002 渡 航(ヤグファへ)
覚醒の翌日午後、私は異世界転移の準備を整え、リビングのカーペットの上に敷き拡げた新聞紙の上に立っていた。私自身が「世界」を股に掛けた転移をしたことはこれまでなかったが、先達の考察に拠れば、およそ世界間若しくは時空の中の転移というものは基本施術者自身の生身の皮膚に触れているか、あるいは生体の皮膚と同等のモノとされる魔法具に包まれているもののみが施術者の転移と同時に転移する、らしい。ただし、術者の力量によっては必ずしもその限りではないらしい。そして施術者の転移と同時に移動させることができる質量は施術者自身の生身の身体の質量の2倍までとのこと。同一空間、同一時空の場合そのような制限はない。ただ施術者の力量によって距離と携行可能量が増減するだけだ。
世界間転移の制限について細かく考えれば疑問は尽きない。シャツが肌に触れていれば一緒に転移するにしてもじゃあボタンはどうなるのか?今手に持っている日本刀にしても鞘だけ一緒に転移して刀身は残されるのか?力量が上がって直接素肌に触れていないものを例えば袋に入れて持ち運べるのか?などなど…。尽きない疑問は棚上げにして私は居間に拡げた新聞紙の上に立ち転移魔法を行使した。
異世界を転移する魔法は成功した。
身体からほぼ全ての魔素が抜け、同時にヤグファの世界に充満する地球とは比較にならないほどの濃さの魔素が急激に身体の中に流れ込み、両方の衝撃で眩暈がしてその場に蹲ってしまった。
場所は、アフト・ネヴァの記憶に新しいイサカ帝国の西部辺境都市シューファ近郊の原野にある大岩の上。街道から遠く、狩人もめったに来ないような場所ではあるが、フラフラする頭を無理やりシャンとさせて周囲を見回す。…特に危険な視線は感じない。いくつか動物の好奇の念を感じるが、その程度だ。
私の前世の記憶ではつい昨日ここでイルアスト王国軍と戦い周囲2㎞四方を焼け野原にしたのだが…。今は初夏?晩春?緑が萌え立つ丈の高い草原が一面に広がり数キロ先には森も見える。あの森の向うがシューファの街のはずだ。記憶よりも森が大きい気もするが。
いずれにしても真冬などの厳しい季節でなくてよかった。
自分自身を見下ろす。
長袖Tシャツの袖を捲り上げ、ジーンズ。素足にワークブーツ。右手には剥き身の日本刀。ただし刀身の部分を摘まんで持っている。左手にはその鞘を握り、二の腕に厚手の靴下と革コートとを掛けている。
あれやこれやを岩の上に置き、座り込んでワークブーツを脱ぎ、靴下を履く。靴下を履いたまま靴を履いて転移すると靴と素肌の接点がないために靴だけが元の世界に残されるかもしれない、との懸念を覚えたためにわざわざ裸足に靴を履き、靴下を素肌に触れるように持っていたのだ。
靴下を履いてから靴を履き、立ち上がり二三度飛び跳ねて靴の調子を見る。問題ない。改めて腰をかがめて刀と鞘を拾い上げ納刀する。ジーンズに巻いていた筈のベルトはない。やはり直接肌に触れていなかったモノは一緒には来なかったようだ。しかし刀についていえば直接私が触れていたのは刀身の部分だけだったがきちんと『刀』としてこちらに来ている。大体腕に巻いた時計が動いているのだ。ルールがよく判らない。
いろいろ検証しなければならないだろうな…と思う。が、まず第一に今後私がこのヤグファと地球を行き来できるものなのかどうか?改めて自分自身の中に流れ込んで来た魔素を確認する。この15分ほどでそれなりの量の魔素が身体に取り込まれたのは判る。が、それが具体的にどの程度の量なのかが分からない。言ってみれば自分の空腹度合いをどう表すか、と同じだ。
例えれば今の私の体の中の魔素の量は餓死寸前の男が一椀の粥をなんとか腹に納めたぐらいだろう、と思う。いまだにもの凄い飢餓感には襲われている。が、意識を失いかねないほどではない。一方でこの飢えがおさまらない限り何か具体的な行動には出られそうにもない。この二階建ての家くらいある岩の上から降りる、とか。
とにかく当面できることは何もない、と判ったので大岩の上に寝転がりコートを被って日差しを避ける。左手首の時計に寄れば前の世界の前の場所の13時30分らしい。何かが出来るまで…具体的には97歳目前のこのじじいの身体を何とか大怪我をせずにこの大岩から降ろせる程度のことが出来るようになるまで身体に魔素が貯まるまで待たなければならない。3~4時間でなんとかなるのだろうか?
