4 あの晩の
回想シーンです。
いわゆるダレ場かもですが、かなり好きなシーンになりました。
その晩、衝太郎は夢を見た。
いつのまに眠っていたのか、目をこすると、薄ぼんやりした灯りの中、台所に母親の気配がある。
帰って来たのか、と安心する。
身を起こそうとすると、膝から本が落ちた。
擦り切れた畳の部屋は六畳ほどだが、まだ小学校にも上がっていない衝太郎には異様に広く感じる。
その向こうは四畳半ほどのダイニングキッチン。とはいえ、ふたり掛けのテーブルを置くと、それでもういっぱいになってしまう程度の狭さ。
部屋はそのふたつだけだ。
DKには流し台のほかに、冷蔵庫、洗濯機、戸棚が置かれ、小さな風呂とトイレへ通じる扉と、玄関扉が直接面していた。
赤っぽい電球の灯りがゆらめいている。
引き戸の隙間から、流しに向かう母親のエプロンをした背中が見えて、衝太郎はうれしくなる。
けれど母親には話しかけず、読みかけの絵本をまた手に取る。
もう何十回も読んでしまった、ボロボロの本だ。
文章もほとんど暗記している。
絵を見ながら、トントントントン……聞こえて来る、まな板を包丁が叩く音に耳をすませる。
ときおり、コトン、カタン、カチャ、戸棚を開けたり、鍋や食器が触れ合う音が混じるけれど、基底にあるのはリズミカルな、トントントントン、包丁の音。
やがて、ジャッ、ザッ! 油をひいた中華鍋の中へ具材がほうり込まれ、手際良く炒められていく音が響くころになると、なんともいえないいい匂いがただよい始める。コポ、コポ、シュー、と、ご飯の炊けた音と匂いも混じる。
眠っていて忘れていた衝太郎の空腹が頭をもたげ始めるころ、
「もうできるわよ、衝太郎」
呼ばれて、すばやく立ち上がる。
台所の布巾を取ると、水で濡らし、硬く絞ってテーブルを拭く。盛りつけられた料理を運ぶ。
すぐに、
「いただきます!」
夜八時半。子供にしては遅い夕食が始まった。
炒めものは回鍋肉。
シャキシャキした食感を残したキャベツに、豚バラ肉がからみ、味噌とオイスターソースの甘みもあって、うまい。
得も言われぬほどのうまさ。なぜキャベツがこんなにうまいのか。豚肉がこんなに味わい深いのか。
噛むほどに、うれしさが口の中いっぱいに滲んで来る。
サラダはブロッコリーに新玉ねぎ、トマトやベビーリーフ、それに白い短冊状のものは山芋か。
ひと口食べて、
「わぁ」
つい声が出る。
市販の中華ドレッシングかと思ったら、梅肉、酢、砂糖、オリーブオイルをあえたもので、さわやかな酸味が回鍋肉の油気をたちまち消していく。
小鉢はスナップエンドウの胡麻和え。
昨日の残りだが、むしろ味がよく染みて、より白いご飯に合う。
おかずを口にし、よく噛み、よく砕き、潰して、ご飯をほうり込む。よく混ぜる。また噛む。
口の中いっぱいに、おいしさが広がる。
鼻から抜ける、肉と野菜と米の味わい。満足の味がする。
箸休めの小皿が炒り子を甘辛く煮たもので、もとは味噌汁の出汁を取ったものだ。これもいつも食卓にあって、衝太郎の好物だった。
ふりかけのように、ご飯にかけてもうまい。
ひとりの昼など、家で食べるときはいつもそうしている。
そして味噌汁。
ささがきにしたごぼうと人参がたっぷり入っている。
汁とのバランスが少々悪いくらいで、衝太郎はごぼうやにんじんをおかずのように食べ、汁をすすった。
「ふぅー」
すっかりたいらげてしまうと、自然に息が漏れた。
満足のため息だ。
テーブルの向かいの母親も、衝太郎よりはずっと少ない量をやはり済ませていた。
「ぼく、ココアが飲みたい!」
お茶ではなく、ココアなのは、幼い衝太郎だからのこと。
笑って母親が席を立つ。
ふだんは自分でお湯を沸かし、淹れるのに、晩御飯のときは母親に甘えたくなる。そうして出てきた甘いココアをひと口すする。
「ぁー」
こくんっ、喉をとおる甘くあたたかいココアが、心も身体もあたためてくれる。コクのある液体を飲みくだすたびに、しあわせみたいなものがこみ上げる。
「お母さん、明日は早く帰ってくる?」
しかし衝太郎の問いに、母親は笑って首を振る。
少しがっかりする。
朝から早く出かけてしまうのだと言う。
きっと衝太郎が幼稚園へ行くよりも、ずっと早く。
だから衝太郎はひとりで幼稚園へ行かなくてはならない。周りの園児がみんな、母親や父親に送られてきているのに。
車がひっきりなしに停まる幼稚園の正門を、ひとりでくぐる衝太郎。
それでもいい。
夜には母親が帰ってくる。
もっともっと遅ければ、夕食だってひとりで作らなくてはならないのだから。
そしてじょじょに、ひとりで食べる夕食の頻度が上がって行き、さらにはひとりで暮らすようになるころ、衝太郎は高校生になっていた。
回想シーンはこれで終わりです。
またリュギアの街に戻ります。