010 準備及び再渡航
目が覚めたので顔を洗い、歯を磨く。まだすべての歯が残っているのは凄い、と言われているが、これはそういう身体に産んでくれた親に感謝するしかないだろう。そう思って、随分久し振りに自分の親の事を考えたな、と気が付いた。
居間の隅にある仏壇を開け、久しぶりに蝋燭に火を点けてから線香に火を移し、おりんを鳴らして位牌を拝む。そうか、これの始末も考えねば。ヨーロッパにいる娘の所に仏壇や位牌を送ってもどうにもならないだろうし…。郷里の菩提寺に相談するか…。頭の中にメモをしておく。
仏壇の前で物思いにふけっていると思いのほか時間が経っていた。慌てて振り向くと新聞紙の上に投げ出されていたヤグファの服やあれこれは消え去っていた。
どうやら思っていたとおり異世界を渡ったモノは72時間経つと強制的に元の世界に戻されるようだ。ただ…そうだとすると向こうの世界で私が排泄した糞尿はどうなるのか?そこら辺の理屈は判らないが、別に私は糞尿と一緒に戻って来たい訳ではないので理屈はともかく、糞尿が一緒に戻ってこないのはありがたい話ではある。
パスポート取得の手続きは完了した。次に装備を整えた。革のコートは向こうの今の気候に対しては暑すぎる。かと言って魔獣の跋扈する荒野を半袖のポロシャツで歩くのもいかがなものか。結局、建設業関係の品を扱う店で店員と相談しながらあれこれを整えた。あまりに向こうの住人の眼を引きそうにないものを、と考えて基本はカーキ色の作業服の上下。編み上げの安全靴。薄手の作業用のパーカー。ポケットに突っこめる柔らかい木綿の帽子。これらを買い求め、家に帰った。
家の留守電のメッセージランプが点いていた。再生すると番号だけを読み上げる声だった。
その番号にかける前に一本電話を入れる。一部上場会社の総務部長をしていた男だ。私より20歳ほど年下。既に現役から離れて久しいが、それでも伝手はあるはず。久し振りと挨拶をしてから実際の用件に入る。
「実は使い捨ての携帯電話を出来れば2台欲しい。海外に連絡するのに使う。3か月間だけ使えれば構わない。手配できる人物への伝手を教えて欲しい。」
貴方はもう100歳に近かったんじゃないか?そんな生臭いことにまだ手を突っ込んでいるのか?と呆れられたが、暫く待てと言われて電話を切る。
小一時間ほどで電話がかかり、携帯の番号を教わった。もう一度家を出て近くの駅まで行き公衆電話を探す。見つけるのに苦労した。そこから教わった番号に電話を掛ける。話は通っていたようで「携帯を2台」と言うと一台25万。2台で50万と言われた。了解したと言うと指定の場所に行ってそこから電話を、と言われたので、言われた通りターミナル駅の指定の公衆電話から再度電話をした。なんだか今どきの格好らしい若い男が現れて紙の袋を渡してきたので駅に来る途中のATM でおろしてきた現金の入った封筒を渡した。中身を確認することもなく若い男は去っていったので、タクシーに乗って別のターミナル駅に行き、二駅ほど電車に乗ってからまたタクシーに乗った。家から二駅離れた人通りの少ない道で降り、前後に車や人影がないのを確認してから大通りに出てタクシーに乗って自宅に帰って来た。連絡を取った相手については心配していないが、使い走りの若造がなんかの拍子にはねっかえらないとも限らないので用心をしたのだ。
渡された紙袋の中には新品のプリペイド携帯が2台入っていた。一万円分のカードが一緒に入っていたのでサービスのつもりかもしれない。
マニュアルを熟読し、納得がいったところで携帯を使えるようにして留守電に入っていた番号に電話を掛けた。
電話をかけた相手はフィリピンの裏社会の窓口であろう番号である。電話に出た相手はハローと言う。英語がいいかタガログ語がいいか問うとどちらでも、というのでタガログ語で用件を話した。
知人の孫がフィリピンにいる。もうすぐ天涯孤独になるらしい。知人としてはその子を日本に連れて来てそれなりの生活が出来るように面倒を見てやりたいが、自分の孫であることを表沙汰には絶対にできない。なので、実の父親の名義での戸籍を取得して欲しくないし、そうなったら面倒は見られない。一番望ましいのは日本に係累がいない日本人の父親の子で、出生届をフィリピンの日本大使館に届けてある男子の戸籍を手に入れてその子のものとすることである。それが可能ならばどうにかしてやりたいのだが、可能だろうか?、と尋ねた。パスポートを取得出来るのであれば日本での身元引受人も生活もこちらで面倒を見ることが出来る。十八歳くらいの男子でタガログ語、英語、日本語が堪能。基本的な教育は受けている。可能かどうか?可能であるならば金額と時間は?どうにかなるか?と聞くと多分なんとかなるだろうが、時間が欲しい、という。では目途がついたらこの番号に連絡をくれと言って電話を切った。
そんなことをしているうちに時間が経ち夕刻になっていた。ビール缶を一本と米の飯、みそ汁、卵焼き、豚肉のピカタとサラダ。
腹がおさまったところで和室に行き、刀の手入れをすることにした。ヤグファにおいてイダヤを5頭切り殺している。一応血は拭い、軽く水で洗ってはおいたが…。鞘から抜いてみると予想に反して綺麗な刀身であった。もしかすると排泄した糞尿が一緒に帰ってこないことと関係しているのか?あるいは72時間経過してチノリ血糊も一緒にヤグファに戻ったのか?
