第七話 揺れながら―その3
最寄駅まで自転車をとばした後、和香は全力で走った。改札を抜け階段を駆け上り、電車の中でも走り続けたい衝動に駆られ続けた。ケンカを始めてしまった子どもたちの仲裁に思いのほか手間取ってしまい、児童館を出る時間が1時間も遅れてしまったのだった。
男子400m競走は1分も経たないうちに終わってしまう。スタートしてしまえば殆ど一瞬だ。和香の心の中には、今までに感じたことがないくらいの焦りが広がる。電車内は涼しいはずなのに、和香の身体はうっすらと汗を書き続ける。和香は小さく足踏みをしながら乗り変え駅までもどかしさをこらえた。
電車を二回乗り継ぎ、競技場までの道をさらに走り続ける。遠くにスタジアムが見えてきたところで少し気持ちは落ち着いたが、それでも足は止めない。そうしてメインゲートの階段を全力で上り、スタンドの裏を走り抜けると、第一コーナーへ向かった。
スタンドへ出ると、トラックでは、レーンナンバー標識とスターティングブロックが各レーンに戻されているところだった。走り終わった女子選手がレーンの外側に見え、その奥のゲート前には男子選手の姿が見えた。
ギリギリで間に合ったことを悟った和香は席の段をゆっくり下りると、ちょうど中段あたりのシートに座る。その瞬間に全身から一気に汗が噴き出した。
――さすがに初夏なんだなあ…。
ハンドタオルで額や首の汗をぬぐうけれども、一向に汗がひく気配はなかった。
周りには和香の通う大学のジャージを着た選手もちらほらと見られた。陸上選手と言ってもその体つきは様々だ。スラッとした長身の選手もいれば、和香の横幅の三倍はあるのではないかと思うほど、デンとした大きな身体の選手もいる。第一印象では細く見えた慶介でも、近くに寄ればそれなりに太い筋肉がついていると思った。
けれども、トラックに入って来た慶介は、周りの選手と比べるといくらか細身に見えた。
レーンに入った慶介はブロックをセットし、スタートの練習をする。その姿を和香はじっと見つめた。出場選手の紹介は、第一レーンから順番に行われた。
『第三レーン、新井君、××大学』
ところどころで拍手が起こる。名前を呼ばれ一歩前に出た慶介は、両手をあげて身体を半周させると頭を下げた。一瞬視線が合ったような気がしたが、果たしてトラックからスタンドにいる大勢の人々の顔を判別することはできるのだろうか。
選手紹介が全て終わると、周りに響いていた音が少なくなった気がした。その不思議な感覚に和香が首をかしげているうちに、
『オン・ユア・マークス』
スターターの声が響く。
等間隔で斜めに並んだ八人が同時に頭を下げ、個々人の動きでスターティングブロックに足を掛ける。
同時に、数百人もの人がいるはずのスタンドから、全ての人工的な音が消えた。競技場内に僅かにあるものは、鳥のさえずりと遠くで響く車のエンジン音だけだった。静まり返る競技場の圧力に屈したように、先ほどまで巻いていた風も消えた。国旗も、学連旗も、大会旗も、拭き流しも、風になびいていたもの全てがその動きを止めた。
和香の目の中心には第三レーンにいる慶介が映り込み、第二レーンと第四レーンの選手が何となしに視界の隅に入る。両脇の二人は構える位置が定まらず、ゴソゴソと動いているように感じたが、慶介はすっと決まったように見え、すぐにぴたりと動かなくなった。
競技場のずっと高いところでは、穏やかな空色が一面に広がり雲がのんびりと漂っているのに、その下の方ではピリリと締まった空気が走る。それは妙なコントラストだった。和香は思わず息を止めた。
『セット』
選手が一斉に腰を上げる。
最高に張り詰めた静かな間がわずかに流れる。ついでスターターの持っているピストルの先が光ると、ほぼ同時に電子的な雷管の音が弾けた。和香には八人が一斉にスタートを切ったように見えたのだが、どこかから「あ!失敗した!」という声が耳に入った。
そうして次の瞬間、それまでの静寂が嘘のように競技場内は大歓声で溢れ返った。足元からぐわっと何かが込み上げて来たような、前から後ろから右から左から色とりどりの空気が一気に押し寄せてきたような、そんな感覚だった。声がぐわんぐわんと反響して、和香の全身に響く時には、それはもう声というよりも音のようだった。
バックストレートに八人全員の姿を見ることができた時には、均等だった選手たちの距離はいくらか変動していた。ただしスタート位置が違うので、誰が一番速いペースで走っているのか、和香にはまるで見当がつかない。ただひたすらに慶介を目で追った。
第三コーナーと第四コーナー中間あたりで、ちょうど真中のレーンを走る四人が、横一列に並んだように和香には見えた。
――頑張れ!!
