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彩雲  作者: 秋津島 葵
10/16

第五話 憧れるもの

「はい、和香ちゃん。これ五番さんね」

「はあい!」

 大将の声に返事をし、和香はトレーの上に乗せた定食を運ぶ。

「お待たせいたしました!刺身定食です!」

「おう!和香ちゃん。今日も元気だね!」

 なじみの客に声をかけられた和香は笑顔で返事をした。

「はい!高田さんも今日も一日お疲れ様でした!」

 和香の張りのある声に、高田と呼ばれた中年男性も笑顔になった。


 和香は、学童クラブだけでなく、定食屋でもバイトをしている。店の主人とその妻の二人で切り盛りしている、個人経営の小さな定食屋――ますみ屋――だ。

 大学周辺の飲食店街からは少々外れたところにあるが、車を所有している学生や昔からの常連客が多く通うので、つぶれる気配はない。大将も女将もとても朗らかで良い人だ。両親よりは祖父母に近い年齢で、二人も和香のことを孫のように可愛がってくれる。


 閉店し片付けも一通り終えた和香は、まかないをごちそうになる。

 ご飯と味噌汁、アジの塩焼きと、冷奴と筑前煮。どれもこれも素朴な味付けで、まさに“田舎の母親の味”と表現するに相応しいものだ。

 大将と女将と三人でまかないを食べる時間が、和香は大好きだった。

 一人暮らしをしているので基本的には食事は一人。けれども一人で食べる食事は、どんなに美味しくできたものでも何だか味気ないし、何より寂しい。

 家族で食卓を囲むことは重要だったのだと大人になって初めて理解し、ますみ屋で働くようになって改めてそれを実感したのだった。


 店の隅のテーブルで、三人で向かい合ってまかないを食べた。

「和香ちゃん。今日はケーキがあるのよ」

 一通り食事を終えたところで、女将は立ち上がるとそう言って冷蔵庫のある厨房の方へ向かった。店側と厨房は、壁やドアではなくカウンター――と言えるほど洒落たものではないが――で仕切られているので、席からよく見える。

「え!?おじさんかおばさん、どっちか誕生日ですか?」

「いいえ。今日はね、決意した記念日なのよ」

 ケーキの箱を取り出しながら女将は言った。

「決意した記念日?」

 和香は興味津々と訊き返す。

 大将はテレビを見ながら、我関せずの表情で緑茶をすすっていた。


 ケーキの箱、取り皿三枚、フォーク三本を盆に載せて席へ戻って来た女将は

「そう、私が人生の決断をした日よ」

 箱を開けながらそう言うと、懐旧の情を含ませて目を細めた。

 何だか面白そうな話が始まるような気がして、和香の瞳は輝く。

「いつもは花を買ってきて飾るだけなんだけどね。今年は和香ちゃんがいるから、一緒に食べたいと思ってケーキにしたのよ。こういう日でなければ、もうこんなものを食べることなんてほとんどないからね」

 弾ける笑顔とともに、嬉しいですと明るい声を響かせた和香に対して、大将は相変わらずしらっとテレビに目を向けたままだった。


 箱の中に入っていたのは、モンブランにショートケーキにチョコレートケーキ。こったものではなく、ごくシンプルなものだった。

「色々あったんだけれど、よく分からなくてね。こんなものでごめんなさいね」

 女将は小皿にケーキを載せながら困り顔で笑う。

 和香は慌てて身を乗り出した。

「そんな!私がお二人のお祝いに混ぜてもらえるだけでも嬉しいのに、ケーキまでもらってるんですから!それよりもその決意の話を聞きたいです。慣れ染めとか!」

 和香の勢いに少々驚いた顔をした女将だったが、照れた笑顔になって言う。

「慣れ染めって言っても大したものはないのよ。私はずっとこの人に憧れていてね。子どものころからよ」

「幼馴染ですか?」

「そんな感じかしらね。この人の方が二年上だけれど。それでね、お義父さんは料理人だったから、この人も父親のようになりたいってずっと言っていたの。だからそのための勉強をするんだって。私はそのまっすぐな瞳が大好きでね」

 ゴホンと一つ大きな咳払いをした大将は、ショートケーキとお茶をお盆の上に載せると、それを持って足早に厨房の方へと消えて行った。それを横目でチラと見た女将は、和香の前に座る。

 それから、和香と女将は顔を見合わせてクスクスと笑い合った。

 残ったチョコレートケーキとモンブランをお互いに半分ずつ食べようと話した。

 

 ケーキを食べながらお茶を飲む。そうして女将は話を続ける。少女のような顔ではにかみながら、けれども嬉しそうに話をする女将はとても愛らしかった。

「それでね、絶対に日本一の店にするから、一緒にそれを見届けてほしいって。婚姻届を持って言いに来たのよ。私は小学校の先生になりたかったから大学へ行きたかったのだけれど、それ以上に、あの人の料理に対する情熱に憧れていたからね。それを込みで好きだったのよね。だから、あの人について行って見届けるという道を選択したのよ」

