四月七日 瞬
登場人物
袴田 心美 ……青梛大学一年。
西野園 真紀 ……青梛大学三年、二重人格の持ち主。推理小説マニアで素人探偵の一面を持つ。
瀬名 瞬 ……青梛大学三年、真紀の彼氏。
京谷 小雨 ……青梛大学三年、真紀の親友、瞬とは少々複雑な関係にある。文芸部所属。
堀江 梨子 ……青梛大学二年、小雨の友人。文芸部所属。
永井 信也 ……青梛大学四年、瞬の悪友。
織原 伊都子 ……青梛大学二年、文芸部所属。
諸星 亘 ……青梛大学二年、文芸部所属。伊都子の彼氏。
伊達 ……美矢城県警捜査一課所属
片倉 ……同上
鬼庭 ……同上
留守 ……同上
新学期を迎え、俺達三人、つまり俺と真紀と小雨は、三年生になった。
既に大学生活の往路を走り終え、これから復路に差し掛かるわけだ。ようやく大学に慣れてきたと思い始めていたのに、もう三年。留年しなければあと二年間、いや、実際にはもっと短いだろう。モラトリアムの終わりはすぐそこまでやってきている。
三年になると、これまで対岸の火事だった『卒論』や『就職』という単語が、急に重くのし掛かってくる。俺の場合、小さいながらも会社を経営している父の跡を継ぐかどうか、という問題もあった。院まで進ませてやる金はない、と以前から釘を刺されているため、父の会社か、それとも就活か、選択肢は二つに一つだ。
父親がサラリーマンの小雨には就職という道しかなく、俺よりさらに切迫していると言える。子供の頃から本を読むのが好きだった小雨は、出版業界への就職を考えているらしい。
実は、小雨の今後について、俺の父親が、自分の会社で彼女を雇ってもいいんだが、と仄めかしていた。現代社会ではしばしば批判的な文脈で語られる、縁故採用というやつだ。
瀬名家と京谷家は道路を挟んだ向かいという立地であり、小雨たちが都内から青葉に引っ越して来てからずっと、瀬名家と京谷家は家族ぐるみの付き合いをさせてもらっている。
俺と小雨は、少なくとも表面的には幼馴染だ。しかし、両家の両親たちは俺と小雨が正式に付き合っているものと――あるいは、まだそこまでは行かずとも、いずれそうなると――思い込んでいる。真実はもう少し複雑である。
だから親父は、もしかしたら、俺が会社を継いだあとのことを考えているのかもしれない。つまり、ゆくゆくは夫婦で会社を切り盛りしてほしい、そのために、今のうちから仕事を覚えてもらいたい、というわけだ。
だが、父の会社は広告代理店、小雨が志望する出版とはかけ離れた職種だ。仮に俺が小雨にこの話をすれば、断るにも断りづらく、彼女にとっては複雑な提案だろう。就職活動が難航するようならそれとなく話してみるつもりだが、今はまだ俺の胸の中だけに留めている。
俺と小雨が進路に頭を悩ます一方で、最初から院に進むと決めていた真紀は、来年の院試を視野に入れながら、早くも卒論のテーマを考え始めているらしい。真紀の成績なら院試も楽勝だろうし、実家が資産家だから、経済的にも何の問題もない。
俺と真紀は恋人同士。付き合い始めてからもう一年余り、そろそろいい加減両親に彼女の存在を話さなければいけないのだが、未だにうまく切り出せずにいる。家に行ってみたいと真紀からも催促されているし、どうにかしなければと頭ではわかっているのに、本当に大事なことほどなかなか上手く言い出せないものだ。
真紀の実家は都内だから、卒業後の彼女の身の振り方次第で、俺たちの関係にも影響が出てくる可能性がある。実家に帰るのか、どこで就職するのか、真紀はまだそこまで考えていないらしいが、彼女が望む職場が果たして青葉にあるだろうか。それは真紀だけではなく、俺や小雨にも言えることではあるが。
とはいえ、彼女が院を卒業するまでには最短でも四年の時を要するわけで、そこまで先のことを考えるのはまだ気が早すぎるというものだ。それまでずっと恋人でいられるかどうかすら確かではないのだから。
朝、大学で俺達三人が一緒になることは滅多にない。自宅から登校する時は大抵、真向かいの家に住んでいる小雨と二人で、学部が違う真紀とは昼休みまで顔を合わせる機会がないからだ。
一方、真紀のマンションで夜を明かし、そのまま彼女と一緒に登校する場合、小雨とはほとんど遭遇しない。小雨とは学部が同じだから、講義の際に顔を合わせることにはなるのだが。
昨夜は真紀のマンションで過ごし、今朝はいつもよりゆっくり部屋を出て、正門の前で珍しく小雨とばったり会い、そのまま何となくロビーの椅子に座って世間話をしていた。話といっても俺は専ら聞き役で、話すのは真紀と小雨の役目。喋る比率は、真紀が七、小雨が三といったところか。話題は今日の真紀の髪型に関することだった。話の内容にこれといって特筆すべきところはない。
