我が親愛なる吸血鬼
私と彼が付き合い始めたのは、今から大体2ヶ月前だ。
クラスの学級委員をしながら、部長と生徒会書記を務める多忙な私は、冴えない彼に、月並みの表現だが、恋をした。
何故か惹かれたのだ。
付き合った当初、学校中から大バッシングを受けたのは今でも忘れない。
その時ついた私たちへのあだ名は「美女と野獣」だった。
まぁ、確かにいいセンスはしていると思う。
騒がしく突っかかってくる人間タチには「好き者同士一緒にいるんだから、何が悪い」とsadisticな性格全開で、大衆の前で声を張ったこともあった。
時はいつの間にか過ぎ去っていて、実は未だにキスをしたことがない。
別に気にしている訳ではないが、なんだか、気にくわない。
まず、彼は私を好いているのだろうか。
胸に濁りが生まれた…。
もう午後7時前だ、気がつけば。
ふと今日一日彼に会っていないことを思い出した。
そんなどうでもいいことに頭を働かせながら、職員室に添削課題を提出するため、階段を一つ一つ降りていく。
スリッパ特有の音が人のいない校舎に響き渡る。
彼はもう帰っただろうか。
誰か、下から上がってくる音がする。
すぐに解った。
さすが、私だ。
足音で彼だと気づけるなんて。
こんな広い学校でよく会えるものだ。
笑えるな。
彼も気がつき、足を止め、にこっと微笑む。
が、私は微笑み返さなかった。
その代わり、早歩きで階段を下り、彼の二段上で立ち止まった。
私よりも背が15センチ程高い彼を見降ろす日が来るとは、まぁ、考えたことがなかった。
少し不思議そうな表情を彼は浮かべて居た。
「何か辛いことでもあったの?」と有りもしないことを、落ち着いた声で彼は呟く。
そんな彼に、私は一言も与えなかった。
その代わり、彼を抱き締めた。
身体を少し前に傾けて、彼に自分の鼓動を聴かせるように、抱き締めた。
すると、彼は私の胸に耳を当てながら、私の腰と背中にゆっくりとぎこちなく腕を回した。
悔しいが早くなる鼓動が彼に丸聞こえだ。
恥ずかしくなり、彼から身体を引き剥がし、彼に向き合う。
彼の肩に置いた私の手が、私の腰に回った彼の手が、何か言いたげだった。
彼の左目を見つめた。
そこには自分が薄っすら映っていた。
その中の自分と目を合わそうとさらに見つめ返す。
あざといかもしれない。
でも、離れられない。
よく見ると彼の瞳は綺麗だった。
私はそっと彼の左頬に左手を添えた。
親指を下唇にそって、そっと這わせた。
それから、顎を親指と人差し指でぐっと持ち上げた。
彼はなされるがままの人形だ。
彼の澄んだ瞳に不安と期待が混じる。
いいだろう、やってやるよ、と心で呟き、そっと唇を擦り合わせる。
鼻を右に傾け、彼の唇を啄む。
彼の唇は薄く、面白味に欠けるようだが、案外柔らかい。
私は上唇で遊んだ。
接吻を繰り返すうちに、どちらが自分の唇か分からなくなる。
何度唇を離しても、彼が怪訝そうな表情を浮かべるから、また重ねる。
慣れない他物と舌は、チョコレートを口の中で溶かす感覚に似て居た。
学校に人が居なくてよかったと切に思う。
やっと、唇が離れたとき、彼の口が濡れていた。
少し汚いことをしたと思い、申し訳なくも思った。
何故だろう
彼の目がどこか遠くを見つめている
私は此処にいるのに
何に心を奪われているの
いつの間にか、身体が勝手に階段を一段降りていた。
そして、私は彼の頭を少し左に傾け、首筋が見えるように、カッターシャツを引っ張った。
ボタンの所為で、シャツが張る感覚が右手に伝わった。
彼の白い肌が薄暗い中に浮かんだ。
私は少し前のめりになった。
彼の項にキスをした。
それから、音を立てながら、口を首から離した。
強く吸いすぎてしまったのかもしれない。
私ははっとし、急に我に返った。
全ての罪に「あぁ…」と呟くことしかできなかった。
私は急いで彼から身を引こうと後ろに体重を変えようとした時、彼の腕が強く私を捕まえた。
危ない。もう少しで倒れるところだった。
「my dear vampire」
と彼が少し震える声で愛おしそうに私の耳元で囁いた。
なるほどねと心の中で苦笑する。
彼にとっては、闇の奥に生きる悪魔や死神と同等な訳か。
彼の前では、清い天使か女神で居たかったのだが。
暫く経って、やっと彼の腕が私を釈放した。
無理な体勢で立って居たからだろうか。私は力が抜け、その場に崩れるように、座り込んでしまった。
彼が驚き、心配そうに屈んだ。
私はどうすればいいのか分からず、黙ってしまった。
すると、彼は一度踊り場まで降りると、片膝をつき、私の左手を右手でそっと掬った。
それから、私の薬指を親指の腹で撫り私を見つめ返した。
それはまるで女王に忠誠と愛を誓う騎士のようだった。
私たちは何人たりとも穢せない存在だと確信した。
若く青い果実の中身は赤く熟れた林檎であったようだ。
空の絨毯がワインレッドに染め上げられる。
雲が静寂に広がり、漂う。
月が高く昇る。
夜は長い
闇は深い
影は厚い
世界の目から隠れ、逃れて、いつの間にか2人になったようだ。
今宵は眠れそうにない
別に君のせいじゃない
ただ、月の視線が気になって眠れないだけだ