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彩雲  作者: 秋津島 葵
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第八話 あなたが好き――その1

 メインスタンド前で行われる各種目の表彰。慶介の表彰もあるのだろうと考えた和香は、スタンドでそれを見届けてから帰ることにした。しばらくして、男子四百メートル競走の表彰が始まるというアナウンスが場内に響く。和香は表彰が良く見える場所へ少しだけ移動した。

 慶介はジャージを履いてはいたが、上半身はランニングのユニフォームだった。そこから伸びる鍛えられた腕に、初めてデートをした時のことを思い出した和香は、熱くなる頬をそっと手で覆う。自分がこんな感情を持つようになるなど思ってもいなかった。

――こんな気持ちは困る。

 それから、大学のトップアスリートが集まる大会で、浮かれたピンク色が頭の中に漂っている自分をひどく場違いに感じ、肩を落とした。

『第三位、新井慶介君、××大学。その記録、47秒46。』

 慶介が表彰台の上に上る。すると、拍手と同時に、和香の通う大学のジャージを着た男女何人かが、スタンドの表彰場所の正面で「アラケー!」と叫んだ。そちらへ顔を向けた慶介は、カメラを構える友達に向かって賞状を向け、ニコニコ笑顔でブイサインをする。


 慶介の世界は、自分には入り込めない世界だと思った。出逢ってまだほんのわずかな時間しか経っていないのだから当たり前だけれども、例えば三年間交際が続いていたとしても、自分はあの輪の中に入ることができない。やはり彼は自分とは別次元に生きる人なのだ、と、改めて認識した和香。その心には、黒い影が落とされた。

 けれどもそれは一瞬にして消え去る。キョロキョロと視線を彷徨わせていた慶介が、和香を見つけた瞬間に嬉しそうに顔を綻ばせたからだ。慶介の部活仲間達が和香の存在に気付いた様子はなかったかれども、和香は少しの気恥ずかしさを覚えながら、控えめに笑顔を返し小さく手を振った。

――照れる……。

 それでも、純粋に嬉しかった。


 表彰も終わり、慶介に祝いのメールを送った和香は、一人帰路へついた。慶介を待っていて一緒に帰ろうかとも思ったが、まだ彼女でもないのにそれはさすがにないだろうと思い直したのだった。それに、試合が終わったからと言って「さあ、帰りましょう」とはいかないのは、和香だって知っている。弱小とはいえ、一応、高校時代は運動部所属だったのだから。

 競技場の最寄り駅のホームで、携帯のバイブレータが震えた。メールは慶介からだった。

『今日は応援ありがとう。 ベスト出ました。 やりました! 来週の日曜、もし和香ちゃんに予定がなければ会おう』

 いきなりの誘いに胸が高鳴った。特に予定はない。駅のホームで一人、少しだけ頬を朱に染めた和香は、嬉しそうに“オーケー”のメールを返信したのだった。



 

 枕元でバイブレータが震えている。

――しまった。ちゃんとお風呂入る前に寝ちゃってた……。電話?ダレ……

 鳴りやむことのないその音に、和香はぽやぽやとした気分で通話ボタンを押した。

「もし……」

 もしもし、と言いたかったのに、喉がカラカラで上手く声が出なかった。

『あ、出た。もしかして寝てたの起こしちゃった?』

 電話越しに聞こえた心を締め付けるその声に、半分夢の中だった和香の意識はクリアになり、勢いよく起き上がった。

 するとその拍子に唾液が気管支の方へ入ってしまい、大きくむせ込むんでしまう。ひたすらケホケホと言い続ける和香を心配する慶介の言葉が耳に響くけれども、声が出せないので頷くことしかできない。

 当然、電話越しでは伝わらない。

「あ、アラケーくん…?」

 やっとのことで落ち着いた和香が絞り出した声は、それでもいくらか低いものになっていた。好きな人にこんな声を聞かれてしまうのは避けたかった。

『うん。大丈夫?つーか、ごめんね。起しちゃったね』

 申し訳なそうに言う慶介の声に混ざって、ガヤガヤとした騒ぎ声も聞こえる。

「だい……大、丈夫。ちょっとウトウトしてただけだから……」

『そっか。あのさ、今日は、応援来てくれてありがとね』

「え……?あ、うん」

 それは夕方メールで聞いた。

 そんなことを言うためにわざわざ?とも思ったけれども、好きな人からの電話は何であっても無条件に嬉しいものだ。それでも、いつになく緊張しているような慶介の声に違和感を覚える。何かあったのだろうか。

 けれども慶介はそれっきり黙ってしまった。電話越しに聞こえるのは喧騒。

――間が持たない。どうしよう。ここは私から何かしゃべった方がいいのかな。

「えっと……」

 そう和香が言葉を発したタイミングに重ねて、慶介が喋り出す。

『あ、あのさ……』

「え?うん」

『…………』

「……?」

『俺、和香ちゃんのこと本気で好き、だから……。だから……』

「――!?」


 沈黙が続いたのちに慶介から言われた言葉は、まさに青天の霹靂だった。

 まさかこのタイミングで告白されるなどとは予想もしていなかった和香は、ベッドのうえで一人泡を食って洋服の胸元をぐっと掴んだ。好意を寄せている異性からの告白なのに、ときめきや幸福感よりも驚きや戸惑いの方が強いというのは、なんとも言えない複雑な心境だ。

 和香は口から心臓が飛び出しそうなのを必死に堪えながら、慶介の次の言葉を待つ。

『だから……。つ、付き合っとく?』

「……へ?」

 けれども、次に慶介から飛び出した言葉は思った以上に軽々しいもので、和香は部屋の中で一人、ずるっとこけた。と同時に、今度は電話越しに慶介の叫び声が聞こえ、和香は何事かと気を構える。

『……いって!もうマジで勘弁して下さい……』

「え、あの……。アラケーくん?」


 慶介が電話の奥で誰かと話をしているのは分かる。

 誰と話しているのだろう。いやそれ以前に、何故自分は。寝ぐせまみれの状態で告白をされているのだろうか。しかもとてつもなく軽々しいものを。

 和香には、電話の向こうの慶介の状況どころか、自分自身が置かれている状況も全く理解できなかった。

 慶介の誰かとのやり取りはまだ続いているようだ。電話口からは少し離れているようで、ところどころの単語が聞こえてくるだけで、会話の内容自体ははっきりと聞き取れない。

「……もしもし?アラケー君?」

 困り果てて和香が尋ねると、慌てた声が返ってきた。

『ごめん、和香ちゃん。えっと……。今から会える?』

「え、今、から……?」

 掛け時計を見ると夜の九時を回ったところだった。

 就寝モードに入っていたとはいえ、幸い、試合から帰ってきてから軽くシャワーを浴びた程度だったので、それほど準備に時間がかかる状態ではない。何より、確実に慶介との関係が進展されそうなこの状況で、これを断るという選択肢はない。

『あ、無理なら、また来週でもいいんだけど……』

「ううん。大丈夫!急いで行くよ。どこに行けばいい?」

『いや、俺が行く。和香ちゃんちの横にある公園に着いたらまた連絡するから、準備とかあるなら急がなくていいけど、下りて来てくれる?』

「ありがとう。うん、分かった」


 通話終了ボタンを押した和香は携帯を見つめる。手のひらには薄く汗をかいた。

 大きく深呼吸をした和香は、洗面台へ向かったのだった。







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