五月二十日 真紀(3)
心美ちゃんが刑事に任意同行を求められ、小雨が学食を飛び出して行って、テーブルに残ったのは私と瞬の二人だけになってしまった。二つの空席の前には、小雨の食べかけの鯖味噌定食と心美ちゃんのハヤシライスが、どちらもそのままの形で放置されている。
お昼時の学食はいつも人で溢れ返っており、今日だって、二十卓はあろうかという四人席のテーブルがほとんど満席状態になっている。警察に連行される心美ちゃんの姿は必然的に衆目に晒される羽目になってしまい、あれからもう数分経つというのに、どよめきは未だに収まる気配がない。
「何故心美ちゃんが……あの刑事はたしか、昨夜の心美ちゃんのアリバイを尋ねたとき、諸星亘、という名前を口にしていたよね。瞬にも聞こえた?」
「ああ、うん……確かに、そんなようなことを言っていたような気がするな」
あ、この反応は、絶対聞いてなかったな。まあいいや。
「小雨は、被害者と思われる織原伊都子という女性と、諸星亘という人物がどちらも文芸部の後輩だと言っていた。そしてあの刑事は心美ちゃんに、昨夜その諸星亘と一緒にいたか、と尋ね、心美ちゃんはそれを認めた。これは、どういうことかしら……心美ちゃんは被害者とは顔見知り程度と言っていたし、関連があるとすれば、昨晩一緒にいたという、諸星亘の方よね。つまり、被害者の織原伊都子さんと諸星亘に何らかの深い繋がりがあって、諸星亘が被疑者になっている。そして、その諸星と一緒に居た心美ちゃんが、重要参考人として……ということかな?」
「諸星か……織原という名前なら、小雨との話の中で何度か聞いたような気がするけど、諸星って奴は聞いたことがないな」
諸星亘。この男がキーパーソンであることは間違いなさそうだが、被害者と心美ちゃんがそこにどう絡んでくるのか。もし三角関係か、あるいは諸星が二人に二股をかけている状態だったとしたら、警察が怨恨の線で心美ちゃんに単純な疑いをかけるのは理解できなくもない。とはいえ、本当にたったそれだけの理由で、任意同行まで求められるものだろうか……?
「お、瀬名じゃん。オッス! 西野園さんもご一緒で」
三日前に開けたコーラのように気の抜けた声が、私の思考をブツリと断ち切る。声のした方を振り返ると、大きく欠伸をしながら私たちのテーブルに近付いてくる永井先輩の姿が見えた。
「あれ、席にいるのは二人だけなのに、テーブルの上にはお膳が四つ。ここの二つはどうしたの?」
永井先輩はそう言って、取り残された二つのお膳を指差す。別にわざわざ隠すような理由もないので、私はありのままの事実を伝えた。
「そこ、さっきまで小雨と心美ちゃんが座っていた席なんですよ。心美ちゃんは刑事に連れて行かれてしまったし、被害者が文芸部の子らしいって、小雨も現場に飛んで行ってしまって……」
「そうなんだ。心美ちゃんが食べてたのはどっち?」
「えっ? ああ……ハヤシライスのほうですけど」
「ほほ~う。じゃあ、勿体ないから俺が食べてやろう。昼飯一食分浮かせられる上に、青梛の新マドンナ心美ちゃんと間接キッスできるなんて、今日は、『なんて日だ!』」
数年前に流行し今や死語となりつつあるこの一発ギャグは、どう見ても完全にスベっていたけれど、永井先輩はそんなことを気にも留めずに心美ちゃんの席に座り、
「いっただきま~す」
と両手を合わせて、心美ちゃんが食べ残したハヤシライスをモリモリと口にかき込み始めた。うわぁ、ドン引き……。
「この鯖味噌は? 小雨ちゃんの?」
「え、ええ……」
「んじゃほら、これは瀬名が片付けろよ。食い物を粗末にするとバチが当たるぜ」
小雨が食べ残した鯖味噌定食のトレイは、既に五目あんかけラーメンを食べ終えていた瞬の前へ、ぞんざいに押し出された。永井先輩が罰という概念を気にする人だったとは、驚き桃の木二十……ああ、死語が伝染る!
