第二話 知りたいこと―その2
しばらくしんとした時間が続いた後、結衣が口を開いた。
「アラケーがかなり和香ちゃんのこと気に入ったみたいで、和香ちゃんのこと色々と訊いてくるのよ。性格とか、好きなものとか。和香ちゃんの方はどう?アラケーのこと気に入った?」
結衣は顔を机に付けたまま、斜め後ろでベッドに座っている和香へ目線だけ向ける。単刀直入に訊かれた和香は、火照る頬を両手で覆うと、
「うん……。まあ、気に入ったっていうか……」
と言いかけ、そして、
「素敵だなって思った」
と弱々しく言い直した。
気に入ったという言い方はしっくりこなかった。
彼のあの楽しそうな瞳を羨ましく思ったし、眩しいとも思った。彼のようになりたいと思った。それは、憧れにも近い想いだった。
和香の穏やかな笑顔を見た結衣は少し目を見張り、その後、「うーん」と唸った。
「あ、だけどね、結衣ちゃんの話を聞いてるから、付き合いたいとかはあんまり思ってないんだけど……」
渋っているような結衣の様子に、和香は慌てて言い訳のように付け加えた。けれども言ってすぐに、今の自分の言葉は、「やめた方がいい」と言われた時にショックを受けないようにするための保険のようだと思った。ただしそれだと、心の片隅では彼と恋人になりたいと願っているということになる。
和香はどうにも自分の心が読めなくなっていた。
半分瞑っていた目を開いた結衣は、こたつ机から頭を上げて和香の方を振り返った。
「そっか。ごめん。結果的に私余計なこと言ったのね」
そう言うと、申し訳なそうに頭を下げる。
言葉の真意を理解できない和香が無言で首をかしげると、結衣は続ける。
「あのね、うん、まあ、浮気とかはしないんだけど、基本やっぱりアラケーの“付き合う”は軽いのよ。とりあえず自分がフリーで気に入った子がいれば即!って感じで。来るものは拒まないし。そのくせ陸上命だから結構すぐに終わっちゃうことも多くて。当然、去る者は負わないし。むしろ陸上が本命の彼女で、人間の彼女が浮気相手みたいな感じ?まあ、陸上に対する姿勢は本当に尊敬してるんだけどねえ」
そう言って溜息を吐くと一口麦茶を飲んだ。グラスについていた水滴が布でできたコースターの上に数滴落ちて、濃い色を作る。
「一応、“付き合う”という契約をするから余計に性質が悪いのよね。続く時は続くし。そう言うのも無しで同時進行してたりとか、適当に女の子をとっかえひっかえしてるような本当の遊び人だったら、絶対に和香ちゃんを諦めるように説得するし和香ちゃんを止めるんだけど。ていうか、私の友達は絶対に恋愛対象外だって言ってたのに、アイツめ」
そうしてさらにそう言うと、和香の座るベッドの凭れかかって天井を仰いだ。そのまま目線だけでじっと和香を見つめる結衣の瞳には困惑の色が窺える。
「そういえば、和香ちゃんって入学して初めて会った時には彼氏いないって言ってたよね?それから今までずっといないの?高校の時とか中学の時とかは?」
「ええっと、高校の時に二人」
「そうなんだ。どんな感じだったの?」
訊かれた和香は、淡い初恋を思いだした。
中高一貫の私立の女子校に通っていた和香は、高校へあがって間もなく小学生の時に初めて好きになった人と地元の駅でばったり会った。彼は、クラスでは目立つタイプではでなく、身長も和香より低かったけれども、いつも友達と楽しそうに笑っている子だった。男子にも女子にもわけ隔てなく優しく、もちろん和香に対してもとても優しかった。久しぶりに会った彼は身長も伸び、すっかりイマドキの高校生に成長していた。
連絡先を交換し携帯メールのやり取りが二カ月ほど続いたのち、夏休みに入る少し前に交際を申し込まれた。初恋の彼からの告白。もちろん断る理由もなく、二つ返事で和香はオーケーした。
けれども、残念ながらそう上手くはいかなかった。学校が違うので毎日会うことはできない。さらに、夏休み中に入れば、和香は部活の練習や補習などで忙しく、ただでさえ会う機会少ないのに連絡さえなかなかとれない日が続いたのだった。
もともと、仲の良い友達とも頻繁にメールをするタイプではない。それでも、時間を見て会ったりメールもできるだけ返すようにしていたのだったが。
「マイペースすぎるって言われて振られちゃった。それでも私は、デートも楽しかったし、本当に大好きだったんだけどね」
そう付け加えた和香は、寂しそうに視線を落とした。