 女将は再び大将の方へ目を向けた。

 大将は女将と和香の方へ背を向けながら、厨房の調理台をテーブル代わりに使いケーキを黙々と食べている。

「それから私も調理師免許を取ったの。周りは裕福な生活をしたり、色々な新しいことや楽しいことをしていたみたいだけれど、私たちは必死でお店を作って料理の勉強をしていた。決して裕福ではなかったけし、思い悩んだこともあったけれど、それでも幸せだったわ。そうして今のこのお店があるのよ。大きな店ではないし、日本一なんてとても言えないけれどね」

 最後は少しだけ体裁の悪そうな言い方だった。

 けれども和香はそんなことは気にならず、途中からケーキを口へ運ぶのを忘れていた。ただただ、目を細める女将に見惚れ、話に聴き惚れていたのだった。

「婚姻届を出したのはもう少し後だったのだけれど、私がついて行くと決めて判を押した日が今日なのね。だから、今日を記念日にしてるのよ」


 話を聴き終わった時には、和香の中にじわりと温かい気持ちが広がった。お腹の奥から穏やかな熱が出てきたようで、その熱は和香の全身を巡り心も身体もほぐすものだった。

 ケーキはとても甘かったが、女将の話は甘いだけではない。

 相手を想って一途について行くという甘さの中にも、――思い悩んだという一言で片づけてはいたが――酸っぱいことも、苦いことも、辛いことも、たくさんあっただろう。

 けれども、そんな味も全て抑え込んでしまえるほど、女将の大将への気持ちは大きなものだったのだろうと思う。

 もしくは、大将と一緒にいれば全ての味が全く気にならなかったのかもしれないし、それらがスパイスとして引き立つくらい満ち足りた日々を送っていた――もしかしたら今でも送っている――のかもしれない。


「私も、そんな風になりたいです」

 和香は希った。

「あら、和香ちゃん誰か良い人が出来たのかしら?」

 茶目気たっぷりに笑った女将にそう言われ、和香は俯きながら小さく答える。

「あ!いえ、あの……。好きな人は、出来ましたけど……」

「そう。結ばれるといいわね」

「……はい」

 穏やかに微笑んだ女将に、和香は気恥ずかしそうに答えた。

 



 楽しい食事とデザートと恋の話で胃袋も心も満たされた和香は、これ以上ない極上の気持ちで店を出ると、その横の自転車置き場へ向かう。けれども、自転車の鍵を解錠しようとしたところで、和香は何やら違和感を覚えた。

――あれ?この自転車、何かが足りないような

「……って、あああ!」

 和香の叫び声は珍しく通りかかった車のエンジン音にかき消された。

 ぴたりと動かなくなった和香はじっと自分の自転車を見つめる。初めは暗がりでぴんとこなかったのだが、よくよく見れば自転車のサドルがないのだ。

「な、なんでサドルだけ……」

 自転車そのものではなくサドルだけ盗んでいくなど、何とも奇特な犯人だ。ポカンと口を開けたまま和香はその場に立ち尽くす。

「どうしよう……」

 呟いてはみたが、家へ帰らなければならない事実は変わらない。

 気落ちした和香はさすがに乗って帰る気にはなれず――常に立ち漕ぎをしなければならないので――、自転車を押して歩いて帰ることにしたのだった。


 がっくりとうなだれ、トボトボと自転車を押しながら歩く。

 せっかく素敵な話を聞き、今日は心地く眠れそうだと思っていたのに、気分は一気に暗転した。憤りなどではなく、とにかく無力感とに襲われた。

――サドルのない自転車なんてマヌケもいいとこだよ

 かつてない衝撃に見舞われた和香は、何も考えることができなくなっていた。だから、いつもならばこの時間は大通りを通って帰るのに、遊歩道の方へと向かってしまった。

 遠くでは車のエンジンの音が響き、近くでは蛙の大合唱が響く。

 樹が生い茂っている遊歩道にはところどころ林のようになっている部分があり、一般道と比べるといくらか蒸し暑さは少ない。街燈は電球が切れているものが多く、ほの暗いスポットをわずかに作っているだけで、その存在にはあまり意味がない。


 ふと、前から自転車に乗ってくる人影がぼんやりと見えた。ライトを点けていないのではっきりとは解らないが、身体は大きいように見える。

――ライト点けないと危ないよ

 呑気に心の中で注意をした和香だったが、自転車に乗ったその人物とすれ違う瞬間、胸を鷲掴みされた感触と同時に、ぐっとした痛みを感じた。全身に激震が走り全ての思考が停止する。一切の神経が遮断された気分になった和香は、一瞬その場に立ち尽した。


 「まずい!」とすぐに気を持ち直した和香は、さっと振り返る。すると、少し進んだ先で自転車を止め、同じように振り返り和香を見ている人物と目があった――ような気がした――。灰色のシルエットにしか見えないが、何となく男性だろうとは思う。年齢までは判らない。

 和香の背筋には悪寒が走り全身に鳥肌が立つ。するとその人物は、同じタイミングでゆっくりと自転車を方向転換させ、ペダルに足をかけた。それにはさすがに頭の中にスクランブルがかかった。和香は自転車のハンドルを離し勢いよく元の方向へ向き直ると、全力で走りだした。

 いつもは季節の花や木を観賞しながら気持ちよくジョギングするこの道も、今の和香にとっては、恐怖を煽られるものでしかない。

 息が切れる。心臓が痛み出す。肺も痛み出した。暑さは感じなかった。

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