第六話 知っていく―その2
慶介の部屋は和香の部屋と同じような間取りの1kのアパートだった。ただし、部屋は八畳でキッチンも少々広めだ。壁にはジャージやウインドブレーカーがいくつもかけられており、ベッドの上には陸上競技の雑誌が放られている。こたつ机の上には、閉じられているノートパソコンと本が二冊置かれていた。
慶介の部屋はがらんとしていた。細々としたものもなく、壁に寄せて置いてあるのは、メタルラックとその上に乗せられたテレビ、そして本がいくつか並べられたカラーボックスのみだった。洋服などは、ベッドの下に置いてある衣装ケースに入れられているようだった。
慶介は和香にクッションを渡し、その上に座るように促した。コンビニのビニール袋からペットボトルのスポーツドリンクを出した慶介は、グラスにそれを注ぎ机の上に置く。そうして自分はこたつ机を挟んで和香の斜め前に座った。
「何もなくてごめんね。とりあえずこれ飲んで、落ち着いて」
「……!そんなこと……」
出されたグラスを両手で覆い、和香は慌てて慶介を見た。
それからもう一度グラスに目線を落とすと
「こちらこそ迷惑かけてごめんなさい。ありがとう」
とつぶやいた。
包み込むような笑顔の慶介に促され、和香はグラスに口をつける。ぬるくなってはいたが、喉は充分に潤う。自分でも気づいていなかったが身体はかなり渇いていたようだ。一口飲みだしたら止まらなくなり、結局一気にそれを飲みきった。
その様子を慶介が目を丸くして見ていたことに気付いた和香は、グラスを元の位置に戻すと顔を真っ赤に染めて小さくなった。
慶介がクスリと笑った気配がして、ますます和香は恥ずかしくなった。俯いている和香の頭にそっと手を触れ慰撫した慶介は、優しく和香に尋ねる。
「それで、どうしたの?」
「何と言いますか、自転車のサドルを盗まれて、引いて帰ってきたんだけど」
「サドル!?」
漫才や落語に使えそうなその事実に、慶介はあっけに取られた。
「それで歩いてる時に、多分、痴漢、の、ようなものに、遇いまして……」
俯いたままポツリポツリと話をする和香の語尾が、だんだん小さくなっていくにつれて、ポカンとしていた慶介の顔が険しくなっていく。
「マジか。そういやあ遊歩道のとこで最近よく出てるって、掲示板とか事務んとことかに貼ってあったもんなあ。暑くなってきてるし、変な奴が増えてんのか?……のやろ」
ちっと舌打ちをした音が聞こえて和香は顔をあげた。いつになく怒気を孕んでいるその顔に、和香はびくりと震えてしまった。それを察知した慶介は慌てて表情を緩める。
「ああごめん。で、和香ちゃん、何された……」
その言葉に、和香は先ほどよりもさらに顔を染め、耳まで赤くし再び下を向いた。
それを見た慶介は、頭に触れていた手を離すと両手を挙げた。
「……って、ゴメン。言いにくいよね」
和香は俯いたままで首をブンブンと振る。
「あの、そんなに大したことじゃ、ないんだけど……。一瞬だったし……」
そうしてそう続けたものの、具体的な事は言えなかった。
黙りこんでしまった二人の間に妙な空気が流れる。
二人は気心の知れた友人同士ではない。互いに好意を寄せ合っていることは承知しているものの、交際をスタートさせているわけでもない。デリケートな話をざっくばらんに出来るような、気の置けない関係ではないのだ。
今さらながら、慶介の部屋に上がり込んだことを和香は後悔した。
今この場で何だかんだと理由をつけ、いきなり押し倒すようなことは慶介はしないだろう。そうではなく、彼の方が逆に和香に気を遣い、彼女に対して次の言葉をかけられずにいると感じたのだ。
――変な気を遣わせてしまった……。大人しく帰ればよかったかな
そう思えば、和香の心のうちでは、きまりの悪い気持ちが先ほどの恐怖心を押し退けだした。落ち着かない。仕方がないので、ごまかすように視線を彷徨わせた。
そこで何気なく目をやったカラーボックスの中に、和香は一冊の本を見つけた。それは心理学を学ぶ者ならではの目の付けどころだった。
「運動心理学入門……」
痴漢に遭って落ち込んでいる女の子に対してどんな言葉をかけたらよいのかさっぱり分からず、わずかに戸惑っていた慶介も、和香が声を出したことにほっとしたようだった。
和香がぽつりとつぶやいた言葉に対して、いくらか軽い気分で答える。
「それ去年の体育心理学の授業ん時の。そうか、和香ちゃん心理だっけ」
「うん。あ、この本って教育心理の?」
その隣に並べられていた教育心理学の本も目に入り、楽しくなってきた和香の声は少しずつ弾むようになった。
「本見せてもらってもいい?」と訊いた和香に慶介は笑顔で頷く。立ちあがった和香は本を取ると、カラーボックスの前に座り込み、パラパラとページを捲った。
「先生誰だった?山本先生?木村先生?」
「木村の方だった」
「あ、それは残念だったねえ。あの先生の授業訳わかんなかったでしょ?心理の先生ってねえ、変な先生が多いんだ。でも山本先生は面白いんだよ!」
いつかのようにニコニコと嬉しそうに話すようになった和香を見て、慶介の心も軽くなった。優しく笑いながら、和香の言葉に相槌を打つ。
「和香ちゃんて教育系なの?」
