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五月二十日 真紀(1)

 その日は珍しく、二コマ目の講義の最中からずっと外が騒がしかった。


 外からは頻繁にパトカーのサイレンの音が聞こえてくるし、キャンパス内の道を走り抜けて行く何台ものパトカーが、講義室の窓から見えていた。

 何か事件があったのではないか――それも、この三内キャンパス内で。そう思うのは当然のことだし、パトカーのサイレンを近くに聞いて冷静でいられる人間は多くない。刃物を持った不審者がキャンパス内をうろついているとか、キャンパス内に爆弾を仕掛けたという電話があったとか、そういった内容のものであれば私たちにとっても無関係ではなく、また、もしかしたら午後の講義が全休になったりしないかと、ある種の不謹慎な期待を抱いていた者も皆無ではないはず。


 ただ、考え得る限りで最悪の可能性は、クマの目撃情報だ。

 三内キャンパスの西側には緑豊かな青梛山が聳え立っており、キャンパス内でも年に数回は山から下りてきたクマが目撃されることがある。人間を遥かに超える膂力を持った神出鬼没のクマは刃物を振り回す不審者などより遥かに恐ろしく、キャンパス内および周辺地域を恐怖のどん底に陥れるのだ。

 だが、外の様子を見ると、クマにしては随分パトカーの台数が多かったし、外をぶらぶらと歩く警官の表情や動作にも緊迫感がない。クマの目撃情報を受けて出動しているのであれば、いつどこからクマが飛び出してくるかわからないのだから、警官だってもっと注意深く周囲を警戒しているはずだ。それに、一般人は不用意に外を出歩かないよう注意されるはずなのだが、むしろパトカーと同じ方向にどんどん暇な学生や職員が集まっているようだった。

 いずれにしても、同じ講義を受けていた学生は皆心ここにあらずといった感じだったし、不本意ながら普通の人間よりはだいぶ警察慣れしている私だって、とても落ち着いてはいられなかった。


 私たちの講義の担当教授は、それとはまた若干異なる理由でそわそわしているようだった。この教授は若い頃学生運動に身を投じていたことをよく自慢気に語って(私たち学生はいつも、またかと思いながらそれを聞き流しているのだが)おり、おそらく、大学に警察がやってくるだけでも体中の血が沸き立つような世代なのだろう、外の様子が気になって講義どころではないという雰囲気で、遠目に見ても、闘牛のように目を血走らせているのがわかった。


 だから、その日の講義が予定よりも少し早く、正午少し前に切り上げられたのは、当然の出来事だった。真っ先に部屋を飛び出した教授、後を追うように駆け出す学生、いずれも目指す場所は同じだったけれど、私が人の流れに乗ってそのサークル棟に駆けつけたときには、現場は既に警察の黄色いテープで封鎖されていて、中の様子を窺うことはできなかった。


 サークル棟で事件が起こるのは、先月のカーテン切り裂き事件に続いて、これで二度目ということになる。前回の事件の際、大学本部は性質(たち)の悪い単なるイタズラと判断し、結局警察には届け出なかったらしいけれど、今回は現にこうして警察が駆けつけているのだから、何かイタズラでは済まされないような深刻な事態になっていることが容易に想像できる。カーテン切り裂き事件のときは漫研の部室前の廊下まで学生が殺到したらしいが、サークル棟全体が警察に封鎖されている今回はそうもいかない。いったい何が起こったのか、サークル棟の外から眺めるだけでは全くわからなかった。


 ただ、私は聴力にはかなり自信がある。小さい頃ピアノで音感を鍛えられたせいか、普通の人間には聞こえないような小さな話し声でも、結構明瞭に聞き取れてしまうのだ。耳をすますと、現場で作業に当たっている警官や鑑識の口からは、『死体』『頭部』『切断』という物騒な単語が囁かれているようだった。これらの断片的な単語から推測される現場の状態は……。