俺達三人のところへ向かってくる人影を認めたのは、会話も途切れがちになり、そろそろ講義室に移動しようかと考え始めた、ちょうどその頃だった。
「よう瀬名、今日は三人お揃いか?」
軽く手を上げながら、一人の男がこちらへ歩いてきた。彫りの深い顔立ちに、長身で無駄のないがっちりした体つき。短い黒髪をハリネズミのように立て、白シャツに紺のジャケット、カーキ色のカーゴパンツ。四年の永井先輩である。
彼とは、俺が一年の時、短期間所属していたサークルで知り合った。そのサークルは全国ニュースで報道されるような凄惨な事件を起こした(※)のち自然消滅してしまったのだが、永井先輩はそのメンバーに入っていたにも関わらず、事件当日に足を骨折したことにより難を逃れた悪運の強い人だった。
その縁でというと妙かもしれないが、事件の生還者である俺と永井先輩は、サークルが解散しても未だに交流が続いている。女性関係の派手な永井先輩のためアリバイ工作に協力したり、それと似たようなことをしてもらったり。ロクでもない奴らだと思われるかもしれないが、それが事実なのだから仕方がない。だから、永井先輩は俺と真紀と小雨との少々複雑な関係を知っている唯一の人間でもある。秘密を共有し合う共犯関係とでも言おうか。
昨年まで永井先輩は髪を金色に染めていたし、耳にはじゃらじゃらとピアスを下げ、見るからにヤンキーという出で立ちだった。しかし、今年から始まる就職活動を見据えて髪を黒く染め、全体的なファッションもだいぶ落ち着いたものになった。
『瀬名も学生のうちに一度は染めてみたほうがいいぞ』
とはよく言われるのだが、俺には全く似合う気がしないので、いつもやんわりと聞き流している。この間、卒業までに女性関係も少し整理すると言っていたから、今年はいくつか修羅場を見せられるかもしれない。先述したように秘密を握られているため、断れないのが辛いところである。
「ああ、先輩、おはようございます」
俺が永井さんの挨拶に応じると、隣の真紀も軽く会釈を返した。
「永井先輩、おはようございます。いつも瞬がお世話になっております」
永井さんは意味深に笑い、ちらと俺に目配せしてから答える。
「いやぁ、ははは。どうも西野園さん。すっかり瀬名の保護者ですね」
永井さんから見れば真紀は下級生なのだが、どういうわけか、先輩は真紀に対して丁寧語を崩さない。
「保護者だなんて、そんな」
真紀は口元を隠しておほほと笑った。
今日の彼女は、ライトブラウンの長い髪を三つ編みにまとめて左側に垂らしている。今朝部屋を出るのが少し遅れたのは、この髪型に時間がかかったせいだった。
だが、時間をかけた甲斐があって、この髪型は真紀にとてもよく似合っている(彼女に似合わない髪型なんてあるのだろうか)。顔や頭部のコンパクトさとシャープな輪郭の美しさが際立ち、普段は実年齢より若く見られがちな彼女も、今日はいつもより少し大人っぽく見えた。永井さんが『保護者のよう』と形容するのも無理はない、かもしれない。
今日の服装は、胸元の大きなフリルが特徴的なオフショルの白いワンピース。この間ショッピングに連れ回された際に買ってきたもので、未だ肌寒さが残る東北の春に着るにはちょっと露出が多すぎるような気もするが、どうしても早く着てみたかったらしい。三月生まれの俺と四月生まれの真紀では同学年ながら一年近い差があるのだが、お嬢様育ちのせいか、時々妙に子供っぽいところを見せる、少しだけ年上の彼女である。
小雨は、そんな真紀をほとんど無表情で見つめていた。とは言っても、別に彼女に対して含むところがあるわけではなく、小雨は昔から感情があまり顔に出ないタイプなのだ。
センター分けの黒髪ロング、去年から伸ばし続けている彼女の髪は、既に背中にまで達している。大人びた顔立ちと細めの銀縁眼鏡のせいで、最近は社会人に間違われることも多いようだ。こちらはタートルネックのグレーのセーターにデニムパンツ。ここ数日の気温を考えれば、これぐらいがまあ妥当な服装だろう。
「ところで瀬名、今年の新入生にめちゃくちゃかわいい子がいるって噂、聞いてるか?」
永井さんの何気ない一言によって、一気に場の空気が凍りつき、真紀の顔から笑みが消えた。真紀の表情の変化に気付いた永井さんが、苦笑しながら慌てて弁解を始める。
「いや、西野園さん、そういう意味じゃなくってね……ちゃんと話を最後まで聞いてくれよ。その美人っていうのがさ……」
永井さんはそう言うと、急にきょろきょろと周囲を見回した。何か聞かれてまずい話でもあるのだろうか――彼の場合、おおっぴらには話せないネタがいくらでもあるのだ。しかし、永井さんの視線は途中でぴたりと止まった。
