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彩雲  作者: 秋津島 葵
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第七話 揺れながら―その1

 腕の中で微動だにしなくなった和香を不思議に思い、慶介は彼女の身体を放した。完熟トマトのようになった和香を見た慶介は、ばつの悪そうな顔になると慌てて和香から距離を取り謝る。今の和香を突こうものなら、ぐにゃりとつぶれてしまいそうだった。

 下を向いたままで和香はゆっくり首を振る。怒っているわけではなく、ただただ、どうしたらいいのかが解らないのだ。とてもではないが彼の顔を見る余裕などない。

 とにかくドキドキした。胸は高鳴り続けた。たったあれだけの言葉と行為で胸がいっぱいになるなど、全く思ってもみなかった。自分に起こった純情乙女のようなその感情に、少しばかりむず痒さを感じる。

 痴漢に遭った恐怖は跡形もなく消え去り、和香の心は慶介で埋め尽くされたのだった。


 それからの記憶が和香にはあまりない。

 自分から帰る旨を伝え、その後慶介に家まで送ってもらったことは間違いない。けれども、夢見心地だった和香がはっきりと意識を取り戻したのは、高すぎる設定温度のシャワーを浴びた瞬間だった。

 何か大切な約束をしたような気もするがその内容は思い出せず、むしろ約束をしたという事実自体も現実なのかどうか怪しいものだった。


 次の日、梅雨入りが発表された。例年よりも数日早いそうだ。夕方、遊歩道に放置してきたサドルのない自転車を探しに行くと、それは道のはずれに避けて置かれていた。投げ捨てるようにして走りだしたので少々傷が付いていたが、それなりの値段がしたものなので買い換える気にもなれず、近所の自転車屋へ持って行き、新しくサドルだけつけてもらった。




 それでも和香の心は晴れ晴れとしている。傷ついた自転車だろうが鬱陶しい天気だろうが、“恋する乙女”の心を曇らせるのは難しい。あれから慶介とは会ってはいないが、メールのやり取りはずっと続いている。いつになく順調な関係に和香は完全に浮き立っていた。

 雨はもう何日も降り続いており、どこもかしこもじめじめしている。

 児童館の中も例外ではなかった。子どもの熱気もプラスされるので、エアコンで除湿をしなければ大きな低温サウナだ。

 そんなわけで本日も、熱中症にでもなっては困ると、子どもがたくさんいる時にはエアコンはつけられていた。けれども、残りが一人となった今はすっかり消されてしまっており、児童館の中は再び湿気った空気が充満しだしている。


 そんな児童館にある小さな図書コーナーで、和香は、親の迎えを待つ子どもに本の読み聞かせをしていた。彼女は残った最後の一人。ほとんどが平仮名の児童文学は、なかなかどうして読みづらい。

「周防さん、ごめんね。六時までの約束だったわよね」

 壁にもたれて座っていた二人の上から児童館職員の声がした。職員の田中は最後まで残っている二人の様子を見に来たのだ。ふと時計に目を向ければ、時間はまもなく十九時を回ろうかというところだった。

