは男の声だった。
「一昨日の晩に起こったサークル棟の事件についてはご存じですね?」
「ええ、もちろん。心美ちゃんはどうなったんですか?」
「袴田心美さんは、あくまで任意同行でしたので、昨日は事情聴取の後、そのままマンションにお帰り頂きました。ただ、未だ重要参考人の一人であることに変わりはありません」
「そうですか。でも、どうして彼女が? あの事件と心美ちゃんにどういった関係があるんですか? もし、一昨年の出来事のせいで彼女が不当に疑いを持たれているのなら……」
一昨年、袴田家の別荘で起こった出来事。心美ちゃんの兄であり、俺達三人を別荘に招いてくれた先輩が亡くなった事件のことだ。それは、ミステリマニアをこじらせた真紀の素人探偵ぶりを初めて目撃した事件でもあった。心美ちゃんと知り合ったのもこの時である。
「ええ、まさにその一昨年の件も含めて、青葉に来る以前の袴田さんを知っている貴方達三人のお話を伺いたいのですよ。さらに、貴女はこの冬に馥志磨で起こったアマチュア作家殺人事件を解決に導いたとお聞きしました。探偵としての実績もお持ちである西野園さんに、今回の事件についての見解をお伺いしてみたいですね。もちろん、事件に関する情報も可能な範囲で提供させていただきます。その中で、何故袴田さんに疑いがかけられているかについても説明させて頂くつもりです」
「ギブアンドテイクというわけですか」
「そう受け取って頂いても構いません。いかがでしょうか、都合のよい日時を指定していただければ、こちらから伺いますが……」
「そうですね……今日は大学も休みですし、特に予定もありませんから、今日の午後でもよければ空いてますが」
「ええ、こちらは今日でも問題ありません」
真紀が不意にこちらを向く。
「今の聞いてたよね。瞬はどうする? 一緒に行く?」
俺は即座に頷いた。俺自身、全く無関係の事件ではないからだ。
「ああ、もちろん」
「じゃ、あとは小雨にも聞いてみなくちゃね。……あ、もしもし。瞬は今確認を取りました。小雨にも私から連絡しておきます。彼女も基本的にインドア派の暇人だし、おそらく時間はとれるはずです。都合がつき次第こちらから折り返し連絡しますので、連絡先を伺っても……ええ、はい、わかりました。それでは」
刑事らしき男との通話が終わると、真紀は額をさすりながら、ふう、と大きくため息をついた。
「朝っぱらから起こされて気分悪かったけど、何だか面白くなってきたじゃない」
人が一人死んでいる事件に対して面白いと形容する彼女の辞書には、おそらく『不謹慎』という言葉が欠けている。
「おい、見世物じゃないんだから……」
「そんなこと、いちいち言われなくてもわかってるよ。でも、今日はどうせ、またろくすっぽ服も着ないでベタベタベタベタするつもりだったんでしょう?」
「うっ……」
言葉に詰まる俺を鼻で笑いながら、真紀は細い脚をゆったりと組み直す。
「まったく……サルじゃあるまいし、人の体を好き勝手に使いやがってさあ。まだ小雨とも関係は続いてるんでしょ、股にぶら下げてるソレ、阿部定みたいに、そのうちどっちかに切り落とされるぞ」
俺の上に跨り、鋭く光る包丁を俺の股間へと降り下ろす真紀、あるいは小雨。その光景をうっかり想像してしまい、背筋が凍るような思いがした。
「あ、さっきの件、小雨には瞬から説明しといて」
真紀は素っ気なくそう言うと、軽やかにテーブルから飛び降りて、そのまま化粧台に向かった。世紀の人格交代ショーの始まりである。
ちなみに、本体の人格が出ている時の記憶はメイク後の彼女には引き継がれない(逆の場合はしっかり記憶が共有されているのだが、これはやはり基本人格と主人格の差、あるいは主人格と交代人格の差だろうか)ので、小雨への連絡の後、真紀にももう一度事情を説明しなければならない。少々ややこしいが、これは俺の彼氏としての義務でもある。
小雨にLINEを送ると、すぐにOKという返事が貰えた。日曜の朝だからまだ寝ているはずだと思っていたのだが、すぐ既読がついたことに、俺は少なからず驚いた。
