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四月二十二日~四月二十八日 心美

 またこれだ。


 昼休み、私は大学の女子トイレで、繰り返し襲ってくる吐き気をこらえていた。

 頭痛、吐き気、体のだるさ、下腹部のチクチクとした痛み、体の火照り、腰痛。PMS、月経前症候群の症状が重い私は、定期的にこの苦痛に苛まれる。匂いにも敏感になるし、森羅万象、ありとあらゆるものに対してイライラが止まらなくなるのだ。初潮以降、生理痛も含めれば、私の人生の半分はこの苦痛との戦いだったと言っても過言ではない。


 生活習慣を改善して以降、特にここ最近は以前と比べてPMSも少し軽めになっていたから、久しぶりに重い症状が出たことに、私は困惑していた。季節の変わり目でホルモンバランスが崩れているからか、それとも、環境の変化によるストレスが今頃になって出てきたのか。

 いずれにしても、こんな状態では食欲も湧かないし、あまり人と話す気分にもなれず、昼休みぐらいは一人でゆっくり過ごしたかった。しかし、人目をしのげる場所といったらトイレの個室ぐらいだし、ずっとトイレに篭もっているわけにもいかない。大学の外まで出る気力もなく、色々悩んだ挙句、私の頭に浮かんだのは、数日前初めて足を踏み入れたあの部屋のことだった。

 サークル棟にある元社会心理学研究会の部室、現在は物置として使われている部屋だ。


 アルミ製の引き戸を開けると、部屋の中央にパイプ椅子を出してコンビニのパンを食べている織原伊都子の姿が目に入った。彼女は少し驚いた様子だったが、戸口に立っているのが私であることに気付くと、途端に表情を和らげた。


「いらっしゃい、心美ちゃん」



!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i



 それから数日が過ぎても体調はなかなか上向かず、私は何度もサークル棟の物置で昼休みを過ごした。静けさのためか、それとも懐かしい兄の気配がどこかに残っているのか、この散らかった物置は、不思議と心が落ち着いた。

 私一人のときもあったし、織原伊都子がいたこともあった。一人の方が好きだったけれど、伊都子がいても、さほど邪魔には感じなかった。幸い、彼女は会話に気を遣うタイプの人間ではなかったからだ。


 私たちはお互いのことについて色々な話をした。といっても、クラスメイト全員ぶっ殺したいとか、そこまで本音を打ち明けたわけではなく、あくまで普段の私のイメージを崩さない範囲の、当たり障りのないことばかりだったけれど。そんな私を、彼女は『サクラ・トライアングルの桜子ちゃんみたい』と評した。

 月9の連ドラであるサクラ・トライアングルは、人気の若手女優と若手俳優、そして動物番組で有名になったタレント動物が出演するということで話題になり、高視聴率を記録している恋愛ものだ。現在三話まで放送が済んでおり、最新話は、清純派女優の武本小夜演じる主人公の桜子が、グラビアアイドルの細川果雨が演じる恋敵の朱里に陰湿な嫌がらせを受けるというストーリーだった。

 武本小夜の人気が急上昇し始めた頃から、私はそいつに似ていると時々言われるようになった。確かに、目の形や輪郭、小さな笑窪など、似ていると思える部分は何か所かある。また、桜子は田舎から上京してきたばかり、天然だけが取り柄のバカな芋女で、武本小夜の容姿も相俟って、おそらくその清楚なイメージを私と重ねているのだろう。バカと清楚は別物だし、あんなのと一緒にされるのは全く以て心外だったが、それが彼女にとって最大級の賛辞なのだということは理解できた。


 伊都子との会話の中で最も驚かされたのは、彼女に現在同棲中の彼氏がいることだった。

 名前は諸星(わたる)。彼女と同じ文学部の二年生で、サークルも同じ文芸部。バイトもせずに、プロの作家を目指して朝から晩まで小説を書き続けているらしい。生活費は伊都子の実家からの仕送りと、彼女がピザ屋のアルバイトで稼いだ収入のみ。

 そんなヒモ同然の男と付き合っていったい何のメリットがあるのか、私には全く理解できない。だから、私はそれとなく彼女に尋ねてみた。その頃には既に、お互いタメ口で話し合える仲になっていた。


「ねえ、その人の、どんなところを好きになったの……? ほら、私、恋愛したことがないから、よくわからなくて……」


 すると、伊都子は驚き、一重の小さな目を大きく見開いた。


「ええ! うそぉ? そんなにかわいいのに!?」

「私、高校は女子高だったから……」

「いやいや、でもどこにいても声ぐらいはかけられるんじゃない? 大学でだって、結構言い寄られてるよね?」

「……あんまり馴れ馴れしい男の人は苦手だし……」


 彼女はへぇぇ、と大きく相槌を打って、


「でも確かに、私も馴れ馴れしい男は苦手だわ」


 と呟いた。


「亘のいいところかあ……いざ聞かれてみると難しいな。理屈っぽくて、斜に構えたようなところがあって、生活能力がなくて……ってあれ、これじゃ全然誉めてないね」


 気まずそうに頭を掻いてから、彼女は話を続ける。


「でもね、小説にかける情熱は本当にすごいの。最初は全然大したものを書けてなかったけど、どんどん文章は上手くなってきてるし、才能はあると思うんだ。去年の末に文芸部で出した同人誌でも亘の作品が一番好評だったし、今まで書き溜めてたものを、この間調子こいて電子書籍で出したんだけど、これが結構売れたんだよ」