「違うよ。教育学系は学部の基礎科目で取ったけど、専攻は実験心理学って言って、認知心理学とか知覚心理学とか。ヒトは感覚や知覚の情報を受け取ってどういうことを考えたり、どういう行動をしたりするのかを考える……って難しいよね。アラケー君は教員免許取るんだね。体育?」
「うん。とりあえず免許は取っとこうと思ってる。実業団で続けられるほど、俺は強いわけじゃないから。やるとすれば普通に就職して自分でやるしかないんだ。だから、中学生とか高校生とかに教えるのも面白そうだと思うんだよな。ま、教員の仕事って部活指導だけじゃないし、陸上部の顧問になれるかどうかもわからないけど」
「全国大会に出れてるのに、実業団とかって行けないの?」
驚いた和香は、本から顔をあげて慶介を見る。
「ああ。俺くらいのレベルのやつは腐るほどいるし、陸上の実業団なんてほとんど長距離しかないんだ。他の種目は、世界選手権とかオリンピックとかに出られる力がないと基本的には厳しいし。俺なんて実際、全カレ(*)のB標ギリギリ切ってるだけで、日本選手権どころかA標すら切れてねえもん」
――やっぱりスポーツの世界って厳しいんだな
そうなんだ、と零した和香は本を閉じて元の位置へ戻し、慶介の前へ座り直す。
慶介は、そんな和香を飛び越えて真っ直ぐに視線を向けた。座った状態でも身長差は埋められず、和香はじっと慶介を見上げた。慶介はの瞳は目標を見据え、前だけを見ていた。
「だからまずは、来週の個人が勝負なんだ。47秒台前半がもう一度出るかどうか」
「もう一度って?その記録が標準記録なの?」
「標準っつーか、ベストが47秒48だから、そこが今の目標。全カレのA標はもっと高えよ。去年は、ワケ解らず走った地区インカレ(*)で、いきなり大ベストのそのタイム出した以外は、全然走れてなかったんだ。練習のリズムも生活リズムも掴めねえし、授業長えし詰まりまくってるし、コーチ言ってること難しいし。全カレなんて、決勝どころか予選で50秒かかりかけてマジで消滅したくなった」
苦笑しながら続けた慶介は、和香と会話をしているにも関わらず、どこか遠いところを見ているようだった。
再び勇壮な顔つきになった慶介は言い放つ。
「だからもう一度、今度はちゃんと意識してその記録を出してえんだ」
慶介を見て和香は、何となく、戦地へ赴く兵隊はこんな感じの顔つきになっていたんじゃないかと感じた。もしくは獲物に狙いを定めた狩人か。あの入試の日は自分もこんな顔つきになっていたのだろうかとも一瞬考えた。
慶介のその視線は和香へ向けられたわけではない。むしろ、慶介の頭の中からはきっと和香のことなどすっかり抜け落ちている。完全に自分はカヤの外だ。
それでも、彼の決意を間近で聞けたことが和香は嬉しかった。
「今は調子いいの?」
「冬期しっかり練習積めたけど、地区インカレんときは仕上んなかったんだよなあ。けど、今はだいぶ感覚戻って来たから、上手くいけば久々に出るんじゃねえかと思う。そしたら自己ベスト万歳だしな」
今度は和香の方へ目線を向けて、とびきりの笑顔で慶介は言った。先ほどの何かに挑むような目つきではない。慶介がいかにレースを心待ちにしているかが、和香にもよく伝わった。
――やっぱり私とは違う
もちろん、出兵を控えた軍人とも。
――私はこんな風にワクワクしなかったもん。まあ、入試にワクワクするなんて変な人は世の中にいないだろうけど
やはり慶介はキラキラと輝いている。
「頑張ってね。応援してる」
眩しそうに目を細めて言った和香に、慶介は子どものように笑いかけた。
その笑顔に和香は完全に心臓を撃ち抜かれた。
彼を素敵だと思った。恰好良いと思った。面白い人だと思った。興味深かった。彼の考え方や行動に憧れた。
はち切れそうな想いを処理できず、どうにも抑えきれなくなった和香は、思わずその言葉を口にした。
「アラケーくん、私」
慶介の身体がゆらりと動いた。和香はそれに気付かなかった。
「アラケーくんのこ……っ!?」
何が起こったのか解らなかった。心臓が止まった心地だった。一瞬だけフワリと感じたものはシトラスの香り。
自分が慶介に抱きしめられているのだと気付くや否や、和香の心臓は、今度は爆発的に騒ぎ立った。デートの時に抱きとめられた時とも、コンビニエンスストアの陰でなだめられた時とも違う。和香の全身は慶介の全身で、余すところなく包みこまれている。離してもらおうにも、腕に力は入らないし声も出ない。
「ごめん。個人が終わるまでは正直言っていっぱいいっぱいなんだ。集中もしたいし、あんま構ってあげらんないし。それが終わったらちゃんと言うから……。もう少し待ってくれる?」
耳元で喋られるというのは驚くほどくすぐったいものだった。同時に、和香の全身に甘やかな痺れが走る。経験したことのない感覚に意識と身体が分離したような気分だった。
――抱きしめられてるのは私じゃない。こんなの感じるのは私じゃない……
ならば、とばかりに、現実逃避のようなことを考え必死で気持ちを鎮めようとするが、どうにもならない。
自身から湧きあがる熱情で熔解寸前まで追い込まれた和香は観念し、放してもらえるのを大人しく待つことにしたのだった。
(*)全カレ:全日本インカレ。
(*)地区インカレ:関東や東海や関西など、各地区で行われるインカレ。このお話ではどこの地区かは限定しないでおきます。「地区インカレ」という単語は、実際の会話の中ではあんまり使いません。……多分。