「ああ~、うめぇなあハヤシライス。ちょうど食べたいなと思ってたところだったんだよね。しかも、心美ちゃんの唾液という極上のスパイスがこのスプーンにベッタリついてると思うと、もう、旨さ倍増ってもんだ。……あれ、そういえば、さっきパトカーのサイレンが聞こえたけど、なんか事件でも起こったの?」
えっ、今更?
心美ちゃんと小雨の話をしたときに驚いたような素振りを全く見せなかったから、事件のことは当然知っているものと思っていたのだが。
少々うんざりしつつも、私は現在私たちが事件について知っている情報を一通り話して聞かせた。現場がサークル棟の物置であること、被害者は織原伊都子という二年生であるらしいこと、その被害者が文芸部員で、同じく文芸部員の諸星亘という男と何らかの関係があるかもしれないこと――そして、諸星亘と心美ちゃんの間にも何かしら繋がりがあったらしいこと。諸星亘と心美ちゃんが昨晩一緒にいたことについては、少々デリケートな問題であるように感じたため、この場では伏せておいた。
法学部の四年で文芸部にも所属しておらず、心美ちゃんはさておき他の二人とは全く接点のない永井先輩から、三人の関係について何か有益な情報が得られると思ったわけではない。ただ単に、聞かれたから話した、という程度の意味合いでしかなかったのだ。
だが、次に永井先輩が発した言葉は、いい意味で私の予想の遥か斜め上をいくものだった。
「はあっ? あのサークル棟で? 俺、昨日の夜あそこに行ったけど……」
まさに驚愕の展開である。鑑識官や警官の会話を盗み聞き、いや立ち聞き(フォローになってないか)したところでは、死亡推定時刻は昨夜だったらしい。つまり、昨夜のサークル棟周辺に関する永井先輩の証言が、事件の有力な手掛かりになるかもしれないのだ。
「えっ……? そ、その話、詳しく聞かせてもらってもいいですか?」
「いや、昨日の夜さ、法学部で麻雀大会をやってたんだけど、直前になって人数が足りないことに気付いてね……サークル棟に行けば暇なやつがいるんじゃないかって、探しに来たんですよ」
「それって、何時頃のことですか?」
「う~ん、九時頃かな? でも、部室全部見て回ったんだけど、昨日は珍しく、全然人がいなくてね。ようやく見つけたのが、どこの部室だったか……そうそう、囲碁部だ。それで、囲碁部にいた二人に聞いてみたら、麻雀できるっていうからさ、もう、半ば無理矢理連れてきて。でも、教授には三人連れて来いって言われててね。できればもう一人欲しかったから、サークル棟の前に出て、誰か来ないかって待ってたんですよ……ああ、そういえば、待ってる最中に眼鏡かけた女の子が一人、サークル棟に入って行ったなあ。一応、麻雀できる? って声をかけてみたんだけど、返事もしないでサークル棟に駆け込んで行ってさ……何だアイツ、って思ったから、よく覚えてるよ」
「眼鏡をかけた女の子……? それって、もしかして被害者の……」
「ちょ、ちょっと、やだなあ、やめてくれよ……」
永井先輩が見かけた女の子が被害者の織原伊都子だったとすると、生きていた彼女の姿を最後に見たのは永井先輩と二名の囲碁部員だった可能性があり、これは極めて重要な証言になるだろう。顔を引き攣らせる永井先輩に対して、私はたたみかけるように質問を浴びせた。
「それで、他に不審な人影は見ませんでしたか?」
「う~ん、そうだなぁ……結局、そのまま十時過ぎぐらいまでサークル棟の玄関の前にいたけど、少なくともその間は誰も見なかったな。その後のことまでは知りませんけどね」
「サークル棟には、その囲碁部の二人以外誰もいなかったんですね?」