あの時のことは今でも、思い出すと胸がシクシクと痛む。彼へ気持ちを伝えきることができなかった自分に、とても腹が立った。何より、彼が「俺のこと本当に好きなの?」と言った時の悲しそうな声が今でも耳に残っているのだ。
結衣は和香を見上げながら、その話に静かに耳を傾ける。
「で、二年の冬くらいから付き合った人は、その時の反省を生かして頑張ったんだけど、その人も三ヶ月くらいでダメだった。別れたのはバレンタインの後だったなあ。その後はもう彼氏どこじゃなかったから、そのまま何事もなくここまで来ちゃったよ」
てへっと笑いながら話す和香を見て結衣は、色恋に興味がなかったり呑気そうに見えたりしても、彼女も普通の恋愛をしてきたのだと、ほっとした気持ちになった。人の恋路に首を突っ込む趣味はないし、恋愛が全てだと考えているわけでもないが、全く異性に興味を示さない和香を不思議に思っていたのだ。
こういう話って恥ずかしいね、と少し顔を染めて言う和香。そんな彼女をからかうように、結衣は和香の膝をツンとつついた。そうしてさらに話をする。
「それにしても何でまたバレンタインに?」
結衣の問いに、和香は渋い顔をして「うーん…」と唸ると、鼻の頭にしわを寄せた。そうして言いにくそうにしながら、言葉をぷつぷつと切って答える。
「チョコをあげたんだけど……相手の部屋だったから、そのあと、ほら、まあ、そういう雰囲気になり、でも、それにびっくりして、私が拒んでしまい……」
「……それで別れたの?」
和香はベッドに座ったまま、結衣の方へバタンと上体を倒した。和香の胸のあたりに結衣の肩がきて、結衣の頭の右側に和香の頭がくる。ふわりと香ったシャンプーの香りに、結衣は穏やかな気分になった。
結衣の耳元で和香は答える。
「うん。また、『俺のこと好きじゃないんだね』って言われて」
――二回とも同じようなことを言われたのか。でもそれって
結衣はそう思って和香を振り返る。
「それってさあ、言葉は悪いけど和香ちゃんの身体が目当てだったってこと?」
力なくだらんと横たわっていた和香は結衣の言葉に跳ね起きた。
「え!?」
「だって、別れたのは身体を許さなかったのが原因ってことでしょう?その人は別れて良かったんじゃないのかなあ?」
結衣はさも当然のように言った。
けれども、和香の話には抜けていた部分があったのだった。あたふたとしながら、和香はその部分を付け加えた。その声は思ったより大きなものになった。
「ええ!?身体なんてそんなこと!キスだってしなかったのにそれはないよ!」
「……って、えええ!?」
和香の発言に、今度は結衣が負けないくらいの声を張り上げた。
「え!?そんなに驚くようなこと!?」
「そりゃまあ、私だって身体の方はしたことないけど……。そういう雰囲気なんて言い方されたら、そっちのコトなのかなって思うじゃない」
「ええ?結衣ちゃんもないの!?」
「ええ?ないよお、そんなの。和香ちゃん、私のこと何だと思ってるの」
叫び合いながら驚き合いながら。そんなことをしているうちに何だか可笑しくなってきた二人は、顔を見合わせてクスクスと笑い合う。
しばらく笑い合ってから落ち着いたあと、二人は同じタイミングで麦茶に手を伸ばした。それもまた可笑しくてしばらく小さな笑いの渦が巻く。笑いすぎて腹筋に痛みを感じてきた結衣は、コホンと一つ咳払いをすると、麦茶を一気に飲み干した。
「ま、和香ちゃん身持ち固そうだし、アラケーにも変な手の出し方をしないように言っておくから、良いなって思ったんなら、友達としての付き合いから始めてみたらいいんじゃないかな。お互いのことは少しずつ知っていけばいいと思うよ」
そう言って、腕を伸ばして和香の頬をつついた。
「……あ!」
結衣の言葉に、和香は先ほど慶介からメールが来ていたことを思い出した。そのことを話せば、それを訊いた彼女は眉間にしわを寄せて納得いかない表情をする。
「ああ、やっぱり連絡いってたのね。素早いなあ…」
そう言ってため息を吐いた。
「和香ちゃん、何かあったらすぐ言ってね。これまでの経緯からいっても、傷つくのは和香ちゃんになる可能性の方が高いんだから!」
大きく振り返った結衣は、和香の肩を掴んでぐいっと顔を寄せる。その迫力に押されながら和香はコクコクと頷いた。
そうして携帯電話を手に取る。
『私は平日にバイトとサークルがランダムに入ります 日曜は大抵ヒマだよ ありがとう 連絡待ってます』
全力で走った時でもここまで大きく速くなったことはない、と思うほどの鼓動を聞きながら、和香はそうメッセージを送った。
そんな和香を、結衣がひたすら冷やかし続けたのだった。