和香は胸の前で両手を組んで心の中で祈る。
第四コーナーを抜けようかという時には、慶介は並んでいた四人の中で一人だけ少し遅れていた。スタートした時よりも僅かに足の回転はゆっくりになっており、動き自体も重そうになっているのは和香の目にも見て取れる。
けれどもホームストレートに入ると少しずつ、慶介と前にいる三人との距離が縮まっているように見えた。
「あ!あ!あ!」
和香の口から出るのは、言葉ではなくもうただの文字だった。
完全に足が止まってしまったように見えた三番手をとらえた慶介は、そのままゴールした。第一コーナーの内側にある表示板の数字は、『47.27』。これは一位の選手のタイムで、慶介のフィニッシュタイムはわからない。
ゴールしてスピードを緩め、屈み込んだ慶介を和香は声もなく見つめた。周りの感嘆の声など一切耳に入らない。むしろ自分が全く無音の世界にいるような気分だ。瞳には微かに涙が浮かび、気を抜けばその粒はポロポロと零れおちそうだった。
すぐに立ち上がった慶介は周りの選手たちと握手をし、メインスタンドに向かって頭を下げ、続いてトラックに向かって頭を下げる。その後もう一度メインスタンドへ身体と目線を向けると、今度は和香に目を止めた。ぱちっと視線がぶつかって、和香の心臓は一瞬大きく動く。微動だにしない和香に満面の笑みだけを見せた慶介は、スタンドの下へと入っていった。
慶介の姿が消えたトラックが目に入たところで初めて、和香は自分の周りにはたくさんの観客がいたのだということを思い出したのだった。
あんな走り方を観たのは初めてだった。初めは一歩が大きく、その一歩は跳んでいるようにも見えた。最後は足も重そうで、身体も重そうで、とても苦しそうなのに、それでも圧倒的なパワーでもってゴールを目指し、彼は――彼らは――走り続けていた。
厳しい人生を比喩的に表現したものではなく、自分自身の身体を使い物理的にそれを為しているのだ。そう思えば、和香は彼らから底知れないエネルギーを感じた。と同時に慶介の記録が気になる。自己ベストは出たのだろうか。
和香が気をもんでいるうちに、次の競技である女子百メートル競走の決勝が始まる。横一列にずらりと並んだ女子選手たち。太く筋肉がついている選手、スラッと細い選手と、スタイルは様々だが、セパレートタイプのユニフォームから見える締まった体幹と四肢は、皆、同じ女性とは思えないほどのものだった。彼女たちはとても綺麗だった。
スタートしてからも和香の目はホームストレートに釘付けだった。男子の迫力には負けるものの、女性があれだけのスピードで走れるなど想像すらしていなかった和香は、言葉を失った。
もし、自分が仮に卓球部ではなく陸上部に入っていたとしたら、彼女たちのようになれていたのだろうか。和香は考えてみたが、すぐに自分には無理だろうと思った。きっと彼女たちとは持って生まれたものが違う。努力をすることは尊いことだが、努力をしても埋まらないものもあるし、何より人には向き不向きというものもあるのだ。
女子百メートル競走の決勝が終わると場内アナウンスが入った。
その声に反応して、和香は弾かれたように電光掲示板の方へ顔を向ける。第三着の慶介の記録は47秒46。それは、0.01秒のベストだった。
叫びそうになったのを何とか飲みこんだ和香だったが、弛む頬は抑えきれなかった。
――ベストだ、ベスト!やったねアラケーくん!
今にも躍り出しそうになった和香の目には、薄く涙もにじんだ。
和香が感動にむせび泣く間もなく、最終種目である男子百メートル競走の決勝が始まる。スタートラインに並んでいる決勝に進出した八人の中に、甲斐雅仁の姿を見つけた。
競技場内には再びピリリと引き締まった空気が走る。吐息すら立ててはいけないような気になった和香は、また息を止めた。そうして雷管の音が競技場内に響き渡る。
彼らはまさに弾丸だった。引き金を引いて銃を撃つ。放たれた弾丸は矢のような速さで100m先へ向かっていった。
初めて目にしたものに驚嘆しきりの和香は、その場からピクリとも動けなくなった。
――すごい。人間ってあんな風に走れたんだ。あんな動きができたんだ。あ、もしかしてこれが、前にアラケー君が言ってたこと?人間の能力には限界は無いような気がしてくるって。……うん、わかる気がするな。
いつか慶介が言っていたことを思い出す。大好きな人と同じものを見て同じように感じることができるなど、こんなに嬉しいことはない。同じように感じる心を持っている人に巡り合えた自分は、本当に幸せ者だと和香は思った。