「ああ、一応全部見て回ったから、それは確かだと思いますよ。そう、その時、間違えて物置の戸も開けちゃったけど、中は別に何ともなかったなあ。なんなら、囲碁部の二人にも確認してみるといい」
「それ、警察にも話した方がいいですよ」
「えええ、面倒臭いな……変に疑われたらやだし……まあ、聞かれたら話しますけどね……」
永井先輩はしばらくの間、サークル棟のある方角を感慨深げに見つめていた。彼はかつて瞬と同じサークルに所属しており、あのサークル棟の物置を部室として使用していたのだ。永井先輩は、事件現場となった物置について何か知っているだろうか。
「あの、『社会心理学研究会』の部室って、元々は何に使っていたんですか? あまり、真面目な研究活動はしていなかったように見えたんですけど……」
「ああ、うん。一応部室に関連書籍なんかは置いてましたけどね、それも、社会心理学の中でも恋愛方面のクソどうでもいい内容のばっかりで、まあ、活動内容はお察しの通り。あの時部にいたメンツ見てもわかるでしょ? ヤンキーっぽいのやらバンドマンやら、有象無象って感じだった」
一昨年、瞬に頼まれてサークルの飲み会に参加したときの印象は、まさに今、永井先輩が語った通りのものだった。監獄島に行ったメンバーだって、オタクに、バンドマンに、ヤンキーに……。
「だからまあ、部室の用途って言っても、せいぜい待ち合わせとか、そんなもんだったと思いますよ。サークルが解散して、書籍は全部図書館に寄贈されたはずだけど、たしかあの時使ってたスチール棚は、そのまま今も物置で使われてるんじゃないかな……そうだったよな、瀬名」
「はい。結構でかくて頑丈でしたからね。180センチぐらいはあったんじゃないかな。重い物を入れたり上に乗せたりしても平気だったから、物置で使うにはちょうど良かったんでしょう」
「うんうん。そうそう、いつだったか、あのスチール棚が並んだ上に隠れてさ、部室に入ってきた奴に上から水かけたりしてイタズラしたのがいたよな。覚えてるか瀬名? あれ、誰だったっけ……」
話があらぬ方向へと脱線していきそうな気配を察知した私は、慌てて昨夜の事件に話題を戻す。
「でも、どうしてあの部屋が現場に選ばれたのでしょう……殺害があの部屋で行われたのか、それともどこか別の場所で殺した死体をあの部屋に運び込んだのか、それによっても見解は変わってくると思いますが」
「西野園さん、なんかさっきから探偵みたいなこと言いますね」
茶化すような永井先輩の口ぶりが若干気に障ったが、いちいち気にしても仕方がない。私は構わず続ける。
「殺害現場があの物置だったと仮定すると、犯人は被害者をあそこに呼び出す必要がありますね。あんな人気の少ない場所で、しかも夜に、女性である被害者が一人でやってきたのだとすれば、犯人は被害者とある程度親しい間柄であったことが推察されます。この場合、今回の事件は計画的な犯行だったように思えますね。しかし逆に、物置に呼び出したのが犯人ではなく被害者の方だった場合。物置に呼び出された犯人は、そこで被害者と口論になるかどうかして、衝動的に相手を殺してしまった、というシナリオの方が自然に思えます」
すると、これまでほぼ沈黙していた瞬が重い口を開き、私の見解を補足した。
「うん。それと、可能性としては極めて低いけど、一人で物置にいた被害者をたまたま発見した無関係の犯人が通り魔的に殺してしまった、というのも、有り得なくはない。あの物置には、サークル活動で使う小物や文房具類、パイプ椅子やテーブルの他に、キャンパス内に植えられている木や植物の手入れに使う手斧やノコギリなんかも置いてある。脚立や鉄パイプもあったかな……だから、凶器には事欠かないわけだ」
