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彩雲  作者: 秋津島 葵
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第六話 知っていく―その1

 ようやく遊歩道を抜け、道路に出た。大通りではなく車通りも少ないが、コンビニエンスストアやレンタルビデオ店が煌々と営業しており、明るさも人気も充分な通りだ。

 コンビニエンスストアの入口近くで立ち止まった和香は、中腰になって息を整える。

 本当は、今すぐその場に座り込んでしまいたいほど膝は笑っており、頭痛もするし、喉や肺も痛い。それでも、さすがにこの場でへたり込むわけにはいかないという意識だけは働き、それを何とか堪えた。

 コンビニエンスストアから出てくる学生は、チラチラと和香の方を見ていく。

 そんな学生の内、一人が和香に声をかけた。

「和香ちゃん?」

 聞き覚えのあるその声に振り返ると、それは、Tシャツにハーフパンツ姿でリュックを背負い、コンビニエンスストアのビニール袋を提げた慶介だった。


 見知った顔が現れた瞬間に張り詰めていた気持ちが一気に解けた和香は、疲労に耐えきれなくなり、結局その場にへたり込んでしまった。それを見た慶介は、慌てて和香のもとへ駆け寄りしゃがみ込むと、彼女の顔を覗き込んで視線を合わせた。眉間にしわを寄せ、心配そうに和香を見やる。

「大丈夫?なに、どうしたの」

「や、あの……。バイト先で……自転車のサドルが……盗まれちゃって……」

「……え?」

「何とか自転車引きながら、歩いて帰って来た……ん……だけど……」

 和香はそこまで答えて口ごもる。

 呼吸がなかなか整わない上に、痴漢に遇ったことなど恥ずかしくて言えない。


 慶介は解せない様子で和香を見た。自転車を押していたと言っているのに、周りにそれらしいものは見当たらない。それに何より、和香の発汗量は尋常ではなく、心なしか身体も震えているように見える。

 俯いて黙り込んでしまった和香を労わりながら、慶介はそっとその肩に触れた。

「とりあえず場所移動しようか。立てる?」

 その言葉に和香は頷き、気の抜けた膝に手を乗せ重たい腰を何とか持ち上げると、ゆっくりと立ち上がった。

 そこまでは良かったのだが、一歩踏み出した瞬間に和香は膝から崩れ落ちた。今の和香には立ち上がることが精いっぱいだったのだ。体勢を立て直す余力など残っていない。身体が沈みこんでいく中で、和香は膝を強打する痛みを覚悟した。場合によっては、膝蓋骨が砕ける音も聞こえるかもしれない。


 けれども次の瞬間に和香の身体が感じたものは、二の腕を力強く掴んで引き上げられる感触で、聞こえたものは焦った慶介の声だった。

 間一髪のところで慶介に支えられた和香。

 腰と膝には全く力が入らず、慶介の両腕にすがりつくようにして何とか体勢を保つ。そうして、そのまま彼を見上げた。顔をゆがませた慶介は、和香に掴まれている腕に少し力を込める。筋肉がぴくっと動く。

「頑張って」

 慶介はそういうと身体を屈めて和香に肩を貸した。

 和香が慶介の肩に腕伸ばすと、彼は同時に和香のわきの下へ手を入れ彼女を軽く持ち上げる。そうして何とか店舗の陰へと移動した。


 和香の足はフワフワと少しだけ地面から浮いており、ほとんど慶介に運ばれたようなものだった。それでも、学生街の店の前であのような状態でいるよりはいくらかましだ。ラブシーンのような場面を、大して仲良くない顔見知りに見られてしまえば、どんな噂を立てられるかわからない。

 店の外壁に凭れかかるようにして和香は座らされた。慶介のぬくもりが消えてしまうのが怖い気がした和香は、自分の正面に回って来た慶介の腕にしがみつく。和香のその行動に驚き、目を丸くした慶介だったが、すぐに眉の晴れるような笑顔をこぼすと、そのまま彼女の背中に手を回した。そうしてゆっくりとしたテンポで、優しく背中を叩き続けた。