昨日は落ち込む梨子ちゃんを宥めるため、彼女の部屋に泊まり込みで話を聞いていたらしい。泣き疲れた梨子ちゃんは日付が変わった頃に眠ってしまったが、小雨はまだ目が冴えていた。週末の夜ならいつもは寝酒を飲んでから床につくのだが、昨夜ばかりはそうもいかず、そのまま眠れぬ夜を過ごしたそうだ。
知り合いが殺されたのは梨子ちゃんだけでなく、小雨にとっても同様である。梨子ちゃんが眠ってしまうと、急に生前の織原さんのことが思い出され、悲しくて眠れなくなってしまった――小雨からのメッセージにはそう書かれていた。
もしかしたら、刑事との話の中で、小雨にはショッキングな内容もあるかもしれない。一応、辛かったらあまり無理はするなよ、と送っておいた。
小雨への連絡を済ませると、ちょうど真紀のメイクも終わったところだった。人格が交代したのを確認して、俺は真紀に先程の警察からの電話の内容を伝える。
「ああ、よかった……心美ちゃん、拘留されてるわけじゃないんだ」
「うん。まあ、でも疑われているのは事実らしい。で、それも含めて、青葉に来る以前から心美ちゃんを知っている俺達にも話を聞いてみたい、ついでに美人で有名な素人探偵のご尊顔を拝してみたい、多分そんなところじゃないかと思う」
「う~ん、でも、青葉に来る以前の心美ちゃんを知ってるって言っても、私たちも別荘で二、三日一緒に過ごしただけだから、有益な情報を提供できるかどうか……それに、探偵が目当てなんだったら、私が出てこないほうがよかったんじゃ?」
「刑事と話をつけたのは向こうの真紀なんだぞ。彼女があえて君を呼び出したんだから、それでいいんじゃないか」
「そっか……なるほど。まあ、心美ちゃんが疑われている根拠を説明してもらえるのなら、それは是非聞いてみたいね」
連絡先にあった伊達という刑事に全員の確認がとれた旨を報告し、午後に大学近くの喫茶店で会うことになった。先日、里見刑事が青葉まで来たときに使った、人気も人気もない喫茶店である。
大学の近くで小雨と合流して喫茶店に向かうと、珍しく先客がいた。どことなく退廃的な雰囲気の漂う黒いスーツの男、一見すると、仕事をサボっている営業マンという雰囲気だ。だが、三枚目の俳優のような渋めの顔立ちに、中途半端なパーマがかかったヘアスタイル、シャツの裾がしまわれていなかったりと、営業マンにしては見た目にあまり清潔感がない。不審に思いながら様子を窺っていると、男はつと立ち上がり、こちらへやってきて、胸ポケットから黒革の手帳を取り出した。
「どうも、お待ちしておりました。美矢城県警捜査一課の伊達と申します。……ああ、不思議な顔をしておられますね。刑事らしくないとはよく言われます。それにしても、静かでいい店ですね、ここは」
俺達三人に伊達刑事を加えた四人は、早速テーブルにつき、今回の事件についての情報交換に入った。
「我々が袴田心美さんを最重要参考人と見ているのは、彼女が被害者である織原伊都子さんの交際相手、諸星亘と深い関係にあったと見ているからなのです。しかし、袴田さんの友人関係や諸星の周辺を洗ってみても、あまり詳しいことはわからなかった。ですが、青葉に来る以前から面識のある皆さんになら、もしや何か話しているのではないか……特に西野園さん、貴女は袴田さんと同じ学部で、他のお二人よりは幾分顔を合わせる機会が多いのではないかと推察されます。いかがです、袴田さんから諸星の話を聞いたことはありませんか?」
俺たちは互いに顔を見合わせた。真紀も小雨も、そしてもちろん俺も、心美ちゃんから諸星という男の話を聞いたことはない。伊達刑事から『特に』と名指しされた真紀が、軽く首を傾げながら答える。
「いいえ、その諸星という人に限らず、特定の男性の話は聞いたことがないですね。その諸星という人と心美ちゃんの間に、何かあったんですか?」
「ええ、事件のあった夜、袴田さんはその諸星と一緒に食事をした後、穀分町にあるラブ……いや、カップルズホテルに入っているんです」
