008 あれこれ
その日は結局自分の考えを纏めることと、かつてのコネクションのつなぎ直しで終わった。
するべきことは決まっている。ただし、その方法をどうするのか?制約があるのか?有るとすればどのようなものか?自分がヤグファから戻されて来たような力がヤグファから持って来たモノにも働くのか?それは明日の朝になってヤグファの服などが消えるかどうかにかかっている。と思う。
ほぼ72時間で私はあちらから戻ってきた。異世界間のバランス補正力が働くリミットが72時間であるなら、それは私の目的にとっての制約である。そして私はその制約を何とかしなければならない。
この今現在の老いた自分の身体で一つの国と対峙しようとするのは無理がある。だから若返ろうと思う。若返りの魔法は使える。多分。術式は覚えている。しかし今迄に使ったことは無い。必要もなかったし、消費魔素が尋常ではないレベルだったので、試しに使ってみると言うことが出来なかったのだ。ましてやこの魔素の異常に薄い地球でホイホイ使えるものでもない。そしてまた、今のこの国で97歳の老人が突然若返ったとなったら大問題だ。では、地球とヤグファの往復ごとに身体の年齢を変えるのか?それは魔素と魔力の無駄遣いであると同時に、場合によって自分の地球での社会的な存在を消滅させることにもなりかねないことである。つまり、私が若い身体でイルアスト王国軍と戦っている状態でタイムリミットが来て地球に戻り、体内の魔素が枯渇した状態だったとしたら?そのままの身体で誰にも会わずにどれだけ生活が出来るのか?誰かに会った時にどんな説明が可能か?そう考えれば結論は一つだ。ヤグファでも地球でも私は齢若い存在であるべきだ。では、そのためにはどうすればいいのか?
何本か電話を掛けた。最初の電話は私がかつて在籍していた中堅商社に。私が常務時代に部下だった男の部下に。専務で役員を退任し、現在顧問になっている。年齢は私の二十歳下。私の常務時代にはまだ入社していなかったが、既に七十も半ばを超えている。
電話口で近況報告を交わすも一体なんのために?と訝しむ気持ちがはっきり分かる。一通りの挨拶が終わり、直接の用件を切り出した。「現在フィリピンであっち方面のコンタクトの窓口になっている男の名前と電話番号を教えて欲しいんだが。」そう言うと一瞬絶句した。まあそうだろう。そろそろ百歳になるOBが何をいまさら裏社会への窓口を知りたがるのか?しかもよりによってフィリピン。
「伊庭さん、今はもういろいろと状況が当時とは異なってまして…」「俺があんたでもこんな電話が掛かって来たらそう言うよ。でも、ごたくはどうでもいいんだ。会社とは何の関係もない。全く個人的なことで会社に関してトラブルになるようなことはない。どこかからウチの留守電に伝言が入っていれば良いんだ。」そう言うと相手は少し態度を和らげた。「…そういえば…」と共通の知人の消息を少しだけ話して電話が切れた。
次の電話は横浜の中華街に掛けた。知り合いの店に掛けたが既に私の知り合いは鬼籍に入っていた。が、その孫が私の電話を受け、電話番号をひとつ教えてくれた。それは香港の番号だった。その香港の番号に電話して用件を伝えると後日連絡を入れると回答があった。広東語で話しかけたが正統のマンダリンで返事がかえって来た。わざと中央であることを仄めかしているんだろうか?そんなレベルの相手だと嫌だな。
最後の電話を掛ける前にインターネットで相手の会社情報を調べてみた。私の現役時代からあり、現在も続いて商売をしている小火器専門の商社である。扱う商品は拳銃弾使用の小火器のみ。従ってピストルからサブマシンガンまでで、ライフル以上は扱わない…筈だったが。どうやら今でも方針は変わっていないようだ。アントワープにある会社で私が直接面識があったのは多分先々代の社長だろう。
