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伊達刑事、現る

 五月二十日の午後、美矢城県警捜査一課の伊達刑事は、事件の一報を受けて青梛大学三内キャンパスサークル棟に駆けつけ、その現場の異様さに息を呑んだ。


 足の踏み場もないほど荒らされた部屋、細かく切り刻まれた布切れ。遺体のあった場所は張縄で縁取られ、その周囲のリノリウムの床には、どす黒く乾燥した血液が広がっている。遺体は司法解剖のため既に現場から運び出された後だったが、その女の遺体には首がなく、しかも全裸だったという。

 首のない女の死体をこの現場の状況に重ね合わせて想像すると、死体を直接見ているわけではないにも関わらず、おぞましい犯人の狂気が伝わってくるような気がした。単なる怨恨による殺人とは異なる執念、或いは美意識――この現場からは、そういった、何か尋常ではないものを感じる。


「あ、伊達さん」


 ドスの利いた低い声で伊達の名を呼んだのは、後輩の片倉刑事だった。長身で髪をオールバックに固めた強面の片倉は、伊達よりもずっと刑事らしい貫禄を備えている。もしあの頬に傷をつけ、真っ黒いサングラスでもかけさせたら、外見的にはヤクザ以外の何物でもなく、警察手帳を出しても誰も信じなくなるだろうな、と伊達はよく思う。迷彩服を着せたら、それだけでレンジャーになれるだろう。

 しかし、人は見かけによらぬもの。三十九歳の片倉は、そのいかつい見た目に似合わぬ愛妻家で、五歳下の嫁さんとの間に何と三人もの子供をもうけている。帰宅時間が不安定なこの仕事に就いていながら、少ない余暇時間を最大限に活かして家族サービスを怠らないというのだから大したものだ。四十を超えても尚独身貴族を貫いている伊達とは雲泥の差である。もっとも、伊達は片倉のような家庭を持とうなどとは考えたこともないのだが。

 片倉は軽く頭を下げながら伊達の元へ駆け寄ってきた。


「おう、片倉。なんだ、こりゃあ……?」

「……何なんでしょうね。自分も、こんな現場は初めてです」


 片倉はそう言うと、鑑識が現場に到着した直後の様子が収められた数枚の写真を胸ポケットから取り出した。

 部屋の中央に横たえられた死体は、頭部が切断された残酷さとは裏腹に、足は綺麗に揃えられ、両手は腹の上で組まれており、そのまま棺桶に収めても違和感がなさそうな姿勢だった。周囲に溜まった赤黒い血と、死体の上にばらまかれている桜吹雪のような色合いの布切れが織りなすコントラスト。その効果も相まって、まるで一種の祭壇のように、不気味な神々しさを放っている。

 伊達は、写真に収められたその異様な光景を目に焼き付けながら片倉に尋ねた。


「ガイシャの身元は?」

「はい、現場には被害者のものと思われるスマートフォンが残されていました。スマートフォンに付着していた指紋と死体から採取した指紋が一致しており、まず間違いありません。スマートフォンの持ち主は織原伊都子、十九歳。青梛大学文学部の二年……頭部が切断されているため、DNA鑑定の結果が出るまで断定はできませんが、背格好も一致しておりますし、おそらくこれも間違いないでしょう」

「うん。死亡推定時刻は?」

「はい、これも司法解剖の結果を待つことになりますが、死斑や死後硬直の状況から見て、昨晩の二十一時から二十三時の間と思われます。解剖の結果次第でこの範囲はもっと狭められるでしょう」

「うむ……死因は? わかっているのか?」


 現場には夥しい量の血が残っているし、首を切断されて生きていられる人間は居るまいが、人の首を切り落とすという作業はなかなかに難しく、生きている人間の首であれば尚更だ。