 諸星亘について話す伊都子の表情は、普段の暗い雰囲気とは真逆と言っていいほど明るかった。


「だから、小説を書く以外は何にもできない奴だけど、私が面倒見てやらなくちゃって……要するに、放っておけないんだよね」



!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i



 それから数日後の昼休み。相変わらず体調は最悪だった。

 今朝のベッドの中では、いっそ講義なんて全部サボってしまおうか、とすら考えたほど。だが、せっかくここまで築いてきた優等生のイメージに傷を付けるのはなるべく避けたい。今日一日耐えれば明日からはGWだ、と自らを鼓舞して、重い足を引きずりながら、ようやく大学まで歩いてきた。

 気分は体調以上に荒れていた。こんな状態でどうでもいい世間話を延々と聞かされたりしたら、今までずっと我慢してきた悪態が口から溢れてしまう恐れがある。周囲の女子に対してうっかり『おいデブス』とでも口走ろうものなら、今後のキャンパスライフはずっと人間関係に悩まされることになるだろう。私の足は自然とサークル棟の物置へと向かった。


 いつものように引き戸を開けると、伊都子は今日もそこにいた。掃き出し窓の前にパイプ椅子を出し、椅子に座ってぼんやりと外を眺めている。しかし、その表情はいつも以上にどんよりとして、何か思い詰めているようにも見えた。いつもなら私が顔を出せばすぐに向こうから声をかけてくるのに、気付いているのかいないのか、今日はこちらを振り向きもしない。


「こんにちは、伊都子ちゃん」


 私の挨拶にも無反応。明らかに様子がおかしい。


「伊都子ちゃん……? どうしたの……?」


 二度目の呼び掛けで、彼女はようやくゆっくりとこちらを振り向いた。


「心美ちゃん……私……子供を産めない体になっちゃった……」

「えっ……?」


 ぼろぼろと涙を流す彼女を宥めながら聞きだした内容は、以下のようなものだった。

 彼女は先日、人工妊娠中絶術を受けた。だが、未成年で中絶手術を受けるためには親の同意書が必要となる。彼女は亘との同棲はおろか交際していることすらも地元の両親に伝えていなかったし、伝えたとしても、中絶の件がバレてしまったら強制的に別れさせられるのは目に見えていた。だから彼女は、親の同意書が必要とされない産婦人科――つまり、闇医者――で、中絶手術を受けたのだ。

 予定日を過ぎてもなかなか生理が来ず、市販の妊娠検査薬を使い、陽性反応が出たのが今年の一月。それから手術費用を捻出するのに時間がかかり、その間、もう一人の責任者である諸星は、バイトを探すと口では言っていたものの、実際に働くことはなかった。手術を受けられたのは、彼の電子書籍の売り上げが入金された四月に入ってからだった。

 妊娠十週を過ぎると、胎児の成長によって手術そのものも大掛かりになるし、それだけ後遺症のリスクも増大する。術後、体に異変を感じた伊都子は正規の産婦人科に駆け込んだ。しかし、その時には既に子宮が大きく炎症を起こしており、将来の不妊の可能性を指摘されたという。


 自業自得と言うのは簡単だ。そもそもの原因は、彼女がろくでもない男と深い関係を持ってしまったことにある。だが、私にはそれが他人事とは思えなかった。


「伊都子ちゃん、差し出がましいようだけど……その、彼氏とはもう別れたほうがいいよ。貴女がそんなに苦しんでいるのに、その男は……」


 これは客観的に見ても当然の意見であるように私には思われた。話を聞く限り、その男には人として、男としての責任感が欠如している。もし仮に作家になれるだけの文才があったとしても、それとこれとは全く別問題。自分の子供を身籠った彼女に闇医者で中絶手術を受けさせるなんて、まともな神経の持ち主とは思えない。しかし、彼女はその男との別れを頑なに拒んだ。


「嫌……それだけは……。亘と別れたくなかったから、無理して闇医者で手術を受けたんだよ。子供を産めなくなった上に、亘までいなくなったら、私……もう生きていけないよ……」


 これだけひどい目に遭い、体に一生消えない傷を負わされても尚切り捨てられない男とは、いったいどんな男なのだろう。私はその諸星亘という男に接触してみることにした。

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