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五月二十日 首のない死体

 五月二十日の午前九時、青梛大学文学部三年の大西修は、自らが所属する漫研の部室で、漫画を読みながら時間を潰していた。

 この日の午前中、彼が出席するべき講義はなく、従って、彼はここで授業をサボっているわけではない。では何故彼が大学構内にいるかというと、それはずばり、金をかけずに時間を潰せるからだ。

 数週間前には奇怪なカーテン切り裂き事件の舞台になった場所であるが、それ以降変わったことは何一つ起こっていない。件の掃き出し窓には新しいカーテンがかけられ、漫研は平穏な日常を取り戻した。


 オタクでコミュ障の大西にとって、漫研の部室は最も落ち着く場所だ。また、漫画をこよなく愛する貧乏学生である彼にとって、金をかけずに時間を潰せる漫研の部室は非常にコストパフォーマンスの高いリフレッシュ空間でもある。大西と似たような境遇の部員は多く、平日、休日を問わず、ここには絶えず数人の漫画愛好家が屯しているのだ。


 とはいえ、かの奇怪な事件が起こった日がそうであったように、偶々ぽっかり無人になることもないではない。五月二十日の午前中はまさに、珍しく大西以外に誰もいない、エアポケットのような時間だった。しかし、別に寂しくはない。一人の時には、一人で読むべきものを読めばいいだけなのだから。

 それは部室の奥のスチール棚に隠すように詰め込まれている成人向けの漫画雑誌で、自ら買うのは躊躇われるような内容のものだった。外見的にこれといって目立った特徴のない大西がいかがわしい漫画雑誌を買ったとて、一日数十から数百人の客と顔を合わせる店員がわざわざ覚えていようはずもないのだが、無駄に自意識過剰な大西の羞恥心はそれを許さなかったのである。

 ともかくそういうわけで、周りに人がいないのをいいことに、大西はその、ちょっとエッチな漫画を読み耽っていた。


 ところで今更述べるまでもないが、大西は男であり、性的な表現を目にすれば、極めて健全な生理現象が発生する。今流行の女性芸人がネタにしている通り、地球上に男は三十五億人いるわけであるが、性的欲求の度合いには当然個人差があり、それをどこまで行動に移すかは、欲求と自制心の危ういバランスによって決められている。そして、大西の性的欲求は一般的な成人男子に比べると若干強く、要するに、彼の天秤はほんの少しだけ、欲求の側に傾いているのである。

 気分が高まるとどうしてもすぐに発散させなければ気が済まない、そういう気質の成人男子は一定数存在し、他人に迷惑をかけず、法を犯さない範囲で、自らの右手を用いて処理する限り、それ自体は何ら責められるべきものではない。問題があるとすれば、大西が既に何度もこの部室でその行為を実行に移しているという事実であろう。実のところ、他に誰もいないからこそ大西は成人向けの漫画を手に取ったのであるし、手に取ったからには発散せずにいられない、大西はそういう困った性分の男だった。


 しかし、ここで不幸なアクシデントが発生した。左手で漫画本を持ち、右手でズボンに手をかけたその瞬間、半分の支持を失った哀れな漫画本は、ボタリと床に落ちてしまったのだ。

 だが、彼の不幸はそれだけに(とど)まらなかった。大西が左手に掴んでいたページがビリリと音を立てて破れ、漫画本から見事に切り離されたのである。見開きで大きく股を開帳し、あられもない姿を晒していたつるぺたの女性キャラクターが、なんと一瞬で片脚を失ってしまった。

 残念なことに、大西は人体欠損ものに対して性的興奮を覚えない。否、それ以前に、部室で性欲を発散させるような不埒者の大西も、部室の備品を損壊したら修復せねばならぬという、人として、部員として最低限のモラルは辛うじて持ち合わせていた。つまり、大西は破れた漫画本を直すためにセロハンテープを探さなければならなくなったのだ。


 あいにく、漫研の部室にはセロハンテープ及びその代用品になりうるようなものがなかった。こういった場合、次に探すべき場所は、同じサークル棟の入り口付近にあり、現在物置として使われている、元社会心理学研究会の部室である。あそこならば大抵のものはあるはずだ。大西は膝までずり落ちたズボンと下着を慌てて引き上げ、漫研の部室を出て、物置へと向かった。


 ここには、サークル活動に使う細かいものから構内の整備に使う道具、はたまた何かのイベントの際に用いられるパイプ椅子やテーブルに至るまで、多種多様なものが詰め込まれている。そのため、基本的に鍵は開けっ放しになっており、構内をうろついていて不審に思われない人間であれば、誰でも自由に出入りが可能な場所だ。


 物置の扉を開け、中を覗き込んだ大西は、そのあまりにも異様な光景に、一瞬我が目を疑った。


 数週間前、漫研の部室で起こった事件より、遥かに悲惨な状態だった。壁際に立てられていたスチール棚は悉く引き倒され、中に収められていたものは皆、バラバラになって床にぶちまけられている。

 だが、部屋の中央にはぽっかりと、妙に散らかっていない空間があった。それは大体直径二メートルほど、魔法陣のように綺麗な円形をしており、無残に荒らされた部屋の中で、白いリノリウムの床が見えるのはその円の内部だけ。

 しかし何よりも大西の目を引いたのは、円の中心に横たわる全裸の女性の死体と、周囲に広がるどす黒く乾いた血の跡。死体の上やその周辺には、白と薄桃色の細かい布の切れ端が、桜吹雪のように散らばっている。仰向けになった女の死体は、両脚が綺麗に揃えられ、両手は腹の上でしっかりと組まれており、大きな掃き出し窓から差し込む日光の効果も相俟って、危うく陶然としてしまいそうなほど、ある種の神々しさを放っていた。


 これだけならばまだ良かったかもしれない。だが、大西の網膜にしっかりと焼き付いたこの光景は、彼の一生のトラウマになってしまった。何故ならば、その死体には、首から上がなかったからである。

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