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四月十六日 小雨

「それじゃ、真紀の十七歳の誕生日に乾杯!」


 瞬が音頭を取って、三つのワイングラスが持ち上げられた。いや、正確に言うと、私はグラスを合わせようとしたのだが、二人はそうせず、軽く顔の前でグラスを上げるだけだった。だからグラスがぶつかることはなく、私だけがびよーんと腕を伸ばして空振りに終わったわけだ。ああ恥ずかし……。

 ビールジョッキで乾杯するような感覚でうっかりグラスを出してしまったのだが、ワイングラスで乾杯をするときは、合わせたり音を立てたりしないのがマナーなんだそうだ。そういえば、去年の私の誕生日にここで真紀と食事をしたとき(※1)も、同じことをやったような気がする。鳥頭か私は。


 ここは青葉市内にある『Poissons d'or』というフレンチレストラン(※2)。真紀のお気に入りの店で、誕生日などのちょっとした贅沢をしたい場合によく使われる。真紀が選ぶだけあってとてもおシャンティな雰囲気の落ち着いた店で、クラシックのピアノ曲がずっと流れている。ドビュッシーだ、と真紀が言っていた気がするが、曲名は知らない。


 さて、冒頭でツッコミが入ったであろう真紀の年齢についてだが、もちろん本当に十七歳ってわけじゃなく、真紀は今日で二十一歳になった。おそらく、『十七歳』と言うように瞬が躾けられているんだろう。まったく、手の込んだことだ。


 真紀は器用にグラスを回し、香りを楽しんでからワインに口をつける。いつもビールをぐびぐび飲んでいる私から見たらまどろっこしいことこの上ない行為なのだが、これ以上恥ずかしい思いはしたくない。見よう見まねでワインをくるくると回し、ちびりと口に含んで香りと味を確かめた。ちなみに、ワインの良し悪しはさっぱりわからない。

 車の運転がある瞬だけは、グラスの中身がミネラルウォーターになっている。ファミレスなんかだとコーラを頼んだりする彼だが、やっぱり洒落た店でコーラを飲む勇気はないのだろう。いや、そもそもここのメニューにコーラはあるのか?

 そういえば、ここに来るのは今回で二度目だが、前回も今回も真紀がコースで予約をとっているから、まだメニューを見たことがない。もしかして、メニューを見たら気絶するような値段だったりしないだろうか。前回は真紀がカードで払ったし、今日は全部瞬の奢り。つまり、私は二度とも単なるタダ飯喰らいである。私の舌は三桁までの料理にしか対応していないのだが、こんなおシャンティな店で三桁ってことはなかろうし、もしかすると五桁……ああ、これ以上考えるのはやめておこう。


 ワインの味見……いやテイスティング? が終わったところで、私はプレゼントの入った小袋を真紀に手渡した。


「お誕生日おめでとう、真紀」

「わあ、ありがとう! 開けてみてもいい?」

「どうぞ」


 真紀はまるで子供みたいに喜びながら、プレゼントの入った袋を開ける。中身は有名ブランドのバスグッズだ。真紀は化粧品も香水も高価なものを使っているし、アクセサリーはきっと瞬があげるだろうと考えて、まあ無難な消耗品に落ち着いたというわけ。


「あぁ、かわいい~。ありがとう小雨」


 もう何度この表現を使ったかわからないけど、語彙が乏しい私には『天使のような』という形容詞しか浮かんでこない。だから何度でも使おう。真紀は天使のようにうっとりと微笑んだ。


 ちょうどプレゼントの納品が終わったタイミングで、スープが運ばれてきた。

 スープ皿の中は黄緑色に満たされていて、中央にアスパラガスの先端が二本浮いている。その周りを囲むように、ぐるりと生クリーム? が垂らされていた。真紀がウェイターの女性に尋ねる。


「これは……何のスープですか?」

「こちらは、グリーンアスパラのスープになります。今年の春の初物なんですよ」

「アスパラですか! おいしそう……」


 アスパラのスープ。味の想像がつかん……。

 一見するとグリーンカレーに見えなくもない抹茶色の液体を、スプーンで掬い上げ、おそるおそる口に運ぶ。この中に実はワサビがたっぷり入ったワサビスープが混じっていたりしないだろうか。ワサビも抹茶もアスパラも見た目の色は大体同じだから、見分けることは不可能だろう。そういう罰ゲーム的なものはもれなく引き当ててしまうという妙な自信が私にはある。