「えええ、もしかして、君たちカップルはいつもこんな推理小説みたいな会話をしてるのか? 刑事ドラマとか、一緒に見ちゃったりなんかしてるわけ?」
私と瞬が交わした会話の内容に、永井先輩は大いに驚いた様子だった。
「いいえ、いつもというわけでは……何か身の回りで妙な事件が起こった時だけですよ」
「その妙な事件が君たちの周りではよく起こるってわけか。なるほど、確かにな。いや、邪魔をして悪かった。続けてくれ。俺はハヤシライスに集中するから」
永井先輩はそう言い切って、血の池地獄のように赤いハヤシライスへと視線を落とした。そのお言葉に甘えて、私たちは遠慮なく事件の考察に戻る。
「殺害現場が別の場所で、死体は後から運び込まれたものだとしたら、犯行現場はキャンパス内ということになるのかな。大学の外から死体を運んでくるのはなかなか大変でしょうし……まあ、犯人が車を持っている場合は、この限りではないけれど。昨日の夜、どれぐらいの人がキャンパス内に残っていたのかしら……」
「どうだろう。結構夜中まで残ってる人もいるからな……」
青梛大学三内キャンパスには主に文系学科の関連施設が集められており、ブラックな学習環境で有名になった理系学科ほどではないものの、夜中でも完全に無人になることは少ない。とはいえ、理系学科のように拘束時間の長い実験があるわけではないのだから、その人数はある程度限られているはずだ。
「首の切断に使われたのは物置にあった斧だったらしいから、死体が外から運ばれてきたものだとしたら、犯人はあの物置に斧があることを知っている人物……つまり、大学関係者の可能性が高くなるよね。昨夜キャンパス内にいた人数次第では、一気に容疑者の範囲が絞られて……」
「いやあ、難しいんじゃないかな、それは」
ハヤシライスを食べ終えた永井先輩が、指先で口の周りを拭いながら、私の推理を遮った。
「昨日……っていうか、今日はさ、さっき話した麻雀大会が明け方まで続いて、法学部棟の講義室で、ずぅっとロンだのツモだのやってたから。キャンパス内っていう広い括りだったら、法学部棟だけでも相当な人数が出入りしたと思いますよ」
「えっ……そんなにたくさん? そもそも、麻雀大会で講義室の使用許可が下りるんですか? しかも夜中に……」
「それがね……法学部に一人、麻雀狂いの教授がいてさ。超法規的措置ってやつですよ。参加した学生は次のレポートの評価に色をつけるっていうから、ルールを知ってて暇なやつは皆参加したんじゃないかな。付き合いで参加させられた助教とか助手まで入れたら、全部で百人はいたと思うよ。かく言う俺も、朝方まで参加したクチでね……終わってすぐ寮に戻って、昼前まで爆睡。だからめちゃくちゃ腹が減っていたと、そういうこってす」
何ということでしょう。よりにもよって、殺人事件の起こった夜に、そんなとんでもない催しが行われていたなんて……。
もちろん、法学部以外にもキャンパス内に残っていた人物はいるだろうし、容疑者の絞り込みは困難を極めるのではないだろうか。
「さてと。俺はこれで失礼しますよ。おい瀬名、その鯖味噌はお前が責任持って処理しろよ、『据え膳食わぬは男の恥』って言うだろ? んじゃ!」
永井先輩は、これまた明らかな誤用の慣用句を残して学食を去って行った。その背中を見送りながら、瞬は苦笑を浮かべる。
「あれ、永井さんの口癖っていうか、座右の銘なんだよな……あらゆる方面に関しての」
なるほど、意図的な誤用だったわけね……。
結局、小雨が残した鯖味噌定食は、私と瞬で半分ずつ綺麗に片付けた。




