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彩雲  作者: 秋津島 葵
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第一話 見つけたいもの―その4

 彼と話をするのは面白かった。

 女性を気持ちよくさせる会話の仕方をある程度心得てはいるのだろう。けれども、その部分を抜きにして、彼の話を聞いているだけでも楽しいと思った。

 会話が弾むようになってきてからは、ひたすら陸上の話を聞いた。話自体は、落ちがあるかと言えばそうではないし、脈絡や強弱もなかった。それでも、和香は陸上競技のことなど全く知らなかったので、何もかもがとても新鮮だと思ったのだ。

 低すぎず高すぎず、よく通る声もまた心地よかった。


 練習は厳しく、合宿では吐くまで追い込んで走ることもしばしばだが、練習が終わった後の達成感は何物にも代えがたい。なにより、自分が強くなっているのが目に見えて分かるのが、とても面白いのだと言う。

 走ること、投げること、跳ぶことは、人間の運動形式の基本でごくシンプルなもの。シンプルだからこそ、最大限合理的な動きが求められる。それらの能力をどこまで究極的に高めていくことができるのか、ということを、自身の身体で追及していくことに対してワクワクするのだと、慶介は言った。

 そうして、疾風のように走り抜ける選手、投擲物が描く放物線やその飛距離、空を飛んでいるような跳躍を見ていると、人間の能力には限界などないのではないかという錯覚を起こすのだと。


「だから楽しいんだよ、陸上。やめられねえんだ。それにスタート前のこうぐわっとくる感じとか、集中した時のあの感覚とか、マジでクセんなる。スタンドとトラックが静まり返った時の一体感とかも…」

 子どものようにキラキラと輝いている慶介の瞳は、これまで受験以外はのほほんと生きてきた和香にとっては眩しすぎるものだった。

 それなのに、そんな彼にどんどん惹きつけられていく。

――何て楽しそうに話すんだろう。陸上大好きなんだな

 そんな風に、とても彼を羨ましく思った。


 けれども一方では、厳しい練習に耐えているのにそんなに楽しそうに話を出来るのはなぜなのか、自分がやりたくてやっていることならばどんな苦しさだって平気なのだろうか、という疑問も生まれた。

 今の和香の心もちではいまいちピンとこないのだ。

 1年前の大学受験の時には、もちろん全身全霊を勉強にかけていたけれど、それはただただ必死になっていただけだった。それこそ今思い出すとこちらも負けずに吐き気をもよおすくらい、当時は追い詰められていた。だから、いくら一生懸命に打ちこんできたことでも、彼のようにキラキラと輝いた瞳で話をすることなどできない。その証拠に、合否通知を見た瞬間に湧きあがった感情も、喜びではなく安堵感だった。

――私も彼のように、好きな何かに一途になってみたい。一つのことに一生懸命打ちこんでみたい。キラキラしてみたい。

 慶介の話を聞きいているうちに、和香は初めてそんなことを思った。


 すっかり話に聴き入って無言になっていた和香を、退屈しているのだと考えた慶介は、はっとした顔になると頭を掻いた。

「ごめん。つまらなかったね、こんな話」

 そう言った慶介言葉遣いは、先ほどまでの砕けた感じから元に戻っていた。

 和香は首を横に振る。

「そんなことないよ。体育祭の時に陸上部の人が走ってるのを観てかっこいいなって思ってたけど、ちゃんと陸上の話は聴いたことがなかったから、そんな風に練習してるんだなって思った。種目も走るものだけじゃないんだもんね。色んなものを生で観てみたくなったよ。それに、何かに一生懸命になってる人って本当にキラキラしてるんだね」

 そうして心底眩しそうに笑うと、透き通った視線で真っ直ぐに慶介を捉える。その瞳の奥までも透けて見えそうなほどだった。目を見張った慶介は、恥ずかしそうにふっと和香から視線をそらした。

