袴田心美の供述
袴田心美のいる取調室に入った伊達は、最重要参考人である女の姿を見て、そのあまりの美しさに、思わず嘆息した。
ヤニ臭い取調室、薄汚れたテーブル、そしてそこに座っている白いワンピースの女。ツヤのある長い黒髪、ほんの少し俯き目を伏せたその姿は、まるで戦場に咲く一輪の花のように可憐で――この比喩は決して大袈裟ではない。
片倉から美人だとは聞いていたが、まさかこれほどとは。自分があと二十年、いや十年若くて、街で彼女を見かけたとしたら、声をかけずにはいられなかったかもしれない。
一般論を言うならば、ヒモの分際で浮気に走った諸星はもちろん責められて然るべきなのだが、一人の男としての観点に立てば、彼にはとても共感できる。そして、もし伊達が諸星と同じ立場であったなら、おそらく諸星と同じ選択をしたであろうと確信した。この女を目の前にして魔が差さないと断言できる男がいたとしたら、そいつはゲイか嘘つきに決まっているのだ。
しかし、ここは夜の街ではないし、彼女がこの取調室にいるのは、殺人事件の最重要参考人だからである。もっと違う場所で出会いたかったものだ、と思いながら、伊達は椅子に腰掛け、袴田と向き合った。
「どうも、美矢城県警捜査一課の伊達と申します。まずは、わざわざご足労頂いて、ありがとうございます」
「いえ、私でお役に立てるのでしたら」
爽やかでクセがない、いい声だ、と伊達は思った。
「まずは、昨晩どこで何をしていらしたのか、お伺いしたいのですが」
「昨晩は……ええ、諸星さんに誘われて、七時に穀分町のディズニーストア前で待ち合わせ、イタリアンのレストランに行きました。そこで、ワインがおいしかったので、ついついいつもより多く飲みすぎてしまい……あっ、警察の方の前で、すみません」
袴田は未成年であり、法的には飲酒が認められていない。しかしそんなこと、今はどうでもいいのだ。未成年の飲酒を罰するのはせいぜいSNSの暇人の仕事であって、警察の、そして捜査一課の仕事ではない。
「いえ、私も十代の頃から親の酒をくすねて飲んでいましたよ。タバコだって始めたのは中坊の頃でしたし……いや、だからいいってわけじゃないんですが……推奨するわけではなくてですね」
すると、袴田は口元を隠しながら上品にくすくすと笑った。いやはや、これはどうも調子が狂う。相手が好みのタイプだからといって、捜査に手心を加えるわけにはいかないぞ、と伊達は気を引き締め直した。
「それで、そのレストランを出て、ホテルに移動したわけですね」
「ええ、はい、そうなるのでしょうか。実のところ、そのあたりからしばらくは記憶が曖昧で……反省しています、男性との食事の席で、前後不覚に陥るなんて」
「では、記憶があるのはどのあたりからですか?」
「ええと……シャワーを浴びたあたりですね。急に酔いが醒めてきて、私はいったい何をしているんだろう、これからどうしよう、って……色々考えながらゆっくりシャワーを浴びて。今更『そんなつもりじゃなかった』なんて言っても信じてもらえないだろうけれど、そう話すしかないのかな……と思ってバスルームを出たら、その時既に、諸星さんは鼾をかいて眠っていました」
「……ほう。それは良かったですね」
「ええ、本当に、ほっとしました。それから急いで服を着直して、ホテルを出て、そのままマンションに戻りました。部屋に着いたのは、ええと……何時だったかしら、日付は変わっていなかったと思いますが、まだ酔いも残っていましたし、夜風で頭を冷やしたくて結構ゆっくり歩いたので、十一時は過ぎていたと思います」
「その間、貴女の行動を証言してくれる方は……」
「いないですね」
「そうでしょうね、ふむ……」
ここまでの二人の供述の中で、事件当日の行動それ自体に関する食い違いはない。しかし、諸星の供述では、袴田の方も彼に対して気があったような印象を受けたが、袴田の供述はニュアンスがかなり異なっている。次はその辺をつついてみようか、と伊達は考えた。
「そもそも、貴女と諸星さん、そして被害者の織原さんとはどういったご関係で?」
「被害者の織原さんは、大勢いる顔見知りの一人ですね。普段から、結構たくさんの方に声をかけていただいているので、その中の一人という感じで……以前、文芸部の勧誘に来たことは覚えているのですけれど、それ以外に話した覚えはありません。だから、織原さんと諸星さんが付き合っていたということも、ここに来て刑事さんの話を伺って初めて知ったぐらいで」
