003 シューファの街
地面から上方に向けて強い風を吹かせ、身体の落下速度を相殺することで大岩からなんとか跳び降り、水音を頼りに丈高い草をかき分けて小川にたどり着いて心ゆくまで水を飲んだ。
気配を感じると同時に抜刀し後ろに向けて振り抜く。
あちらの世界と異なり、ここヤグファの今の状況ではまず突然の気配は敵対するものと断定して良い、と判っているので一瞬の躊躇もなく刀を振り抜くことが出来た。
イダヤ…あちらの世界と多少の違いはあれどいわゆる野犬だ。あるいはコヨーテとかハイエナとかの方が近いのかもしれないが。
飛びかかって来たイダヤを振り向きざまに切り倒した。久し振りだが思いのほか上手く振れて綺麗に首を飛ばすことが出来た。
五頭の群れだったが、息が切れる前に片付けることが出来た。とはいえ年寄りには厳しい運動であったことも確かで。後二三頭でもいれば危ないところではあった。
血の臭いがあたりに漂う。この血の臭いが他の獣を呼びよせることは明白なので、小川に刀を入れイダヤの血を流し、Tシャツの裾で刀身をざっと拭ってから急いで飛び降りた大岩のところに戻る。
背を大岩に寄り掛からせ、抜身の刀を手に持ったまま暫く微睡んだ。
刀を振るう体勢としては中途半端なのは判っているが、疲労に負けたのだ。
それでも数時間、深夜を幾分か過ぎた頃になって肉体的な疲労も少し癒え、イダヤ5頭を殺したことで吸収した魔素と、呼吸に伴って吸収されたものも合わせてある程度身体に魔素が貯まったことを感じられたので、刀と鞘を小脇に抱えて大岩の側面に両の掌を当てる。念じると同時に私は大岩の内部の空洞に移動した。
向こうの世界でほぼ百年。こちらの世界で一体何年が経っているのか。全体に非常に細かい埃がごく薄っすらと積もっている。空洞…私アフト・ネヴァの秘密の小部屋である。大岩の中心を魔法で刳り貫いて空間を作った、転移でしか入りようのない場所だ。私はこの場所にイルアスト王国の外に、具体的にはイサカ帝国にナヴァンと二人で逃げ、つましく暮らしていける程度のあれこれを集めてあった。
あれこれのうちの一つが部屋の片隅に置いてある箱の中の魔石だ。純度が高く、良質でサイズの大きい魔石を集めておいたのがそのままにある。急いでその一つを取り、握りしめる。
握りしめた掌から急速に大量の魔素が身体の中に満たされていく。
気持ちが悪い。
魔素酔いだ。
急速に大量の魔素を身体に取り込むことによって起きる体調不良が魔素酔いである。かなり気持ちが悪い。平衡感覚が壊れたような、自分がどこにいるのか分からなくなるような感じがする。
しかし、魔素酔いを無視して魔石を握り締め続けていると、魔石はその中の魔素を失い、細かい埃のような砂と化して指の間からこぼれ落ちて行く。
強烈な飢餓感からは少しだけ解放された。落ちついたところで部屋の空気を入れ替え埃を集めて外に飛ばす。
この空間は5m四方程度の空間にあれやこれやが箱に入って積み上がっており、人が二人横になる程度のスペースに簡単な寝床がしつらえてあるだけだ。緻密で硬い石の内部を刳り貫いて作った空間なので魔法で換気をしない限りしばらくすると息が苦しくなってくる。
密閉された空間ではあるが埃はうっすらと積もっている。百年(向こうの世界で)の間に岩が細かく剥落したのだろうか?部屋中の埃も纏めて外に送り出す。
腹が減ってきた。こちらは魔法的なものではなく、物理的、肉体的にエネルギーが枯渇してきたのだ。が、この部屋にもともと食べ物は置いていない。もし置いてあったとしてもこれだけの時間が経ったら影も形もないだろうし。
肉体的な空腹感は当面無視することにしてまずは魔力を回復することに専念する。寝床に腰を下ろし、手の届く範囲に3個ほど大きめの魔石を置いて目を瞑って魔石を手にし、魔素を吸い上げる。
アフト・ネヴァであった頃、私の魔力量は一般的な男性のほぼ100倍あった。魔法使い、と名乗れるレベルの者と比しても30倍近いキャパシティーがあった。その頃の私の身体は、ほぼ空になった魔素を満タンまで充填するのにこのサイズの魔石が3個あれば良かった筈だが…。