電話をしてみると英語での応対だった。フラマン語でも構わなかったが。こちらの会社とは極めてビジネスライクに話が進む。「1丁単位の小売りをするか?」「しない。」「弾丸の最小取扱い単位は?」「1万発からである。」などなど。「3種類のピストルと2種類のサブマシンガンをそれぞれ2丁ずつ売って欲しい。それぞれ予備の弾倉を3本ずつつけて。弾丸は100発入りカートンを百箱で。」「小売りはしない。」そこで、かつてのコネクションで得た言葉を添えてお願いする。電話の向うの相手の態度が変わり、少し待つように言われる。しばらくして相手が替わり「特別のお得意さまからの要望なので本来お受けすることの無い要請だが、特別にお受けする。」と言われる。ただし、現地でキャッシュで。キャッシュはユーロで。お渡しできるのは1週間後以降とのこと。了解したうえで現地に赴けるのはひと月後ぐらいになるかもしれないと伝える。相手が了解したので電話を切る。
机の抽斗からパスポートを引っ張り出した。有効期限は切れていたので新しく作らねばなるまい。最後のパスポートは八十代の頃に作ったものだった。出入国のスタンプがほんの数ページしか押してない。綺麗なパスポートだな、と思う。ふと引き出しの奥から現役時代のもっとも頻繁に海外と往復したころのパスポートを引っ張り出してみる。現在の旅券より大判であるうえにページを継ぎ足したうえに二冊目の旅券をリボンでくっつけてある。以前は有効期限内の旅券のページが無くなった場合の対処はこうだったなぁと感慨にふける。現在のバーコード管理のパスポートはどうするのだろうか?
さて、代理店にパスポート作成を依頼しても良いのだが、一国の軍隊に喧嘩を売ろうかと言ってる時に「人ごみが億劫だ」などそんな気持ちでいてはなるまいと、自分でパスポートの取得をすることにした。パスポートは明日だな。
気が付くと午後もそれなりの時間になっていた。もう少し経ったら夕飯だ。
夕飯までの時間でデイトレーディングをする。この数日手を付けていなかったので全体の動きが良く分からない。本格的には手を出さず、様子見に少し動かした程度にしておく。PCの電源を落とし、夕食の準備にかかる。
PCの電源は点けっぱなしの方が機械的にはいい、と言う話も聞くしスリープモードであれば消費電力も大したことが無い、ともいうが私は一々電源を落とす。気分の問題だ。
夕食は考えて肉にする。豚バラの小分けにしたものを冷凍庫から出し、レンジにかけて解凍した。生姜焼きにする。ご飯は週に一度一升炊いて小分けにしてこれも冷凍してあるのを解凍する。キャベツを千切りにして皿に盛り生姜焼きを乗せる。そこにこれも解凍したマッシュドポテトに刻んだハムときゅうりを混ぜたポテトサラダを添える。インスタントの味噌汁にお湯を注ぎ、冷蔵庫からビールを取り出し、夕飯が始まる。
妻が逝ってほぼ二十年。もともとは料理などしたことも無かったが、やり始めてみると意外と性に合ったのと、ジジイになって毎晩居酒屋の喧騒の中で食事するのが億劫になったことも有りほとんど自炊の日々となった。
栄養バランス的にも完璧だ!と実は胸を張れない。どうしても好きじゃないものを作るのはテンションが下がるのだ。具体的には「酢の物」がそんなに好きではない。妻の生きている時はそれでも週に何度かは食卓に酢の物が出され、出されたものは食べてはいたが。なので私の現在の食卓に酢の物が出ることは無い。ただ、なんとなく死んだ妻への申し訳なさも有り、「酢の物」は作らないが朝食に時々作るグリーンサラダのドレッシングはレモン果汁だけとかにする時もある。
食器をザッとシンクで洗い、食洗機に入れる。ビールの缶を洗い流して缶ゴミの袋に入れておく。缶ゴミは…明後日か。
お風呂が沸きました、と機械音声が告げるので風呂に入る。湯船の中で明日の大雑把な予定を立てる。パスポートの申請。フィリピンへの連絡。香港とベルギーへのフライトの確認。ゴミ出しと食材の買い出し。
ある程度頭の中の整理がついたのでベッドに入って寝る。ああ、そうだ。洗濯もしておかなければ。そう思っているうちに意識が薄れて行った。