前世において…と考えてふと気が付いた。
今私があれこれ考えている主体は地球の日本で生まれ育ち、もうすぐ枯れ果てる寸前の97歳目前のじじいである伊庭悠馬だ。が、今いるこの世界ヤグファ(「ヤグファ」と言う単語自体が「世界」を意味するのだが…)で産まれ育ち一国の軍隊と大立ち回りをして31歳で散った(散る間際に転生したが)アフト・ネヴァの記憶は鮮明に持っている。それこそイルアスト王国軍との大立ち回りをつい先ほどの事のように覚えているのだ。
しかし、伊庭悠馬の身体に二人分の記憶が入っている感じはない。私はあくまで伊庭悠馬だ。伊庭悠馬としてアフト・ネヴァの記憶を自在に閲覧できている感じがする。でも、私をヤグファに渡らせたのはアフト・ネヴァの強い気持ちなのだ。
既に生きては居まい。が、あの後ナヴァン・グ・イルアスト…私、アフト・ネヴァが愛した女がどうなったのかは知らねばならない。そして私アフト・ネヴァとナヴァン・グ・イルアストをこの原野にまで追い詰めたあの一族に復讐せずにはいられない。
しかし、こちらでもほぼ百年が経っているのだろうか?戻ってきた今は私が転生した時とどれほど時間が経過しているのだろうか?そもそも異なる世界の時間の流れは同じものなのかどうか??
こうして考えている時には私はアフト・ネヴァのようだ。私は私なのだが…。
やっと陽が傾きかけたころには冬の寒さの方がマシだった、と思うようになっていた。脱水症状寸前だ。あれこれ装備をどうするか気を配ったつもりでこれだ。齢をとって呆けた訳じゃない。ペットボトルを手に持って中身の水が一緒に転移する確信が持てなかったからだ。食料も同じだ。デイパックを背負ったとしても肌に触れてないものはベルトのようにあちらの世界に残されると踏んだのだ。
漫画の魔法みたいに水でも食べ物でも指先に産み出せたらいいのだが、この世界の魔法は「無いものを有るように」は出来ない。「有るものを動かすこと」が出来るだけなのだから。
だから、空気中の水分を凝縮して水にすることは可能だ。理論的には。それに必要な膨大な魔力・魔素を考慮に入れなければ。
転生前アフト・ネヴァであった私は一般人に比しほぼ100倍に相当する魔素を身体に貯めることが出来ていた。そのアフト・ネヴァが全盛期で口を湿らすほどの水を生み出せただろうか?…雨の降りだす寸前の、湿度が限界まで高い時なら出来たかもしれない。が、今のこの伊庭悠馬の身体にどれだけのキャパがあるのだろうか?
体内の魔素量は「非常に空腹」程度までには貯まって来ているようだ。水を生み出す努力をするよりは怪我をしないでこの大岩から飛び降りられるようにする方が現実的だろう。
大岩の縁に立つ。イルアスト王国軍との立ち回りの際に自分でこのような形にした大岩だ。四方が切り立った壁になっている。二階建ての家くらいの大きさの岩で出来たサイコロである。
喉の渇きが限界に近づいてきたので飛び降りることにした。短距離転移をするにはまだ魔素が足りないと思う。なので飛び降りる。両脚に巻きつけてあった細引きを結んで一本の紐にする。一方を刀の下げ緒に結び付け、もう一方をジーンズのベルト通しに結ぶ。紐に下げた刀を岩の上から下の地面にそっと下ろす。そのまま岩の縁に両手を掛け、身体をぶら下げる。これだけで飛び降りる高さが2m近く低くなる。手を離し、落ちる。なけなしの魔素を使って身体の下方向から強い風を吹かせ、落下速度を緩める。
1mほどの高さから飛び降りた程度のショックと共に着地し、そのまま転がる。どうやら魔法もうまく使えたし、受け身もどうにか成功したらしく、骨が折れたりどこかを傷めたりした様子はない。
たった1m。しかし、これだけの高さを飛び降りたのは多分20年振りくらいである。フルマラソンを走るのを止めたあたりから私の身体は急速に衰えた。世間並みに比べれば100歳間近にしては随分元気、と言われるがそれでも相当の爺様である。あちこちミシミシしているような気もするが、強い痛みは無いので良しとする。
刀を左手に持ちいつでも抜刀できるようにして水音の聞こえる方に丈の高い草をかき分けて歩き始めた。