今20個目の魔石を魔素に転換して体の中に取り込んでいる。さすがに飢餓感はおさまっているものの、もうイッパイ、というほどのことも無い。食事で言えば空腹がおさまってやっと物の味が分かって来てこれから美味しく頂ける、というような状態である。
結局30数個の魔石を取り込んだ。気持ちが悪い。食べすぎで腹が張り過ぎて下も向けない状態に近い。
ヤグファの一般人の1000倍以上。一応の魔法使いの300倍の魔力が私の中に満たされている。それは多分事実だと思われる。魔石が長年の間に劣化して含有魔素が十分の一になってしまったのでなければ。しかし、魔素を吸収している時には「味の薄い」感じはしなかったので、劣化は無いと思う。
異常なほどの魔力が私の中にある。では、私の魔法は以前の10倍の威力があるのか、或いは10倍の長さか頻度で発することが出来るのか?今後それを検証するのが楽しみだ。……まさか、魔力を多く貯められるものの、効率が十分の一以下になっていて以前よりもしょぼい、ってことは無い…だろう…と願う。
腹がへったからと言って先ほど切り殺したイダヤの肉を食うのもぞっとしない。第一に火を熾す手立てがないし塩も調味料もない。仕方がないのでここから一番近くにある街シューファに行くことにした。
部屋の中に積み上げた箱の中から服を入れたものを引っ張り出し、いくつかを当ててみる。
想定外だったのが体格の違いだった。確か70歳あたりから身長が縮んできた覚えがある。最も背が高かった頃で私の身長は175㎝だった。大正の中頃産まれにしては高身長だったがここ数年の人間ドックでの測定では173㎝だったと思う。しかし、引っ張り出した服は150㎝~160㎝位の身長に合ったものだった。そうか、転生前の私は標準程度の体格をしていたと思っていたがこの程度の身長だったのか、と少し感慨にふけった。
仕方がないので今着ている服のまま街に入ることにする。もしかしたら100年前の服装をした男よりは奇想天外な格好の男の方がまだましかもしれない、と思うことにする。
服を着替えることは諦めたが、サッシュを一枚腰に巻きつけ、鞘を落とし込む。黒い柔らかい革のフード付のコートを着て、貨幣の入った箱から一握りずつ金貨と銀貨を掴みとる。抜身のままの刀を右手に持ち、魔法を念じて軽く飛びあがると大岩の上に出た。
空は白みかけている。街のほとんどは未だ眠りの中にいるのだろうが、ごく一部は動き始めている時間帯である。
腰に巻いたサッシュの端で刀身を丁寧にぬぐい、鞘に納める。そして記憶の中の街の方向を向き転移する。
念のため町からそれなりに離れた場所に設定したポイントに飛んだのだが、それが正解だった。この百年?の間に街が膨れ上がったらしく、街の外壁のすぐ近くに転移していたのだ。もう少し近い場所に転移していたら街の中に入っていただろう。何も無ければその方が楽で良いけれど、普通このような辺境の街では何らかの結界が街の外壁には張られている。その中に突然転移すれば相当に人目を引くことになるだろう。危ないところだった。
パッと見たところ街の形は不定形のようだ。ある程度野放図に伸び広がった街を外側から無理やりくるみ込むように外壁を作ったかのように見える。
さて、街の入り口はどちらかな、と歩きはじめると街の外壁にへばりつくようにバラックが何軒も寄り集まっている。日本のホームレスのブルーシートハウスよりちゃっちい。薄板だったり、布だったり、筵のようなもので作られた箱型のもの。そしてその中からこちらを窺う視線。
スラムだ。
私の知る限り、この街は辺境の最前線にある、生きるのにかなり厳しい土地柄だったから、スラムが成立するほど豊かでは無かった筈だが…。私の知っている、知っていたシューファの街は食い詰めることは死ぬことと直結していた街だったのだが…。刺すような視線を肌に痛く感じながら歩いた先に街の門があった。
空はもうしっかりと明るくなっていた。門衛は槍を片手に門の柱に寄り掛かりこちらを見ている。門衛の視線に緊張感は無いが私を値踏みしきれない戸惑いを感じる。
「止まれ」門衛に制止された。
「どこから来た、何者であるか。身分を証明するものを提示せよ。」
槍をこちらに突きつけることはしていない。声に緊張感はあまりない。
「遠国から来ました。元々出たところはニホンという東方の国です。直近はエラスケにいました。職業は狩人です。身分証は紛失したので持っていません。」
