8 ハイドラ
新たな敵は・・ええ、そのへんはお読みいただいて。
このまま物語も佳境であります。
「いったいどこから来たんだ。いきなり街を囲まれるなんて」
すでに明け方が近い。
衝太郎は館のバルコニーから身を乗り出して、街の外れを見つめた。目凝らすまでもなく、白み始めた空の下、街を包囲する敵兵の集団が見える。
(まだすぐには攻撃してくるようすはないな)
敵兵たちは無秩序に散らばり、一部は固まったりしている。小さなテントも多く、中で寝ているのだろう。
「あれを! 衝太郎!」
いつのまにか隣に来ていたアイオリアが指さす。
そちら側は街が湖に面している。衝太郎が向き直ると、陽を映してキラキラ輝く湖面に、
「あれは……!」
無数の小舟が見えた。ほとんどは、もう岸に引っ張り上げられているが、まだ浮かんでいる物も多い。
特徴的なのは、すべてが黒く塗られていることだ。
「あの船で兵を運んできたのね」
「ああ。黒くて見えなかったんだな。それでやすやすと」
敵が湖からやって来ることは想定していなかった。まして、黒くカモフラージュされた小舟で近づくなど。
従来のリュギアの防備体制の隙を完全に衝いた、敵の作戦勝ちだ。
そしていわゆる、アイオリアの言う、この世界での、これまでの戦の作法を無視した、戦法でもある。
衝太郎は唇を噛む。拳を握りしめた。
せめてもの救いは、この街を囲む防壁が作られていたことだ。
もともと申し訳程度の、街の境を示す壁はあった。それが、ドルギアとの戦いが激しくなってから、つまり衝太郎が来てから、強化されていた。
土塁を盛り上げ、土壁を強固に作る。
壁には弓を射る穴を開けた。
一定間隔で、物見と戦闘指揮のための櫓を作ってある。もちろんすべてが、衝太郎の発案と指示で工事工作されたものだ。
ただし、すべてが完成しているわけではなく、
「五十……六十パーセントってところか。ないよりはマシだけどな」
街の住民にはすでに状況が伝えられ、アイオリアの名前で戦闘準備が下命されていた。
戦える男たちは武器と防具を身に着けて防壁へ。街中の食料を集めて館の蔵へ集積する。それと飲み水の確保。
女性や子どもは基本、館に避難させられたが、そこで矢など武器を作ったり、炊事、戦闘が始まった場合の救護班となる。
衝太郎も見ているだけ、考えているだけではない。次々と指示を出し、自ら駆けずり回った。
そうやって、
(やれることはやったが……)
基本、兵が足りない。
前回のドルギアとの会戦のあと、部隊は解散してしまっている。
農村部の徴募兵は家へ帰しているし、正規兵は通常の、国境などに警備のため散らばっていた。
「東の砦には、合図を送ったんだよな」
「ええ。でも準備からして、到着には一日かかるわ」
リュギアスの兵力は、街に残っていた正規兵が五百人、戦える市民の男性をかきあつめて千人がいいところ。
「街にこもって防御戦だ。しのげるか……けど」
(援軍が来なければ、確実に負ける)
声には出さなかったが、衝太郎のシャツの下を絶望の汗が流れ落ちる。
思いが、ある一点へと流れて行きそうになるのを振り払うように、
「よーし! そうとなったらこっちも腹ごしらえだ!」
衝太郎はわざと陽気に声を上げた。
「ええ? 敵がいつ攻めてくるかわからないのに?」
驚くアイオリア。衝太郎は、
「まだ始まらないよ。たぶん、朝飯を兵に摂らせたあと……八時か九時ごろに開戦、てところだな。時間はある」
告げる。
敵は夜通し行軍して来たはず。
リュギアの街を包囲しながら、いまは休憩を取っているところだ。
「ほら」
衝太郎が視線で指し示す。
敵の兵が固まっているところ、いくつも炊煙が上がり始めた。
「あれって」
「朝飯の支度ってやつだな。ならこっちも始めようぜ。腹が減っては戦ができぬ、ってさ。オレが作るよ。ジーベ、フィーネ、食材を持ってきてくれ。ベーコンと卵、それに……」
言いながら、衝太郎は気づいた。
もっとも肝心なことを忘れていたのだ。
「どうしたの、衝太郎」
「いや、敵は何なんだ。どこから来た? そいつをわかってなかったな」
衝太郎の言葉に呼応するように、
「申し上げます! つい今しがた、街の市門のまえに敵兵が来て、これを」
連絡の兵が部屋へ入って来る。
革の大きな封筒を衝太郎たちへと差し出した。
「そろそろ最後通牒が届くころでありんすかのぉ」
水辺に張られた大幔幕の中、柔らかそうな寝椅子に横たわった美女が、そう言うと笑った。
見れば、寝椅子に横たわった彼女の腰のあたりまで湖水がひたひたと浸している。
「はい、ハイドラさま。もはやリュギアスの連中に勝ち目はないかと」
「もぬけのカラのドルギアを超えて、我がフィレンツァがいっきにリュギアを衝こうとは、夢にも思わなかったはず」
従者のふたりは少女だが、少年のように髪を短くしており、身にぴったり張り付いた薄衣を通してわかる胸なども、ほとんど成熟していない。
眉もほとんどなく、肌はひどく青白かった。
リュギアの街を囲んだフィレンツァ軍の、ここは本陣なのだ。
「ほほほほほほ! そうであろ! アイオリアとやら、あの小娘も観念するほかあるまいのぉ。ドルギアとの戦いに勝って、慢心が災いを呼び寄せたと思いはるんやなぁ。まさか水から来るとは思わなかったやろ。ほほほ! ほほほほほ!」
ハイドラが声を上げて笑う。
その口元を、派手な羽のついた扇子で隠した。
水かきを模した装飾の兜。申し訳程度に胸と腰のあたりだけを覆う鎧。アイオリアやケルスティンのように、目いっぱい肌も露わな出で立ちだ。
そこへ、
「ハイドラさま、朝食をお持ちしました」
侍女が入って来ると、水に腰までも浸かるのをかまわず、ひざまずくと手にした盥を差し出した。
「ふむ。ごくろうじゃ」
ハイドラが上から一瞥する。
盥の中には、何匹もの魚が水の中に泳いでいる。ハイドラは一匹をサッ、とつかまえると、
「んんっ」
身を反り返らせ、顔を天に向けると大きく口を開いて、魚をまるごと呑み込んだ。
十五センチほどの魚が、すっかり姿を消す。喉を鳴らすと、
「こく、んっ。……ふふっ、兵にも朝食をつかわせてありんすか? よい。それが済んだら、戦いの準備でありんす!」
もう一匹、魚を尾びれからつかむと、持ち上げ、丸呑みするハイドラ。盥を下げさせ、身を起こす。
ぬーっ、とハイドラの身の丈が伸びて行く。
大天幕の天井までも届くほどだ。そのハイドラの腰から下は、細かいウロコがびっしりと規則正しく張り付いた、長い胴体だ。
ヘビ。
それも、湖水にわざわざ胴体を浸けているところなど、ウミヘビを思わせる。
「皇帝陛下の御威光をあまねくこの大陸に知らしめる。十二騎士姫がひとり、このハイドラがお目にかけるでありんす!」
ヌルヌルした光沢の胴をくねらせ、科を作るようにハイドラが微笑んだ。
湖から来る敵にどう戦うのか。
軍師・衝太郎の戦いは!
で、次回です。




