009 代王
「陛下」
イルアスト王国の代王館。現在の代王の高祖父が宮殿の玉座でこの世を去ってからというものイルアスト王国を統べる代王はもともとの住居であった公爵邸を改造し行政の中心として使っている。そしてその呼び名は『代王館』である。
その建物の2階にある代王の執務室に入ってきた男が声を掛けた。
声を掛けた男は30代半ば。眼差しが鋭く、長身にして痩身。華美でこそないものの相当に高級そうな衣服に身を包んだ男である。陛下、と声を掛けられた男も30代半ば。体型は眼の前の男に比べれば若干ふっくらしている。温和そうな表情だが目付きは鋭い。少し疲労の色がみえる。
「また何か、悪い話か?」
「流行病の感染地域が広がりました。」
「薬の輸入量は?」
「減っています。」
背の高い男が差し出す資料に目を通しながら陛下と呼ばれた男が溜息を吐く。
「死亡率は?」
「1%程です。が、病に感染すると労働力としてはまず三週間は見込めません。この時期が小麦の収穫時期であることを考えると…。」
「飢饉、か?」
「いや、備蓄の放出と国庫からの拠出で食料品の緊急輸入を行えば飢え死にはしないか、と思われます。」
「感染地域の拡大の情報が他国に流れ出るのは?」
「遅くとも一週間後には」
「では、早速国庫から金を出して商人どもに買い付けに行かせるように手配を。食料品の価格が高騰する前に出来るだけの手を打つように。そしてハンターギルドに護衛依頼を出しておくように。」
「…陛下、ハンターギルドへの護衛依頼を代王命令で出すと情報漏洩が早まります。」
「一斉に商人に買い付けに行かせる時点で情報は漏れるさ。そして各商人たちがバラバラに護衛依頼を出す方が時間も金もかかる。行政府から一律で依頼を出して囲い込んだ上で商人たちに割り振る方が早いし安い。この食料品は簡単に荒野の盗賊どもにくれてやるわけにはいかんからな。…ああ、食料品の買い付けと同時に流行病用の薬品とその原料の買い付けもさせておいてくれ。」
了解しました、と細身の男は代王陛下に頭を下げ、後ろに控えた事務官に指示を出す。代王は傍に控えた女官に二人分の茶の用意を言いつけ、眼の前の男に椅子に掛けるように言った。
しばらく書類をめくる音とサインをする音だけが部屋に聞こえている。
女官が茶のセットを持って来てソファの所で茶を淹れたのを見て代王と長身の男、宰相のエルディアーダ・ヒ・ルーストがソファに座る。
一口茶を口に含んでからイルアスト王国の代王であるナジャメダイ・ミ・イルアストは盛大な溜息を吐いた。
「何度も言うけど…なんでわが高祖父殿は王になりたいなどと思ったんだろうね?女神がナヴァンを王だと認定したのは明白だったのに。氷漬けの女王を頂いて摂政で好きなようにこの国を切り盛りしてればよかったのに。そうしてればこの国ももう少しましだったろうに。」
「何度も言いますけど、陛下。陛下の高祖父殿はあと数日で第17代イルアスト王になるところでした。それをあの魔法使いがナヴァン殿下の眼を治し、視力を戻したため女神が王権をナヴァン殿下に、との託宣を…。まぁ、怒りに目がくらんだのかもしれませんが。気持ちは分からなくもないし、責められないかとも思います。」
「いわゆる帝王学を学び、国の実質トップであることを受け入れてもいるけれど、個人的なメンタリティーとしてはNo.2で黒幕でいる方が好きなんだけどね。」
「それはダメです。何度も言いますけどそのポジションは私のものです。」
「はぁ~」代王はまた大きくため息を吐いて茶を飲みほした。傍に控える女官がもう一杯茶を淹れる。