「しかし、貴女は織原さんをLINEの友達に登録していらっしゃいますよね? サークルの勧誘に来て一度話しただけの相手と、LINEを交換するものでしょうか」
「……ああ、それは、勧誘されたとき織原さんと一緒にいた梨子っち……いえ、二年の堀江さんに交換しようと言われて、織原さんはそのついでに交換したように記憶しています。堀江さんに確認していただければ、わかると思いますけれど」
堀江、梨子……そういえば、最初に片倉から連絡が来た際、メールに書かれていた情報の中で、織原伊都子に関する事情聴取に応じた女子大生が、そんな名前だったような気がする。
「ふむ。では、貴女と諸星さんとのご関係は? 一緒にご食事をされたのは、昨夜が初めてではないそうですが」
「はい。諸星さんとお食事をするのは、昨夜が三回目ですね。元はと言えば、私の不注意で彼の服を汚してしまったことが原因だったんです。あれは確か、GW明けだったでしょうか……諸星さんの服にコーヒーを零してしまったんです。それで、お詫びの意味も込めて、その日の昼に喫茶店で軽くコーヒーを飲んだのが最初でした。次はクリーニングの終わった服を返すときで、その時は、確かにレストランでちゃんと食事をしました。それで、別れ際に、諸星さんの方から『また会いたい』と言われて。正直、その気はなかったんですけれど、面と向かって嫌とも言えませんし、一応、その場では適当に『ええ、是非』と答えておいたんです。でも、どうやらそれを真に受けてしまったみたいで、大学でも結構しつこく誘われて……」
やはりこのあたりは、諸星の供述と大きく食い違っている。仮にどちらかが真実を語っていたとしても、言った言わないの話になると、それ以上確かめようがないのである。
ただし、二人が共犯である場合は両方が嘘を吐いている可能性が極めて高いわけで、事件の動機が三角関係の縺れによるものであれば、それを隠そうとするのは当然のことと言える。
「しつこく、とは?」
「ええ、人目のないところを狙って、何度も。服を返さなければならないので、連絡用にLINEの交換もしたのですが、通話がきたこともありましたね。だから、一度ちゃんと会って、これで最後にしてほしいという話をするつもりでした。それが、こんなことに……」
嘘だ、と伊達は直感した。会いたくないなら徹底して避ければいいだけの話で、これほどの美人ならば、寄ってくる男のあしらい方を知らないはずがない。もし自分一人で対処できなかったとしても、知り合いに相談すればいいだけの話であるし、共通の知人(堀江梨子といったか)がいるのなら、人伝に織原伊都子の耳に入る可能性だってあったのだ。
やはりこの女は何かを隠している。
伊達はここで早くも切り札を出すことにした。
「実はですね、被害者の織原伊都子さんのスマートフォンから、貴女にLINEでこのようなメッセージが送られているんですよ。午後九時二十分から数分間ずっと。つい昨晩のことですから、もちろんご存じですよね?」
伊達はそう言って、小さく折り畳んだ紙を懐から取り出した。それはA4の用紙にプリントアウトされたLINEのトーク画面のスクリーンショット。紙を広げ、テーブルに乗せて、袴田の目の前へと差し出した。
トーク画面をびっしりと埋め尽くす『人殺し』という文字。そして、その終わりに一言『いつもの場所で待つ』と書いてある。さて、どういう反応を見せるだろう。
「顔見知り程度の相手に『人殺し』とは、冗談にしても穏やかではありませんね。その上、最後には『いつもの場所で待つ』と。随分意味深だと思いませんか? 昨晩、貴女もこのメッセージを目にしているはずだ。このトーク画面には既読がついていますからね」
すると、袴田はわざとらしく眉を顰めた。
例えば、もしこれがディナーの席だったとしたら、伊達はそんな彼女の表情すらも愛おしく感じたであろう。眉根を寄せたその角度、愛くるしい瞳、その全てが、伊達の審美眼にかなっている。
