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諸星亘の供述

 片倉刑事の報告を受けた伊達刑事は早速、重要参考人である諸星亘と袴田心美の二人がいる青葉中央警察署へ足を運んだ。


 取調室の前では、同僚の鬼庭刑事が伊達の到着を待っていた。鬼庭は伊達より年長の刑事で、豊富な経験に基づく人物眼には伊達も一目置いている。捜査一課では一番小柄で、白髪交じりの生え際も後退気味ではあるが、その浅黒い肌と魚の目のようにぎょろりとした鋭い眼光は、熟練刑事の貫禄を十分に漂わせていた。年季の入ったグレーのチェスターコートは、もはや彼のトレードマークになっている。


 伊達が小さく頭を下げると、鬼庭は軽く手を上げてそれに応えた。


「どうですか、鬼庭さん」


 鬼庭は声を潜め、開け放たれた扉から取調室の中を顎で指して答える。


「男の方は、見ての通りだ。あれが演技なら大したもんだがな」


 伊達が中を覗き込むと、諸星亘と思しき男は、取調室の椅子に身を沈め、時折呻き声を上げながら泣きじゃくっていた。黒いジャケットとズボン、被災した貧乏学生というプロフィールから浮かぶイメージより、身なりは随分しゃんとしている印象を受けたが、その顔は涙と鼻水で汚れており、見ているこちらが気の毒になってくるほどだ。

 織原伊都子の交際相手だった諸星は、建前上、遺体の確認という名目で署に来ているはずだ。つまり、自分の彼女の変わり果てた姿を、否が応にも目にしているわけである。


「他の女と遊んだ夜に本命の彼女が死んでしまって、心から後悔している……俺にはそうとしか見えないがな」

「諸星の身辺について、何か新しい情報は?」

「うむ、高校時代はまずまず勉強のできる真面目な青年だったらしいが、進学と共に田舎から青葉に出てきて、その反動が出たようだな。パチンコと風俗で両親の保険金の大部分を使い果たし、どうにも首が回らなくなった時期に出会ったのが被害者の織原伊都子。諸星はそれから被害者のアパートに転がり込み、バイトもせず、ひたすら小説を書きながらヒモ生活を送っていたようだ」

「へえ、小説ね……」

「うむ、俺もよくわからんのだが、小説を電子書籍で出して、売り上げを学費の足しにしていたそうだ。被害者の中絶の費用も、諸星の小説の売上から捻出したそうだよ」

「え、中絶?」

「なんだ、知らなかったのか。被害者の織原伊都子は、今年に入ってから堕胎手術を受けているらしい。もっとも、被害者は未成年だし、田舎の両親には諸星のことを知らせていなかったから、闇医者で受けるしかなかったようだが」


 へえ、と生返事をしながら、これは捜査に直接関係する情報ではないだろうと伊達は判断した。不幸と言えば不幸だが、男を見る目がなかったのなら、自業自得とも言えるのだ。


「諸星の昨夜の足取りと、本人の供述に齟齬はありましたか?」

「いや……大した収穫は無しだ。昨夜は七時に袴田心美とのデートの約束が入っており、時間通りにディズニーストア前に行った。七時半から付近のレストランで夕食、九時前後にホテルへ移動。その際酒を飲んで爆睡し、コトに及ぶことなく気付けば朝だった……とこういうわけだ」

「なるほど。恋人に死なれた上に遊んだ女ともヤれずじまいでは、たしかに踏んだり蹴ったりでしょうな」

「……伊達、お前、そういう物の言い方をしているうちはいつまでたっても結婚できんぞ」


 鬼庭の余計なお節介を聞き流し、伊達はさらに質問を続ける。


「被害者と袴田についてはどうですか?」

「うむ、諸星はあの通り人間の屑を体現したような男だからな。まさに被害者のヒモだったわけだ。それが、どういうわけか偶然美人の女の子と知り合ったもんだから、一昔前の文豪よろしく、芸の肥やしに遊んでみようと考えたらしい。残り少ない両親の保険金をはたいて、高い飯を食って高いホテルを予約……これじゃ、死んだ仏さんが浮かばれないな」