「構いませんよ。私、モラトリアム人間で時間はたっぷりありますし」

 和香の言い回しにクスリと笑った田中は

「そう?ありがとうね。美奈ちゃんはすっかり周防さんになついちゃったわね」

 そう言うと美奈の前で膝をついてしゃがみ込み、その顔を覗き込んだ。美奈は恥ずかしそうに田中から顔をそらすと和香にしがみついく。和香と田中は困ったように笑い合った。

 それから田中は眉を少しだけ下げて言う。

「そうだ。明後日の確認なんだけど、九時から十一時までね。日曜日に申し訳ないけれど、映画見るだけだし午前中で終わるから」

「あ、はい。わかりました」

「よろしくね。周防さんがいるとみんな楽しそうだから。そうそう、さっき美奈ちゃんのお父さんから電話があったから、あと10分くらいで来ると思うわ」

 立ちあがった田中はそう言うと、美奈の頭を優しく撫で事務室へと戻っていった。美奈は和香の身体にしがみついたままで顔だけ上げると、田中の後姿をじっと見続けていた。


 和香はパタンと本を閉じると、美奈の頭をそっとなでる。

「美奈ちゃん、今日のお迎えはお父さんなんだね」

「そうだよ。おかあさん、きょうもしごとだもん」

 美奈はしょんぼりと答えた。

「美奈ちゃんのお母さんてお仕事何してるの?」

「どこかのかいしゃ。でもおかあさん、しごとの日はいつもあさ早いよ」

「そっか。じゃあ美奈ちゃんは一緒に早起きしてるんだね」

「おかあさん、わたしがおきたらもういないよ」

 そう答えた後、顔の曇り加減が濃くなった美奈を和香は見逃さなかった。

 和香は言葉につまった。こういう話を聞くのが一番つらい。

 自分が彼女に何ができるのか考えた。限度はあるが、児童館という空間の中だけでも、母親代わりのようなことはしてやれるはずだ。

――できるだけスキンシップをとってあげようかな

 和香は美奈を自分の膝の上に乗せた。

「お父さん来るまでもう少し本読んであげる」

 そう言って両腕で美奈を包み込みながら、ゆっくりと本を読み聞かせたのだった。




 和香がそのメールに気付いたのは、風呂からあがってからだった。

 それは、風呂上がりの一杯に牛乳を飲みながら、慶介に応援のメールをしようと考えカバンの中を探ったとき。カバンの奥底で着信があったことを知らせるランプが光っていたのだった。

 和香は慌てて携帯電話を取り出す。携帯電話を開くと新着メールが一件あり、それは慶介からのものだった。

『明後日は準決が11:30で決勝が14:55 和香ちゃんボケッとしてたから確認』

 受信時間は八時二分だった。

 メールを見つめたまま、和香はしばし考え込んだ。

――アラケー君、わざわざスタート時間教えてくれて……。その時間に私が祈れるようにしてくれてるのかなあ

 何とも的外れなことを思いついた和香だったが、自分は何か大切なことを忘れている気がして、記憶をたどる。そうして数分後、いつかと同じように和香の叫び声がアパート中に響き渡ったのだった。

――あ、ありえない。私ってば……

 和香は脱力してベットの上にうつぶせた。身体が鉛のように重い。

 いくら頭が沸いてたからといっても、こんなに大切な話すら中をすり抜けていたなど、自分という人間が心底嫌になった。

 和香の頭に入っていなかったこと。それは、慶介のレースを観に行くということだった。


 こうなってしまっては、メールで済ますわけにはいかない。緊張はするが直接電話をかけて話をしようと考えた和香は、メモリから慶介の番号を呼び出し発信ボタンを押した。

 短いコール音のあとスピーカーから聞こえた慶介の声は驚いているようだった。

「あの、ね。明日の予選、頑張って」

 電話の向こうで、慶介がふっと笑った気配がした。

『ありがとう』

 そう言う声は穏やかだ。

 罪悪感が和香の胸をチクリと刺した。何となく息苦しさを覚えた和香だったが、呼吸を落ち着かせると話を切り出した。

「それとね、明後日なんだけど……、児童館の方で午前中に来てくれって言われちゃって……。あ、でも、午後の決勝には間に合うの!」

 何だか言い訳のようになってしまい恥ずかしかった。

 けれども、慶介は怒ることなく

『なら決勝で変な走りしないように、予選、準決は考えて走らないとなあ。和香ちゃんに見てもらえるの一発勝負ってことだもんな』

 と、あっさりと言った。

 拍子抜けした和香は少々間の抜けた声になる。

「……おこらないの?」

『なんで?バイトなら仕方ないじゃん。結構急にシフト入ったりするんだろ?』

――いいえ。私の頭が空っぽだっただけなんです。ごめんなさい

 和香は胸中でそう謝りながらも、慶介の言葉を曖昧に肯定した。

『気にするなって』

「うん、ありがとう。あの、本当に頑張ってね」

『ああ。ありがとう』


 電話を切ったあとに感じたのは、耳に響くほど静まり返った部屋だった。

 慶介の声が耳に残る。それは慶介の声そのものが良いからなのか、それとも好きな人の声だから良いと思うのか。

 どちらだろうと考えながら、和香はゆっくりと眠りに落ていったのだった。


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