 かつての日本に切腹という風習があったことを知らない日本人はいないだろう。切腹の介錯を務めた武士は腹を裂いた切腹人の首を斬り落とさなければならなかったわけだが、死を覚悟し、腹を裂いた人間の露出した首を背後から斬り落とす、ここまでお膳立てされていても介錯はなかなか難しく、一太刀で済まないことも珍しくはなかったようだ。鍛錬を積んだ武士が鋭利な日本刀を用いても尚困難だった行為を、現代の日本人が簡単にできようはずもない。つまり、被害者は首を切断する前に何らかの手段で殺されていた可能性が高いと言える。


「いえ……頭部が切断されている以外の外傷はありません。切断された頭部も発見されていませんし、それ以上のことは、まだ……」

「……だろうな。頭部の切断に使われた凶器は見つかったか?」

「はい、現場はご覧の通り物置として使われておりまして、血塗れの手斧が現場に落ちていました。関係者に確認したところ、もともとこの物置にあった物と見て間違いないようです。あちこちに指紋を拭き取った形跡が見られますし、殺害現場かどうかはさておき、首を切断したのはこの部屋だと断定してもよさそうですね」

「指紋……指紋ね。そう、怪しい指紋は見つかったか?」

「それが……物置ですから、日常的に不特定多数の人間が出入りしています。指紋については、あるにはあるのですが、ありすぎてどれがどれやら……」

「なるほどな……たしかに、DIYには持ってこいの部屋だな、ここは……おっと、失言、失言」


 伊達は現場をぐるりと見渡しながら軽口を叩いた。伊達の口の悪さは美矢城県警では有名になっており、時折被害者遺族の前でも配慮に欠ける発言をしてトラブルになることがある。しかし、そんな伊達の悪癖に慣れている片倉は、この軽口に対して何の反応も示さずに報告を続けた。


「この物置ですが、実は以前『社会心理学研究会』というサークルの部室として使われていたらしく……」

「……ん? 青梛大学の、社会心理学研究会……?」


 どこかで聞き覚えのある団体名だ、と伊達は記憶を辿り、片倉は小さく頷いた。


「ええ、あの、監獄島の……」

「なんと……あの事件のサークルか……」


 一昨年、三陸沖に浮かぶあの無人島で起こった事件は、全国ニュースでも報じられ、美矢城県警管轄内で起こった事件の中でも最も凄惨なものだった。そのサークルの元部室でまたしてもこんな事件が起こるとは、何たる偶然であろう。非科学的な表現にはなるが、呪われている、としか言いようがない。


「遺体の上にあった布切れは、おそらく被害者が身に付けていた衣服を切り刻んだものだと思われます。白い無地のシャツに、白いジャージ、下着はピンクの上下……衣服の切断に使われたのは、遺体の近くに落ちていたハサミでしょう。これも現場にあった物らしいですな」

「白いシャツに白いジャージ、ピンクの下着、か……桜色、だな」

「は?」

「いや、何でもない」


 桜は我々日本人にとって特別な存在であり、満開に咲き誇る花の可憐さはもちろん、散り際の儚さもまた、見る者に深い感慨を与える。現場の状況から受けたある種の異様な神々しさはそのためか――不意に浮かんできたそんな連想を、伊達はそっと心の内にしまっておいた。


「……で、その、織原伊都子の交遊関係は?」

「はい、既に大体のところは把握できています。織原は蒼森県出身で、高校時代までずっと実家から蒼森市内の学校に通っていたようです。大学進学を機に青葉に引っ越してきたのが去年で、青葉に古くからの友人はいません。もっとも、昔からあまり交遊関係の広いタイプではなく、高校や中学時代の数少ない友人とも、青葉に来てからはほとんど連絡をとっていなかったらしいですがね。で、肝心の青葉での交遊関係ですが、やはり友人と呼べるような間柄の人間はあまりいなかったようです。唯一、同じ文芸部に所属している堀江梨子という学生が時折織原と一緒に昼食をとっている姿を目撃されていますが、聞き込みで得られた情報はそれだけですね……しかし、織原が住んでいるマンションに問い合わせたところ、同棲中の交際相手がいることがわかりました」