「ふむ。諸星は本当にホテルの部屋で一晩過ごしていたのか、裏付けは取れていますか?」

「ああ、部屋には袴田以外誰も入っていないし、翌朝まで諸星の姿を目にした人間はいないわけだから、厳密にはアリバイがあるとは言えないがな。ホテルの部屋は四階、外に出るにはフロントを通るか非常口から降りるか、このいずれかしかないわけだが、非常口のほうは、開けられた形跡がない。さらに、非常口付近には防犯カメラが取り付けられていて、諸星と思しき男の姿は映っていなかった。フロントは言わずもがなだ。窓から飛び降りでもしない限りホテルの外に出ることは不可能だが、そしたらあいつもお陀仏だから、犯行はほぼ不可能だったと判断していいだろう」

「例えば、窓からロープのようなものを下ろして、それを伝って外に出た可能性は?」

「それもまず無理だろう。いくら夜とはいえ、あの辺は人通りの多い繁華街だぞ。四階からロープを伝って下りたりすれば、その姿を多くの人間に目撃されることになる。それに、仮に首尾よく脱出して大学へ向かい犯行に及んだとして、ホテルから大学に向かい、再び戻ってくるまでの間、ロープはずっと下げっぱなしになる。それだけの時間ずっと窓からロープが垂れていたら、さすがに回りの人間の目に留まるだろうし、不審にも思われるだろう。推理小説なんかではよくそういう無理な仮説が出てくるが、現実的には有り得んな」


 ふむ、と相槌を打ってから、伊達は別の可能性を思い付いた。


「タクシーを利用すれば、移動時間は大幅に短縮できるのでは? もしくは、車を持っている誰かに頼んで……そう、諸星は免許を持っていないのですか?」

「免許は持っていない。学部内にも友人はおらず、文芸サークル内に一応創作仲間と呼べるようなものはいたらしいが、サークル外で交流を持つほど親しい間柄ではなかったそうだ。実際、文芸部員に話を聞いてみたら、被害者と諸星が同棲していることすら誰も知らなかったらしい。仮に車を出した者がいたとしても、殺人事件の片棒を担がされたと知って尚諸星を庇おうとはしないだろう。タクシーはこれから当たってみるが、まあ望みは薄いだろうな」


 どうやら鬼庭は、今回の事件が諸星の犯行である可能性は低いと考えているらしい。伊達は鬼庭の報告に謝意を示してから、諸星亘のいる取調室に入った。


「どうも、この度はご愁傷様で……」


 声をかけてみたが、諸星は依然がっくりと項垂れたままで、返事はない。おそらく、自分がもし袴田心美と会っていなかったら、そして昨晩織原伊都子と一緒に過ごしていれば、こんな事件は起こりようがなかった――そのように、自らを激しく責めているのだろう。こういう場合、被害者と親しい間柄の被疑者になんと声をかけたらよいものか、いつも迷ってしまう伊達である。


「今まで伺ったことの繰り返しになるかもしれませんが、昨晩の行動をお話していただけますか?」

「……俺が疑われているんですね」

「いえ、これは関係者全員にお尋ねしていることですので……」

「伊都子の関係者なんて、俺以外にほとんどいないでしょう。それに、俺は疑われてもしようがない人間だ。何度でもお答えしますよ。昨日は大学の講義が終わった後、ATMに寄って、電子書籍の売り上げの残金数万円を全て下ろして、この服を買ってから袴田さんとの待ち合わせ場所に向かいました」

「穀分町のディズニーストア前ですね」

「はい……それから近くのイタリアンレストランで袴田さんと一緒に食事をして、店を出たのは九時前後だったと思います。彼女はワインをかなり飲んでいて、足元もおぼつかないような状態で……正直、これはいけると思いました」

