第三話 近づきたい人―その1
梅雨入り少し前なのに、ここ最近は案外カラッと晴れた天気が続いていた。ただ、晴れているわりには気温が思ったよりも上がっておらず、暦の上では衣替えだと言ってもなかなか半袖一枚にはなりきらない。
そんなとある日曜日、和香は慶介と二人で会う約束をしていた。初めて会ってから一週間しかたっていない。けれども、慶介は再来週にはまた試合があり集中しなければならないために、その前にもう一度会いたいと言われたのだった。
二人は映画館の入っている複合商業施設で少しゆっくり店内を回り、そのあと映画を観ることにした。メールのやり取りをした次の日に慶介が電話で提案をしたのだった。
どんなものを観たいかと訊かれた和香は、幼いと思われるかもしれないと考えながらも、ファンタジー映画を挙げた。長編シリーズものの最終章が、ゴールデンウィークから始まっていたのだ。
『まじで?実は俺もそれ観たかったんだよね。良かった。』
と、慶介は言った。
それならば、と、和香が「映画館の座席の予約を取っておくから」と言うと、今度は驚いた声をあげていた。
『俺が取るよ?』
「え?予約取るくらい、私だってできるよ?」
『ああ、いや。そういうことじゃなくて……』
電話越しに慶介がまごついているのが伝わり、和香は、自分は何か変なことを言ったかと不安になる。そうして、「どうかした?」と訊くと、慶介が今度はクスリと笑った気配がした。
『何でもない。じゃあ、よろしくね』
そう言った慶介の声は可笑しさを堪えているようなものだった。
「今日って太陽出てるのに微妙に寒いんだよねえ。そうなると……。いや、でも、アラケー君がどんな格好してくるかにも……」
ぶつぶつと言いながら、和香はクローゼットからあらゆる洋服を取り出す。シフォン素材のブラウス、スモーキーピンクのニット、カーディガンにTシャツ、ジーパンにバルーンスカートにティアードスカート、ワンピース。考え付く限り、自分の持てる全ての洋服を手に取った。
そうして、ベッドの上にバーゲンセールのように所狭しと広げられたそれらを、下着姿で突っ立ったまま見下ろす。
考えてみるまでもなくデートは久しぶりだ。それも年単位。それに、高校時代には化粧の“けの字”も無く、制服のままでデートをすることが多かったことを思い出せば、異性に会うのにこんなにも気合を入れたのは、手の指で数えることができる程度の回数だ。
――久々すぎてどうしようもないな
下着姿のまま数十分間立ち尽くした和香は、結局埒があかなくなり、自分で選ぶのを諦めることにした。そうして、目を瞑って洋服を二つ指差す。指差された先で選ばれたのは、ベージュのニットチュニックとペールブルーにブーケのプリントがされたミニスカート。
とりあえずは無難な洋服が選択されたことに、和香はほっと胸をなでおろした。
かなり早起きをしたにもかかわらず、家を出たのは、遅刻せずに到着できるギリギリの時間になってしまった。
太陽はすっかり高くなっていた。からっとした風が穏やかに吹く中、和香は急ぎ足で待ち合わせのバス停へ向かう。涼しいと思っていたのに、今日は少し動けばうっすらと汗ばみそうな陽気だった。やはり初夏なのだと思う。天気予報で最高気温のチェックをすればよかったと、少しばかり後悔した。
バス停の反対側の歩道へ出ると、信号が丁度赤に変わったところだった。和香が立ち止まったその向こうには、バス停のベンチに座っている慶介の姿がある。白いロングTシャツにGパン、スニーカー。初めて会った時とは違い、ごくシンプルな装いだった。
――何か、私…。もしかして色々悩みすぎた?気合入れすぎ?