このような質問はされるだろうと思っていたので予め考えていたとおりの設定を口にする。怪訝そうな顔をされたので、ニホンについての補足説明が必要なのか?と思ったら、「エラスケ?」と隣の国の国名に反応された。一瞬の間を置いて「ああ!隣国のカタンザ共和国の旧名か?…まだ古い王党派の老人ならそういう言い方もしているのか…」と自分で納得している。
「入境税3リアルマの他に身分を証明するものがない場合7リアルマが必要になる。合計10リアルマだな。ただし、街の中の何らかの組織に加入した場合にはその身分証を持って来れば7リアルマは返却される。ただし、大抵のギルドの新規加入者の登録料は10リアルマ以上だが。」
貨幣単位が以前と同じだったのは助かったが…、実際の貨幣価値と今現在自分が持っている貨幣の価値の乖離が気になるところだ。自分の知識の範囲では1リアルマは銀貨一枚。100リアルマで金貨1枚。10リアルマが中銀貨、50リアルマが大銀貨という貨幣を使っていたのだが…
コートのポケットの中を探り指先の感覚を頼りに大銀貨を一枚つまみ出し、門衛に渡すと、びっくりされてしまった。
「これは!50リアルマ大銀貨!!」そう小さく叫ぶと大銀貨を摘まんだまま固まっている。一瞬の逡巡の後、黙って大銀貨を突き返してくる。これでは足りないのか、もっと袖の下が必要なのか…、そう思ってコートのポケットの中の金貨を摘まみだそうとすると門衛に止められた。
「多すぎる。朝が早くて釣銭が出せない。それ以前にいくらで見積もればいいのか俺にはわからん。」と言う。「?といいますと?」と尋ねてみると、この大銀貨はイルアスト王国の2度の改鋳以前の高品位なもので、少なくとも帝国の現行通貨の7倍の価値はある。場合によっては10倍、つまり実勢価値としては金貨5枚分だと言う。街中の商工ギルド内の両替商に持ち込めば現在の正規レートに近い交換率で交換してくれるだろう、との旨を教えてくれた。なんとも正直な門衛だ。辺境の街の門衛など袖の下取り放題で地位のわりにおいしい仕事だろうに。しかも通常なら上司や同僚の眼があってあれこれ考慮しなければならないこともあろうが、今は早朝で一人だけの勤務なのに。
「判りました。教えて頂きましてありがとうございました。それではこちらを額面通りの金額としてお納め頂いて、わたくしに30リアルマお釣りを頂けませんでしょうか?」そう言って再度大銀貨を門衛に手渡す。
「額面通りなら釣りは40リアルマだが。」あくまで正直な門衛である。「入境税が10リアルマ。わたくしへの教授料として10リアルマをお納めください。」私がそう言うと、門衛は一瞬頬を緩め、急いで厳しい表情を作り直して分かった、と頷いて大銀貨を受け取った。暫く待て、と言いおいて門衛小屋に入り程なく一枚の紙を持って出てきた。
「これが無証明預り金の証書だ。この街を出る時にこの証書に添えてこの街のいずれかのギルドの会員証を提示すれば7リアルマは返却される。」そう言って証書を渡してくれた。有り難く受け取って懐に仕舞い、この早朝から飯を食わせてくれる店があるか尋ねると、親切に教えてくれたので礼を言って無事に街に入ることが出来た。
体感ではほんの数日ぶり、実際には100年近い年数を経てシューファの街に入ってきたが、感慨にふけるより先にあの門衛の正直ぶりが気になって仕方がない。物凄く珍しい絶滅危惧種みたいな正直者なのか…。そうであるならば自分の幸運を寿ぐだけだが。そうでないのであればこの国の、そしてこの街の公的な組織の規律が非常に程度の高いものであるしるしだ。現在の日本人なら10リアルマの教授料を懐に入れただけで有罪と断ずるかもしれないが、かつての伊庭悠馬としての私の経験からすれば東南アジアでもアフリカでも末端の公務員がこんなレベルでのモラルを維持しているのは奇跡に近いと思える。
このモラルの高さがこの国だけの話ではなく、隣国のイルアスト王国もそこまで役人のモラルが高くなければいいのだが。
もしイルアスト王国の役人のモラルがこの国と同様に高ければ、私がこれからしようと思っているイルアスト王国への復讐の困難さの度合いが高くなっていることを意味しているのだ。