 その状況を想像しながら現場周辺の様子を観察していると、同じように野次馬をしていた学生たちの間で、事件に関するより詳細な会話が交わされ始めた。第一発見者の大西という三年生の漫研部員が、警察に連絡した直後、たまたま近くを通りがかった同じ漫研の部員に見たままを話して回ったらしいのだ。伝聞だから若干の誇張が含まれている可能性はあったが、それは現場の捜査員が話していた状況とも概ね一致しており、信憑性はかなり高そうだ。

 二コマ目の授業時間が終わって昼休みに入ると、私はすぐに瞬と小雨にLINEを送った。別の学科棟にいた二人ももちろんパトカーのサイレンは聞いており、何が起こったのか不安に思っていたらしい。事件の情報を得た旨を伝えると、二人とも強い興味を示したので、いつものように学食で昼食をとりながら話すことにして、私は学食へ急いだ。


 瞬と小雨は、学食の入り口の前に並んで立って待っていた。

 最近、この二人の距離の近さがどうしようもなく気になることがある。二人は幼馴染みだし、小さい頃からずっと一緒に過ごしてきたのだから、お互いをよく知っていて当然だ。なのに、私が知らない瞬を小雨が知っている、たったそれだけのことがとても不安になってしまう。だから、私はいつも物理的な距離をできる限り縮め、可能ならば素肌にも触れる。不安を緩和するための有効な対処法を、これ以外に知らないからだ。


 私は敢えて二人の間に割って入り、瞬の腕に絡み付いた。


「二人とも、お待たせしましたっ」

「あ、ああ。いや、俺たちもついさっき来たところだよ」


 人前でちょっとオーバーに甘えても、瞬は怒ったり煙たがったりすることがない。こういうとき、彼があまり人目を気にするタイプじゃなくてよかったと思う。

 いや、そもそも、私は瞬が怒ったところを一度も見たことがない。本気で怒ったらどんな顔をするのか、ちょっぴり興味はあるのだけれど、そこまで酷い真似をする勇気もないというジレンマ。


 学食に入り、食券を買って、空いている四人席のテーブルにつく。ここの学食は基本的にカウンターまで料理を自分で取りに行かなければならないシステムで、私達三人で食事をする場合、それは全て瞬の役目になっている。それでも彼が不満を漏らしたことは一度もない。


 瞬がテーブルとカウンターの間を三往復して、私達のテーブルに三人分の昼食が並んだ。私は親子丼、瞬は五目あんかけラーメン、小雨は鯖の味噌煮定食。瞬は毎日ラーメンばかり食べて飽きないのだろうか……。


「いただきま〜す」


 お腹が空いていた私は、早速親子丼に箸をつけた。ふわふわの卵がご飯の上でぷるぷると震え、口に含むと、とろける卵と鶏肉の絶妙のハーモニーが口の中いっぱいに広がってゆく。

 瞬はラーメンを、小雨は鯖味噌を、それぞれ食べ始める。三口分ぐらい食べたところで、私はようやく二人に話そうと思っていた事件のことを思い出した。


「そうそう、さっきパトカーが来てた件なんだけどね……」


 と言いかけたその時、食堂の入り口で食券を買い求める心美ちゃんの姿が見えた。せっかくだから彼女にも聞かせてあげようと思い、『心美ちゃ〜ん、おいで』と手を振ると、私たちの視線に気付いた彼女はにこやかに微笑んで、軽く頭を下げる。それはまるでクイーンのミステリーのように非の打ちどころがない、完成された仕草だった。

 そして数分後、心美ちゃんがトレイを持って私たちのテーブルにやってきた。心美ちゃんの昼食はハヤシライス。彼女が席についたのを合図に、私はいよいよ本題に入る。


「で、パトカーの件。どうやらね、首切り殺人だったみたいなの」

前回とは時系列での順番が前後しますが、先に伊達刑事の回を挟んでおいた方が事件の概要が掴みやすいかと思い、このような順番にしてみました。また、今回の終わり方なんか中途半端やなと思われる向きもあるかもしれませんが、今回は一話分が(なろうの基準では)かなり長くなりそうだったので、本来一話でまとめる予定だった内容を二回に分けて投稿することにしました。

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