和香は、僅かに恥ずかしさを覚えながら青に変わった信号を渡り、ゆっくりと慶介の方へと向かって行った。
真っ直ぐ前を見ていた慶介が、和香の気配に気づき顔を向ける。
「おはよう」
初めて会った時と同じ、あの人好きのする笑顔だった。
「お…おはよう」
挨拶を返した和香は声が上ずらないようにするのに必死だった。
鼓動が大きく速くなる。耳が熱い。慶介に見上げられて、自分の顔に、服装に、変なところはないかと不安になる。蒸気を吹き出しそうな気持ちを必死に抑えながら、前髪を整える。
そんな落ち着きのない和香の様子に気付いた慶介は、目を細めて微笑むとゆっくり立ちあがった。慶介を見つめ続けていた和香の視線がどんどん高くなっていく。このまま、緊張と興奮が混ざり合った感情を心の内に宿したままで慶介と一日を過ごすとなると、きっと身が持たない。
どうしたものかと思いあぐねた和香だったが、
「和香ちゃん、朝飯食った?」
という心を弛ませるような慶介の声色に、浮き立った気持ちは僅かに平静を取り戻す。そうしてそこでやっと、自分が朝食を食べ損ねていたことに気付いた。
「あ。そういえば食べてない……」
「おおナイス!俺も実は朝飯食ってなくてさあ。ちょっと早いけど、ブランチってことで先にコーヒーショップか何か入ってかない?」
慶介の声を心地よいと感じる一方で、それでも、やはり和香の心臓の動きは減速しきらない。好意を寄せた人の前とはいえ、こんな状態になったのは初めてだった。
――私って、人懐っこいのが特徴だって言われてきたはずなのに
心の中で白い旗を挙げそうになりながら、和香は笑顔でうなずいた。
和香と慶介が初めて会った居酒屋がある、大学近くの飲食店街。その一角にあるコーヒーショップに二人は入った。外気温と緊張からくる熱のせいで火照っていた和香の身体は、緩やかに効いているエアコンの空気にいくらか冷やされた。
店内は案外閑散としていたが、それでも、ぽつぽつといる客は全てが大学生であると見受けられる。和香は慶介と少し距離を取ってカウンターに並んだ。
和香が頼んだものは、アイスカフェオレと色鮮やかな野菜が挟まれたサンドイッチ。対する慶介はといえば、アイスコーヒーに、大きなチキンが入ったサンドイッチに、サラダ。そしてさらにチキン単品だった。
丸いテーブルを選び、向かい合って席に座る。和香は、目の前のトレーに乗せられた大量の食べ物をマジマジと見てしまった。この店のサンドイッチはかなりのボリュームがあり、和香はそれすら自分ひとりで食べきれるかどうか心配していたと言うのに。
圧倒されている和香をよそに、慶介はあっけらかんとした顔で「イタダキマス」と言うと、ひと思いにサンドイッチにかじりついた。
子どものように大きな口で食べ始めた慶介を可愛いと思いながら、和香もサンドイッチに口をつけた。
慶介の前にドンと置かれた食べ物は、猛烈な勢いで減っていく。サンドイッチの大きさも、チキンの大きさも、サラダの量も。和香とでは、一口の大きさもその回数の多さも比べ物にならない。
慶介は、息をつく間もなく次から次へと口へ運んでいるように見えるが、嚥下と嚥下の間にはコーヒーを飲みながら口内をすっきりさせつつ話をするので、会話はとても弾んだ。和香の目を真っ直ぐに見て話をするし、相槌もうつし、笑顔も見せる。
「和香ちゃん、やっぱシリーズ全部映画館で観たの?」
「うん。大きい画面で観た方が世界に入り込めるっていうか。何かね、自分がその世界に行ったって感じがするのがいいなって思うんだ」
慶介にそう答えてから、和香は
――しまった。また、脳内ファンタジーだねって言われるのかな
と、冷や汗をかいた気分になった。
中学生の時に初めて映画館で観たその作品は、原作を本で読んだ時に想像していた通りのことが映像化されていた。それに感動した和香はその世界観に入り込んでしまい、それ以来、二十歳になろうという今の年齢になってもその感覚を引きずっている。
本当は、成人式を控えた身でこんなことを言うのは恥ずかしいと思っている。子どもっぽいというのは十二分に承知している。しているのだが、いかんせん、当時受けた衝撃が大きすぎてどうにも忘れられないのだ。
その話を友達に話せば、メルヘンだねとか和香っぽいねとか、子どもを可愛がるような響きで言われるばかりだった。そんなこともあり、実のところ、年相応に見てもらえない理由は“童顔”と“寸胴”だけではないと、和香は自分自身でも感じてはいる。
けれども、ヒヤヒヤした和香に慶介から返された言葉は、予想外のものだった。
「ああ。それ分かる気がする」
カフェオレを飲んで気持ちを落ち着かせようとしていた和香は、その手を止めてポカンと慶介を見つめた。
「…え?」
「映像技術がすげえのは当たり前なんだけどさ、その他の設定とかも映像できっちり作り込んであんだよな。微妙に現実とリンクしてるし。だから見た目だけでも世界観が解りやすいつーか」
そう言う慶介の表情もワクワクと楽しそうなもの。
日本中を探せば同じように感じた人はたくさんいるのだろうが、自分が惚れた人とそれを共有できるとは思ってもみなかった。
しかも彼とは、学部が同じわけでもサークルが同じわけでも、趣味が合うわけでもない。大学院生を含めれば何千人という学生がいる学内で、出会えただけでも奇跡に近いものなのに、少しずつ明らかになる“二人の似たような感覚”。嬉しくて、恥ずかしくて、心がかゆくなる。
和香は、にやけそうになるのを堪える為に、次から次へと言葉を繰り出した。
「そうそう。でね、贅沢を言えば、映画館の箱自体が揺れ動けば良いなって思う。そしたらもっと入り込めるでしょ。そういうアトラクション、遊園地によくあるでしょ?」
慶介はそれを受け止めるように、屈託のない笑顔で笑う。
「和香ちゃんそういうの好き?じゃあ、次は遊園地行こうか。来週は日本選手権観に行くし、その後は個人(*)が控えてるから六月の終わりとかになるけど」
「……え?」
和香の表情が、笑顔から戸惑ったものに変わった。今日のデートもまだ始まったばかりなのに次の話が出てきたことに驚いたのだった。
それを察知した慶介は、
「あ、忙しい?」
と言い、続けて、
「まあ、俺も焦りすぎか」
参ったな、というように頭を掻いた。
*個人…全日本学生陸上競技個人選手権