「わが高祖父殿が東荒野に近隣諸国に無断で展開してあの魔法使いとの戦を起こしたためにこの荒野を取り巻く全ての国が女神によって軍を荒野に展開することを禁じられ、その結果盗賊どもの跳梁跋扈を許すことになり、結果この国の外交面での立場が最悪になってこの百年だよ。」
「まだ百年は経っていませんが。」
「…ほぼ百年だよ。高祖父殿のその行為のお蔭で一つ間違えば飢饉と言う事態に何度直面したことか。」
「歴代代王陛下のご手腕で食料の国家備蓄と緊急時のための国庫金の備蓄のお蔭でギリギリ飢饉には至っておりませんが。」
「それでもこの百年で飢饉になりそうな事態が10回だ。そして今度ので11回目。何とか回避は出来そうだけど、2年…は何とかなっても3年連続でこんなことが起こったらもう駄目だね。しかも国民はそのための税の重さに打ちひしがれてる。氷漬けのナヴァンの眼を覚まして責任を肩代わりして欲しいよ。」
「お気持ちは分かりますが…。そんな陛下に朗報です。」
「なに?」
「ユシュクナル男爵が嫡男のユルグ・カ・ユシュクナルに家督を相続し、本人は代王選定の儀を執り行いたいとの申請を出してきました。」
「昔からバカ親父だと思ってたけど、年取ってバカに磨きがかかって来たのか?」
「そのようです。」
「家督相続は良い。ユルグもあんまり頭は良くないが人柄は温厚だし。でもこの緊急事態に代王選定の儀?金も手間も…。」
「一定の要件を備えた申請は拒否できません。」
「バカに申請の権利は無い、って項目は?」
「ありません。」
「ユシュクナル男爵閣下におかれては流行病の猖獗とそれに伴う飢饉発生の危惧に関する認識はお持ちだろうか?」
「お持ちであれば今こんなタイミングで言い出さないと思いますが。」
「あのバカ親父に一応現今のこの国の状況を話してみてくれる?」
「仰せの通りにいたしますが、言って分かる方ではないと…」
「無駄でも何でも手を打ってみて。場合によって奥方やユルグにも話をしてみて。」
「…。」
「溜息で返事をするのはやめてほしいな。」
「失礼いたしました。」
ヒ・ルーストがソファから立ちあがり、代王の執務室から退出する。代王ナジャメダイも立ち上がりデスクにつく。また書類を眺め、サインをしていく。ふと代王は顔を上げて茶のセットを片付けようとしている女官に声を掛ける。
「そう言えば今日はアスラクファリの声を聴かないようだが。」
「アスラクファリさまは本日は宮殿詰の日でございます。」
「ああ…、そうか。また氷詰めの女王様に見とれているのか。…そろそろ我が国の『歴史』を教える頃か。10歳になって半年経ったか?」
「10歳と7カ月でございます。」
「では、そろそろか。お前はあの子に歴史を教えていないのか?」
「宰相閣下もなされていないことを私などが出来ましょう筈も無く。」
「そんなことは無いと思うけどね、リクシンガイ女官長。大体女官長自らが私の傍に侍るのもどうなのか、って思わない?」
「私以外が先ほどの宰相殿とのお話などを耳に入れることになっても構わないのであればいつでも部下と交代いたしますけれど?」
「意地悪だね?」
「正直、と言っていただければ、と思いますが。」
「ところで従妹殿、私と立場を替わる気はない?ユシュクナル男爵閣下よりはよっぽどメがあると思うよ?費用は私が出してもいいけど?」
「絶対にお断り申し上げます。今の仕事ですら何時辞めようかと思ってますのに。」
「ごめん。無理は言わないから当分お仕事続けて下さい。エルディアーダと君がいなくなったらもうどうしようもないよ。」
「ご理解頂けて重畳です」そう言ってレリハナーミ・ト・リクシンガイ女官長は茶のセットの乗った盆を手に代王の執務室を退去していった。
誰もいなくなった部屋の中で大層大きなため息を吐いて第四代イルアスト王国代王ナジャメダイ・ミ・イルアストは終わりそうもない書類仕事にまた取り掛かった。