「ああ……これ、織原さんからだったんですか? ……私、普段LINEの通知はオフにしていて、いつも何十か何百件か、それぐらい溜まってからまとめて読むんです。だから、よほど重要なものでなければいちいち読みませんし、どれが誰のものだかわからなくなったりして……。確かにそのメッセージには見覚えがありますが、人違いかイタズラだと思ったので、誰からのものかも確認せずに画面を閉じました……でも、言われてみれば……もしかしたらそれは、私に対するSOSのメッセージだったのかもしれないんですよね……誰かに襲われて、助けを求めようとして、とにかく誰かにLINEを送ってみたのかもしれない。だとしたら、私がこれを見てすぐ警察に連絡していれば……」
SOSだったかもしれないとは、なるほど、うまく言い逃れたものだ。まあ、あまり簡単に口を割られては面白くない。この袴田の発言に対して、伊達はすぐに反論を述べた。
「SOSのメッセ―ジだったにしては、量が多すぎませんか? 数十行にも渡って『人殺し』という言葉が繰り返されている。予測変換を使ったにしても、これを入力するためにはそれなりの手間がかかります。それに、最後の『いつもの場所で待つ』。もし助けを求めているのなら、何故敢えてこのような表現を選んだのでしょう? 直接場所を指定したほうが、助けが来る確率は高いはずです」
「……私にそう聞かれましても、私が送ったメッセージではありませんし、答えようがないですね。仰る通り、SOSでないのだとすると、何故私にこんなメッセージが送られてきたのかわかりません。やっぱり送る相手を間違えたとしか」
たしかに、袴田の立場ではそうとしか答えようがないだろう。
客観的に見れば今の伊達の追及は言いがかりに近いレベルのもので、LINEのメッセージ自体には何の証拠能力もないし、このメッセージについて追及されることを予期して対応を考えておくことも可能だったはずだ。が、それにしても、袴田はボロを出すどころか狼狽えるような素振りすら見せなかった。彼女が犯人だとしたら、見かけによらず相当肝が座っている。これは厄介な事件になりそうだ、と伊達は思った。
「……そうですね、失礼しました。本日お聞きしなければならないことは以上です。明日以降、捜査に何らかの進展があった場合、再びお話を伺う機会もあるかもしれませんが、これは任意同行ですし、今日はこのままお帰り頂いても構いません」
「帰ったら、証拠隠滅の恐れがある、なんて言われませんか?」
むしろ逆である。切断された被害者の頭部は未だ発見されておらず、犯人が現場から持ち去った可能性が高い。もしも袴田或いは諸星が犯人で、まだ頭部をどこかに隠しているとすれば、捜査の手が及んだことに怯え、慌ててその処理に動くかもしれないのだ。被害者の頭部と犯人をセットで捕捉できれば、これ以上ないほど確実な証拠となる。
「いえ、少なくとも現時点では、そこまで強い嫌疑がかけられているわけではありませんよ」
「でも、貴方は……伊達刑事は、個人的に私を疑っていらっしゃる。違いますか?」
伊達は、目の前に座っている女の度胸に対して舌を巻いた。取調室で刑事とタイマン張って、この挑戦的な態度はどうだ。白か黒かはさておいて、伊達はますますこの女が気に入った。犯人であってほしいような、犯人であってほしくないような、被疑者に対してここまで特別な感情を抱いたのは初めてだ。
「……参りましたね。ええ、否定はしません。ですが、私はフェアプレーをモットーにしていますし、何より、こう見えてもフェミニストなんですよ。特に、美しくて大胆で刺激的な女性に対してはね」
すると袴田は、殺風景な取調室に不似合いなほど華やかな笑みを浮かべた。それは彼女がこの取調室で初めて見せた満面の笑顔で、笑うと小さな笑窪ができるという新たな発見があった。
「じゃあ、帰らせて頂きます。ちょうど、お腹も空いてきましたし」
「では、送るついでに夕飯を奢りますよ」
「……いいんですか? 被疑者と食事しても」
「ええ、もうすぐ勤務時間が終わって、プライベートな時間になりますから」
これは嘘だった。もし上司にバレてしまったら、公私混同甚だしいとカミナリが落ちる案件である。
そろそろ司法解剖の結果も出るはず。それらの所見を踏まえ、明日からは一層捜査に本腰を入れて当たることになるだろう。彼女に手錠をかけることも有り得る。そうなってしまったら、もう絶望的。もしかしたら、チャンスは今夜しかないかもしれないのだ。
バレたら、また始末書を書けばいいだけじゃないか。リスクとリターンを比較すると、美人との食事の前では、始末書なんて些細なリスクである。
たとえその相手が、ホンボシに限りなく近い被疑者だったとしても。