 しばらく慶介の体温を感じているうちに、錯乱していた和香の意識は少しずつ正常に戻って来た。同時に、蒸し暑い気温とは裏腹に冷え切っていた和香の体温も回復する。

 いくぶん落ち着きを取り戻した和香だったが、けれどもそれは裏目に出ることになった。冷静な思考ができるようになった瞬間に、先ほど自分が慶介にせがんだことをはっきりと意識してしまったのだ。さらに困ったことには、先日のデートのことまでも思い出だす始末。

 和香の心には多種多様な恥ずかしさが湧きあがった。

 急騰した身体の熱に耐えられなくなった和香は、ボン!と音を立てて頭からその熱を噴出する。全身は蒸発寸前。けれども慶介はそんな和香の様子には気付かない。


 羞恥心に押しつぶされそうになった和香は、優しくしてくれた慶介への礼もそこそこに何とかその腕から出ようと試みるが、上手くいかない。和香にとっては“火事場の馬鹿力”が発揮されてもおかしくないほどの非常事態だったのに、身体が熱くなっただけで力は一切入らなかった。

 百歩譲って、遊歩道で痴漢に遭った時に馬鹿力の方は発揮されていたのだろうと考えてみる。なにしろ、人生最大のスピードで逃げ出したのだから。

 それでも、大して力の入っていない慶介の腕から出るための力すら出せないほど自身が疲労困憊なのかと思うと、それはそれで情けなかった。


 和香が少し動いたのを腕に感じた慶介は、身体を離すと和香の顔を覗き込む。これ以上ないくらい彼を意識している和香に対して、慶介はそんな様子は一切見せない。ただ、心配そうに彼女をを見続けるだけだった。和香は、嬉しいような悔しいような申し訳ないような、むしろそれら全ての感情が混ざり合った、複雑な気分だ。

 慶介は和香の顔を無表情でじっと見つめながら何かを考え込んでいたようだが、やがてゆっくりと口を開いた。

「和香ちゃんちって椿町だったよなあ」

「え?うん」

 短い会話のあと、少しの沈黙が続く。

 その間不安げに慶介を見上げ続ける和香に対して、彼は、今度は唇をかんだり眉を寄せたりしながら、忙しなく目線を泳がせていた。

 そうしてまたしばらくすると口を開く。

「とりあえず、俺んちそこだからくる?そんなんじゃ椿町まで行けないだろ?」

 慶介は、コンビニエンスストアの裏を指差した。


――何か、それはさすがに……

 戸惑った和香の様子を見て、さすがにまずかったかと慶介は思った。アクシデントがあったとはいえ、年頃の女性が一人で年頃の男性の部屋へ行くというのは、少々考えるところがある。

 それでも慶介は、和香をどうしても放っておけなかった。

「変な意味で言ったんじゃないよ。体力回復するまで休めばいいと思っただけで。送ってくにしても、和香ちゃん足腰立たなくなってるし」

 いくらか落ち着きを取り戻したとはいえ、和香が足腰立たなくなっているのは事実だ。むろん、それ以上に気恥ずかしさと申し訳なさで胸がいっぱいなのではあるが。

「でも、こんな風に付き合わせちゃった上にそんなのって……。それに、アラケー君、あんまり遅くなるとダメなんじゃ」

「大丈夫だよ。日付変わる前に寝れれば。明日はフリーだから軽く動くだけだし」 

 そう言って屈託なく笑った慶介。

 慶介の笑顔に、和香の中で渦巻いていた様々な感情はすっと薄くなった。確かに今すぐに歩いて帰ることができるような、元気も勇気も今はまだない。

――少し休憩させてもらって、元気になったら明るい道通って走りながら帰ろう……。今度、お礼をちゃんとしなくちゃ

 和香は、素直に慶介の好意を受けることにしたのだった。

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