「何それ。照れるじゃん」

「そう?でもホントだよ。私、そういうふうに打ち込めてるものってないな。受験勉強は必死にやったけど、あの1年間のことを楽しく話すのはできないし……」

 おどけた調子の慶介にも、和香は素直に答えた。


 小さいころから学校では、自分のやりたいことを一生懸命やれと教育されてきたのだが、和香にはそういうものがなかった。卒業文集などで書く「将来の夢」も、その場で思いついた職業を書いていた。

「やりたいことを見つけろ。それを一生懸命やれ」

 和香はずっと、教師達が言うその言葉の裏には、「やりたいことがない人間はだらけている人間だ」「やる気のない人間だ」という言葉が暗黙のうちに存在しているような気がしてならなかったのだ。

 けれども、一生懸命したいと特別に思えるただ一つのもの(・・・・・・・)がなかったというだけで、和香は至って真面目な生徒であったし、勉強も部活もやるべきことは全力でやっていた。もちろん大学に入ってからの成績に関しても単位は一つも落としていないし、評定もそれなりのものを得ている。

 けれどもそれは、目の前の目標を必死にこなしているというだけで、自分がこれをしたい、と思って始めたことはそう言えば何一つないのだと、改めて感じてしまった。中学・高校の時の部活動でさえ、同じクラスになった子が入部すると言ったから、それについて一緒に入部したのだ。


 そう思えば和香は、自分のこれまでの人生が何だか中途半端なものだったような気分になった。モノクロームと表現するほど地味ではなかったけれども、カラフルではない。二色刷りのような鮮やかになりきらない画面の中に、これまでの出来事が広がるのだ。

 そうして俯くと、独り言のようにぽつりとつぶやく。

「私、今までそういうの考えたことなかったから。やりたいことってやっぱり見つけなきゃいけないのかな…」

 それを聞いた慶介は、刺身を口へ運ぼうとしていた手を一旦止めた。

「やりたいことあるやつなんて、世の中にそんなにいないんじゃないの?別に無理に見つける必要なんてないと思うよ、俺は」

 慶介のその言葉に、和香は勢いよく彼の方へ顔を向けた。

「俺は運よく陸上に出会って、陸上にハマったからやってるけどさ。やりたいことに打ち込んでるっつーと聞こえがいいかもしれないけど、まあでも、今できることをできる範囲でやってるだけだけだよ。目の前のことをやってるだけっつーか。この大学入って陸上競技部にいる限りは、必死で練習するのが俺の使命みたいなもんだと思ってるしね」

 そう言った彼の顔は、間接照明のせいではっきりとしないものの、ほんのりと赤く染まっているように見える。アルコールのせいなのか照れているからなのか、その理由は和香にはわからない。

 それから慶介は、「何か俺今かっこいーこと言ったな」と付け加えた。そうしてごまかすように、先ほど食べるのをやめた刺身を改めて口へ運び、ジョッキに残っていたビールを一気に空けた。


――やりたいことなんて見つけなくてもいい

 そんな簡単なことを言ってくれた人は、今まで和香の周囲にはいなかった。たいていの人は「ゆっくりでいいからね」だとか「大学できっと見つかるよ」だとか、結局、最終的には見つけなければいけないという前提があっての言葉しかくれなかったのだ。

――目の前にあることを一生懸命する

 それは決して悪いことではないのだと、彼から少しの自信を貰うことができたと和香は思った。

 けれども同時に、やはり必死で陸上に打ち込んでいる彼は格好よくて、何となく自分は取り残された気分にもなる。


 そしてもうひとつ、和香には違和感があった。

 それは、話を聞いている限り、陸上に関してはとても真摯な印象を受けたということだ。結衣の忠告を無視するつもりはないが、そんな彼が「女性関係があまりよろしくない」というのは、何となく想像できないのだ。それともそういったギャップを利用しているのだろうか。


 それでも、

――彼のことをもっとよく知りたい、もっと近づいてみたい

 そんな気持ちが和香の心のうちに芽生えていた。

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