ラブホテル。その言葉の意味するところを想像し、俺たちは思わず絶句した。もちろん、心美ちゃんがどんな男とどう過ごそうと彼女の自由なのだが、それを他人の口から聞かされると、妙に生々しく感じてしまうものだ。
「二人の話では、会うのはその日が三度目で、まだそれほど深い関係ではなかったといいます。ホテルに入ったのは事件の夜が初めてだし、袴田さんはワインを飲んでへべれけになっており、本意ではなかったと。しかし、それがどこまで本当なのかは本人たちにしかわかりませんし、警察としては、鵜呑みにするわけにはいかないのです。諸星には被害者である織原伊都子と袴田さん以外に女性の影が見えませんし、被害者の人間関係を探っても、殺人に繋がるような動機を持っている者は見当たらない。俗な見方ではありますが、男女間のもつれから起こった事件だと考えるのが最も自然です。新しい女ができて前の女が邪魔になった諸星による犯行か、袴田さんが諸星を独占するためにやったか、あるいは、二人が共犯ということも十分に考えられます。我々が袴田さんを重要参考人と考えている理由がおわかりいただけましたでしょうか」
「……ええ、一応、警察の捜査方針として、それが一般的なものであることは理解します。でも、それって状況証拠ですらないし、具体的な根拠があるわけではないですよね? 私たちは心美ちゃんから恋愛相談なんて受けたことありませんし、それについては何のお力にもなれないと思います」
真紀の返答に伊達刑事は若干残念そうな表情を見せたものの、すぐに次の話題を切り出した。
「……そうですか。いえ、お伺いしたいことはこれだけではありません。一昨年の夏に起こったという、袴田さんの兄が亡くなった事件についてです。公式には自殺と処理されたそうですが、少々ややこしい案件だったと、内部資料には記されていました。実際に現場に居合わせた皆さんの口から、どういった状況だったのかお聞かせ願いたいのです」
「……それは、瞬が一番よく知っているんじゃないかな?」
詰るような真紀のジト目が、俺の横顔にグサグサと突き刺さる。一昨年の夏、あの事件が起こった時間、袴田家の別荘の離れの一室で、真紀と小雨は爆睡していた。つまり、リアルタイムで経過を話せるのは俺しかいない。
ここでその事件の詳細に言及するのは控えておくが、真紀がわざとらしく俺に話を振ったのにはそれなりの理由がある。当時はまだ真紀と付き合う前だったし、モラルに反する行為は全くなかったはずなのだが、やっぱり真紀はまだほんの少し根に持っているようだ。
刑事相手に無意味な隠し事をしたくはなかったので、俺は一昨年の事件について、ありのままを話した。すると、何をどう受け取ったのかはわからないが、伊達刑事はニヤニヤと薄笑いを浮かべながら目を細めて俺を見る。
「ほう……それは実に興味深い事件ですなあ」
「いや、しかし、これは今回の事件と何の繋がりもないのでは?」
「ええ、ところで、失礼ですが、瀬名さんと袴田さんはその……」
何かを言い淀み、ちらと真紀の表情を窺った伊達刑事は、結局その先の言葉を口にしなかった。
「……いえ、何でもありません。ところで瀬名さんは車を持っていらっしゃいますか?」
「ええ、まあ」
「一昨日の夜九時から十一時の間、どこにいらしたか、お聞きしてもよろしいですか?」
「その日の夜でしたら、ずっと家で、自分の部屋にいました」
「それを証明できる方は?」
「両親が家にいたので、両親に聞いていただければ」
「……なるほど。ありがとうございます」
こういう場合、家族の証言はあまり重要視されないんだったか。一昨日の夜といえば小雨が俺の部屋に来たのだが、それは日付が変わってからだったし、できることならこの場では言いたくない。伊達刑事の質問は九時から十一時までの間に限られていたから、聞かれたことに対しては正確に答えたはずだ。
伊達刑事はここで一つ咳払いをし、眦を決したようにじっと真紀の顔を見つめた。
「さて、ここから先は、探偵としての西野園さんの知恵をお借りしたい。つまり、あの犯行がどうやって行われたか、誰が犯人なのか。知り合いが絡んだ事件でやりづらいかとは思いますが、是非ご協力いただきたいのです」