「ほう……」


 古今東西、老若男女を問わず、男女間の縺れは金銭トラブルと並んで事件に発展しやすい項目である。このセンからあっさりと犯人が見つかることを期待しながら、伊達は片倉の報告を注意深く聞いた。


「男の名前は諸星亘。織原と同じ青梛大学の文学部二年で、所属しているサークルもこれまた織原と同じ文芸部。こちらは生まれも育ちも美矢城ですが、港町の出身で、震災の際に津波で両親を亡くしています。家も津波で流されて……兄弟もおらず、ほとんど身一つで青葉にやってきたらしく――これはマンションの管理人の話ですね。これから裏付け捜査を始めるところです」


 東日本大震災とそれによって引き起こされた津波の記憶は、伊達の脳裏にもはっきりと焼き付いている。あれから六年、諸星の家の経済状況はわからないが、学費と生活費で保険金もだいぶ目減りしているだろうな、と伊達は思った。


「しかし、諸星の足取りを追っている最中、非常に興味深い情報を得ました。なんと、諸星は昨晩、ホテルで別の女と一緒だったらしいのです。女の名前は袴田心美。同じ青梛大学で、先月入学したばかりの、経済学部の新入生です。織原や諸星との関係は現在捜査中ではありますが、諸星と袴田が会うのは昨夜が初めてではないらしく、織原とも全くの無関係というわけではないでしょう」

「女か……それは興味深い。諸星と女のアリバイは?」

「ええ、諸星は朝までそのホテルで過ごしていたそうですが、誰かが部屋の中をずっと見張っていたわけではなく、グレーといったところでしょうか。しかし女の方は、午後九時過ぎに諸星と共にチェックインしてから一時間と経たずに部屋を後にしています」

「一時間と経たずに? 風俗じゃあるまいし、随分早いな、男が早漏だったとしても。ふむ、一時間弱か……死亡推定時刻次第では、犯行も可能ということか」


 なんだ、案外単純な事件だな、と伊達は早合点した。痴情の縺れが殺人事件に発展することは別段珍しくもない。これほどまでに異様な事件の犯人としては些か拍子抜けしてしまうが、何にせよ、仕事が楽に終わって悪い気はしないものだ。


「はい、その上、死亡推定時刻前後に、被害者のスマートフォンから袴田へ意味深なLINEのメッセージが送られています」


 片倉はそう言うと、問題の画面のスクリーンショットを印刷した紙片を伊達に提示した。そのLINEのトーク画面を見て、伊達は目を眇めた。そこには、被害者と袴田が全くの無関係ではなかったという証拠が、あまりにも分かりやすい形で示されていたのである。


「……ほほう、これはこれは」

「興味深いでしょう」


 伊達に応じるように、片倉もニヤリと口元に笑みを浮かべた。


「で、二人の居場所は掴めているのか?」

「はい、抜かりなく。諸星は、ホテルから直接大学に来たところを捕まえて、遺体の身元確認という名目で署に連行しました。袴田の方は、昼休みに昼食をとっていたところを失敬して、こちらも任意同行を求め、既に二人とも署にいます」


 伊達は優秀な同僚に恵まれたことを天に感謝した。とは言っても、彼は元来無神論者であるため、神に対して祈りを捧げることも、感謝することもない。伊達が感謝の念を送ったのは、強いて言えば、片倉をこの世に運んできてくれたコウノトリに対して、である。

 もちろん、四十路の中年男である伊達は、コウノトリの言い伝えを本気で信じてなどいない。だが、コウノトリは実在する生き物であり、居もしない神なんかよりは、よっぽど信じられると思うのだ。この世に本当に神がいるのなら、俺らの商売は上がったりだ、とは伊達の口癖であるが、刑事の仕事を商売と表現するあたりにも、彼の性格の一端が表れていると言えよう。


「よし、現場はお前と鑑識に任せた。引き続き学生や教員への聞き込みを頼む。俺はこのまま署に向かうぞ。諸星と袴田が口裏を合わせる前に、全ての情報を聞き出してやろう」

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