いずれにしても刀身には血糊の曇りはない。この刀は戦争中に二人切り殺し、一人突き殺した。戦後のどさくさで一人切り殺し、一人突き殺した。それでも刃毀れせずに今に至っている。我が家のものになる前にも、多分維新前の動乱期に何人も切り殺したはずの刀である。戦争中も戦後の混乱期も私が生き残るための役に立ったものだから、これからヤグファでも役に立ってもらうことにする。鞘に納めて床の間の刀掛けに掛けた。
すぐにでもヤグファに行きたいが、フィリピンからの連絡が入るまでうかつに動けない。さすがに携帯をヤグファに持って行ってもそこまでは電話は来ないだろう。…来ないと思う…。なのでまだしばらくこっちにいて、あれこれの準備をしておくことにする。
まず準備の第一は転移魔法の有効範囲の確認、もしくは拡大である。直接肌に触れていることが一緒に転移できる条件である…と思っていたが、それなら私は刀の刃の部分を摘まんで転移したが拵えごと「刀」として転移していたことはどうなるのか。ならば品物に糸を括りつけ、その糸を持っていれば良いのではないか?そしてそれが糸でいいのなら、袋に入れておけばいいのではないか?
或いは自分の体の周りに例えば直径2mほどのエリアを「自分のもの」と認識しておけばそのエリアの中のものは一緒に転移するのではないか?
試すのは明日の朝にする。持って行く物の優先順位を付け、優先度の高い者順に持って行き方を変える。つまり、衣服・靴・刀は前回同様に直接身に着ける。手に持つ袋に入れるものは…カメラ、ライトなど。足元に置いておくものは…カップ麺やビール缶など。何をどれだけ持って行くのか、総量で自分一人分と思っていたが本当なのか?確認事項をリストアップしてから寝床に入った。
結論から言えば手に持った袋に入っていたものは全く問題なくヤグファに渡った。自分の足元に置いておいた品物も自分を中心にした半径1mの円の中のものは一緒に世界を渡った。それより遠いものはダメだったが、どこかに行ってしまうことも無く、地球に戻った時に底に普通にあった。今回のテストでは身に着けたもの、袋に入れたもの、足元の1m半径内に置いたものの総重量は私自身の体重とほぼ同等だった。なので、1m半径外のものが世界を渡らなかったのは質量の制限によるものか、有効範囲の外だったためなのかが判らない。
朝起きて食事まで済ませて、昨晩作ったリストを確認して手に持ち、袋に入れ、足元において世界を渡ってみた結果分かったことである。
地球からヤグファに持って行ったビール缶2本と大型のマグライトを残し、ヤグファから魔石を目分量だが同重量程度を袋に入れて持ち帰ってみた。結果無事持ち帰ることが出来た。そして地球においても何の問題も無く魔素を吸収することも出来た。地球の環境で魔素が身体に沁み渡るのはヤグファとはまた別の感じがする。より…効果的、と言うのか…味が濃い、とでもいうのか…。
どう表現したものかと首をひねっているとプリペイドの携帯に電話が入った。フィリピンからだった。