 なあんて、私は随分この店に対して失礼なことを考えているものだ。前に食べたときもめっちゃ美味かったじゃないか。

 覚悟を決めて、謎の液体を一口すする。


 とてもまろやかな口当たりだった。最初にフッとじゃがいもの味がして、一瞬のち、爽やかなアスパラガスの風味が口の中いっぱいに広がってゆく。


 疑ってすみませんでした。なにこれ、めっちゃ美味い。


 スープはあっという間になくなって、ウェイターさんが空になった皿を片付けていった。次の料理が来るまで少し間がある。あっ、と思い出したような顔をして、真紀が話を切り出した。


「そういえばね、心美ちゃん、昨日うちのゼミに顔出したんだよ」

「えっ、もう?」


 うちの学部ではゼミは三年からだが、真紀の所属する経済学部は二年の後期から既に始まっている。一年のこの時期にゼミのことを考えている学生はまずいないだろう。私もそうだった。


「そうそう。だから皆びっくりしちゃって。もちろん、見学しただけだったんだけど、若くてかわいい子が来たもんだから、男子が目の色変えて、急に真面目になってね。教授も『これなら毎日でも来てもらいたいな』なんて言う始末で。本当、男はわかりやすいっていうか……」


 へえ、と頷きながら、私は真紀がまだ一年だった当時のことを思い出していた。あの頃は大変だった。真紀にアプローチをかけてくる男がめちゃくちゃ多かったからだ。女の私ですら『西野園さん紹介してよ』と声をかけられたぐらいだから、瞬はもっと酷かったのではなかろうか。いや、一番大変だったのは真紀本人だっただろうけど。

 瞬と付き合い始めて以降はかなり下火になったのだが、それでもまだ諦めの悪い男衆から時々声をかけられるらしい。真紀の一年当時の状況を考えると、今の心美ちゃんも結構大変なのではないだろうか。

 しかし、一年のこの時期からゼミとは。やっぱりめちゃくちゃ真面目な普通のいい子なのかもしれない。袴田先輩の件は、きっと自殺だったのだ。いつまでも彼女を疑ってかかるのはよくないな。



 楽しいディナータイムが終わり、私たちは瞬が運転する車に乗り込んだ。助手席は真紀の指定席で、私は当然のように後部座席。席につくなり、真紀がバックミラー越しに声をかけてきた。


「おいしかったね〜。小雨はどうだった?」

「う、うん。おいしかったよ、すごく」


 私たちを乗せた瞬の車は、先を急ぐように夜の街を滑り出す。

 さっきのミニパーティーの席上で、瞬は真紀にプレゼントを渡さなかった。私を家に送り届けたあと、今夜は二人で過ごすのだろう。瞬のプレゼントは、きっとそこで渡されるのだ。それが予測できてしまうだけに、家までの短いドライブが、私にとってはとても長く苦しいものになった。


 瞬の誕生日は三月三十一日で、ついこの間二十歳になったばかり。年度の最終日だから、学年では常に最後に誕生日を迎えるわけだ。

 もしも瞬の誕生日があと二日だけ後ろにずれていたら、瞬は私と真紀にとって下級生だったことになる。つまり、瞬と真紀の出会いも一年遅れていた。たらればが禁物なのは百も承知だけど、もしもあと一年の猶予があったなら、私は真紀よりも先に瞬の心を射止められただろうか。そんなしょうもないことを時々考える。

 どうだろう。わからない。でもやっぱり同じ結果になるような気もする。私は結局まだまともに想いを言葉にできていないのだから。


 瞬の運転する車が、私の家の前で止まった。


「小雨、今日はほんとにありがとね。これ、今夜さっそく使ってみるから」


 真紀はそう言って、私がプレゼントしたバスグッズを顔の横に掲げて見せた。それから瞬に抱かれるのか、という連想が頭をよぎり、返事がうまく言葉にならない。うん、と一度だけ頷いて、私は車を降りた。

 車が再び走り出してからも、真紀は私の姿が見えなくなるまでずっと、私に笑顔で手を振り続けていた。いったい彼女のどこを憎めというのか。


「あ〜、クソ……部屋で飲み直しだな、今夜は」


 誰にも聞こえないような声で呟いてから、私は我が家の玄関を跨いだ。

(※1)シリーズ六作目『京谷小雨の日常』参照

(※2)シリーズ四作目『My Funny Valentine』参照

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