「おっ、噂をすれば影だ」
一言そう呟いて、永井さんは俺から見て右手の方向に軽く顎をしゃくる。言われたとおりそちらに目をやると、深い青のワンピースの上に白いカーディガンを羽織った女の子が、白いハイヒールを鳴らしながらこちらに歩いてくるのが見えた。
長い黒髪をハーフアップにまとめ、清楚で落ち着いた雰囲気を醸し出している。遠目で見るとわからなかったのだが、近付いてくるにつれて、それが見知った顔であることに気付いた。
二重で少し垂れ目気味のくりっとした瞳と、そこから投げかけられる柔らかい眼差し。高くはないが形のよい鼻梁と小さくまとまった小鼻、薄桃色の紅を差した肉感的な唇は口角を上げ、その頬には小さな笑窪ができている。彼女は俺達の目の前までやってきて立ち止まり、上品に微笑みながらこう言った。
「お久しぶりです、皆さん。お元気でしたか?」
やはりそうだ。雰囲気が変わっていて気付くのに時間がかかってしまったが、この可憐な声を聞いてようやく確信できた。俺と真紀と小雨は、ほぼ同時に彼女の名を口にする。
「「「心美ちゃん?」」」
彼女の名前は袴田心美。俺と永井先輩が以前同じサークルに所属していたことは既に述べたが、そのサークルには袴田という当時三回生の先輩がいた。彼女はその妹だ。
一昨年の夏、俺は袴田先輩に招かれて、真紀と小雨を連れて袴田家の別荘に数日間滞在した。その時一緒にいたのが心美ちゃんで、彼女と会うのはそれ以来となる。
女子高生だった当時の彼女は、まだどこか垢抜けない少女の雰囲気を残していたが、今目の前にいる彼女は、あの時とはまるで別人だ。
「ハイヒールだと、もう追い越しちゃいますね」
心美ちゃんは苦笑を浮かべ、自分の足元と俺の顔を交互に見ながら言った。確かに、彼女の目は俺の視線の少し上にある。あの日の夜、上目遣いに俺を見た彼女の顔が脳裏に蘇った。ヒールの分を差し引いて考えても、身長が少し伸びたことが窺える。
「……あ、ああ、本当だ。心美ちゃん、少し身長伸びたんじゃない?」
俺が尋ねると、彼女は右手の親指と人差し指の先で数センチ分の間を作り、『少しだけ』と答えた。
心美ちゃんのこの一言で、ややぎこちなかった場の雰囲気が、ほんの少し和らいだように思える。次に口を開いたのは真紀だった。
「心美ちゃん、ここに進学したの? ごめんね、全然知らなくって」
「ええ、兄と同じ大学で過ごしてみたくて……それに、皆さんもいらっしゃいますし。こちらこそ、あれ以来全く連絡できなくて、ごめんなさい」
「なんだ、三人とも知らなかったのか? 顔見知りのはずだから、てっきり知ってるもんだと思ってたのに」
俺達と心美ちゃんを見比べながら、永井さんは意外そうに言った。
「それにしても、あの袴田先輩の妹がこんなに美人だなんてなあ。びっくりだよ、もう。お兄さんに似なくて良かったね」
「心美ちゃん、ここにいる永井さんは手が早いことで有名だから、気をつけてね」
真紀がわざと永井さんにも聞こえるような声で心美ちゃんに耳打ちすると、永井さんは、
「ちょっとちょっと、勘弁してくださいよ西野園さん、俺だってそろそろ店を畳もうと思ってるんですから」
と苦笑を浮かべながら後ずさった。店を畳むとはなかなかウィットに富んだ表現だ。いったい何を売っていたのやら。
「じゃあ、講義があるので、私はそろそろ失礼しますね。また、近いうちに」
心美ちゃんはそう言いながら会釈をし、そのまま立ち去ろうとした。早めに講義室に入っておこうということだろうか、俺たち三年生がとっくの昔に忘れてしまった真面目で殊勝な精神である。しかし、その背中を真紀が呼び止める。
「あっ、待って心美ちゃん、その前に、皆とLINE交換しない?」
心美ちゃんはくるりとこちらを振り返り、微笑みながら戻ってきた。
「はい、是非……。こちらにはまだ友達もいませんし、これからどうしようかなって思っていたところなんです」
「あの時、袴田さんご一家にはとても良くして頂いたし……そのお返しというわけじゃないけど、何か困ったことがあったら、何でも相談してね。大丈夫、心美ちゃんなら、きっと友達もすぐにできるよ」
それから数分後、開始時間ギリギリに講義室に入り、一コマ目の授業が始まった。
しかし、どうにも内容が頭に入ってこない。元々決して朝に強い方ではないのだが、それにしても今日は全く頭が働いていなかった。
小雨と並んで講義を受けながら、俺はLINEの画面をぼんやりと見つめた。友だちリストに新たに加わった名前、『袴田心美』の名を……。
(※)シリーズ二作目『監獄島の惨劇』参照