「ええ……まあ、そうでしょうね。心中お察し申し上げます」


 と口走ってから伊達は、最期の一言が余計だったな、と反省した。だが、へべれけになった女をホテルに連れ込んでよろしくやるつもりが、今度は自分が潰れてしまって結局何もできなかったとは、確かに痛恨の極みだっただろう。


「ホテルまで予約しておいてなんですが、あまりに上手くいきすぎて、我ながら驚いてはいました。それから部屋に入って、先にシャワーを浴びるように言われ、シャワーから上がると、袴田さんはルームサービスでワインを注文して、また飲んでいました。まだ飲むつもりか、とは思いましたが、ここまで来て機嫌を損ねたくなかったですし……俺の分もグラスにワインが注いであったので、彼女がシャワーを浴びている間にそれを飲みました。それから二十分ぐらい経った頃でしょうか、急激な眠気が襲ってきて……」

「その時飲んだワインの色や味に、どこかおかしなところはなかったですか? 妙に苦味があるとか」

「ううん……どうでしょう、ワインは普段ほとんど飲まないので、味なんてわかりませんでした。朝起きたときは、しまった、慣れないワインなんか飲むからだ、と思いましたが」


 急激な眠気、と聞いて真っ先に思い浮かぶのは睡眠導入剤だが、入浴後の血流量が増大した状態で慣れないワインを飲んだため、急速に酔いが回っただけである可能性も否定できない。


「袴田さんとお食事をしたのは、今回が初めてではない、と伺いましたが」

「ええ、昨夜が三度目ですね。彼女が僕の服にコーヒーを零したのがきっかけでした。誘っても断られませんでしたし、夜に会おうと言ってきたのは彼女の方でしたから、まあ、その、舞い上がってしまって」

「その辺りのやり取りは残っていますか?」

「……いえ、文字で残してしまうと、伊都子にスマホを見られたときに一発でバレてしまうので、袴田さんの名前も別人で登録していたし、連絡は通話機能を使っていました」


 なるほど、浮気バレを警戒して痕跡が残らない手段を使っていたということか。しかし、いくら男が小細工を用いても、女って奴は随分鼻が利くし、身震いするほど勘が鋭いものである。


「最近、被害者の織原さんに変わった様子はありませんでしたか? 例えば、貴方と袴田さんのことに気付いていた可能性は?」

「それは……気付かれていなかったつもりですが、絶対とは言い切れません。このところ、中絶手術の後遺症のせいで塞ぎ込んでいることが多かったので、変化があっても、俺が気付けなかっただけかもしれない」


 諸星から聞くべきことは大体これぐらいだろうか。無論、彼の供述を鵜呑みにするわけではない。諸星に確固たるアリバイがないのは事実だし、この事件の動機が男女のもつれであるとすれば、諸星と袴田が共犯であることも十分に考えられるからだ。彼単独での犯行が難しかったとしても、袴田、もしくは第三者の協力があれば、あるいは。

 とはいえ、伊達は実のところ、諸星の話にそれほど大きな期待を持っていたわけではなかった。仮に二人が共犯だったとしても、より大きい役割を担っていたのは袴田のほうではないかと考えていたからだ。二人の供述に矛盾点が出てくる可能性はあるし、諸星の供述内容もしっかり精査せねばならないが、いずれにしても、本丸は次の袴田の方だろう。今ここにいるクズ男が、伊達の目には、大胆な殺人計画を企てるような人間にはとても見えなかったからだ。


 伊達は諸星にもう一度お悔やみを述べて、取調室を後にした。

 ところで、伊達は食事の際、好物を最後までとっておくタイプである。つまり、メインディッシュは次なのだ。頬を両手でパチンと叩き、気合を入れ直してから、袴田心美が待つもう一つの取調室へと向かった。

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