第一話 見つけたいもの―その1
――楽しいよ、陸上
そう言った慶介の笑顔は、日々をただのんびりとふわふわと生きてきた和香にとっては、眩しすぎるものだった。
ことの起こりは、五月も中旬を過ぎた頃だった。
強くなり始めた日差しは肌にとって大敵だ。それでもせっかくいい天気だからと外で昼食を済ませた周防和香は、友達の牧原優子とベンチに並んで座り、食後の一服をしていた。たばこではなくコーヒーである。
食堂の自動販売機で買った紙コップのそれは大して美味しいものではない。けれども、萌葱色になって久しい桜の木がさわさわと揺れる音を聞きながら嗜めば、爽やかな陽気にある程度はごまかされてしまう。味はさておき、大好きなコーヒーの香りとその音に包まれて過ごすことができれば、次の講義も頑張って受けようという気にもなる。
そこへそろそろと寄って来た同じ学科――人間科学部・心理学科――の斉藤結衣が二人に持ちかけた話。それが、和香の心にかすかな焦りをもたらした原因の根だった。
結衣は、同じ大学の体育科学部にいる高校時代の同級生に、「女の子と飲みたいから集めてくれ」と言われたのだと言う。その彼と結衣は、同じ中学から同じ高校へ進み部活――陸上競技部――まで同じで、さらに大学まで同じという、まさに腐れ縁なのだそうだ。今現在は学部も違い、結衣が陸上競技部にも所属していないので、ほとんど顔を合わせることがないようではあるが。
「和香ちゃんの方は、そういうのあんまり好きじゃないの分かってるんだけど……。大見え切っちゃった手前、後に引けないのよ。大げさな合コンってわけでもないし、お願い!」
頭の上で両手を合わせた結衣は、そのまま和香に向かって頭を下げた。
確かに和香は、そういった類のものがあまり好きではない。とはいえ、入学したばかりの頃には、付き合いも大事だろうとできるだけ参加するようにしていた。けれども、何となく見え隠れする様々な下心に疲れを感じてしまい、夏休みを過ぎたあたりからは誘われても全て断るようになったのだ。
そうなれば当然、次第に友達も和香をそういった集まりには誘わなくなる。そうして一年が終わる頃には、一切声をかけられることがなくなっていた。
和香はそれにほっとしていた。それなのに。
「何で、どうして私まで?」
体育科学部の男子といえば学内の人気ナンバーワンだから、わざわざ断る可能性の高い私まで誘わなくてもいくらでも人数集まるはずなのに、と思う。
困って訊いた和香を、ばつの悪そうな顔で見つめた結衣は
「実はさ、売り言葉に買い言葉っていうか……」
そう言って、ヘラっと笑ってみせた。
そんな結衣に対して、今度は優子が横から口を挟む。
「何それ。結衣、何言ったの?」
「いやあ……。とってもくだらなくて申し訳ないんだけど、『女の言う可愛いは信用できない』って言われたから、じゃあ上玉揃えてやるってタンカ切ったの」
呆れた声で言われた結衣は、苦笑いをして答えた。
結衣は手で軽く和香を押すと、その隣に並んで座る。押しのけられた和香が少し腰を浮かせて座る場所を横にずらせば、それに合わせて優子もずれた。
優子と結衣に挟まれた和香は、
「そういう理由で声かけてもらえたなら、もちろん悪い気はしなけど、優子はともかくとして私はだめだと思うよ。未だに高校生に間違えられるんだから」
そう言うと、軽く溜息を吐いた。
和香は自他共に認める童顔だ。
虹彩の割合が高く黒目がちな二重の瞳は気に入っているが、その他の、ダンゴッパナ、低い身長、丸型の顔の輪郭はあまり気に入っていない。なぜなら、それらが原因で初対面の人には年相応に見てもらえないから、である。三人並んで座っている今だって、“デコボコデコ”で真中だけ――和香だけ――くぼんでいるのだ。
今年は二十歳。年明けには成人式が控えているというのに、振り袖を着たらきっと七五三だ。セーラー服とスーツとどちらがより似合うかといえば、確実にセーラー服だ。
大人の女性を目指して、前髪を伸ばしたりパーマをかけたり、すっきりとした目元になるようなメイクをしたりと、自分なりの努力はした。それなのに、何をどう頑張ってみても、大人に憧れて背伸びをしている高校生にしか見えなかった。ヒールの高い靴を履いてみても、どうにも自分の足には合わなかった。
年より若く見られるということは、それはそれで一つの才能であるし、女性にとっては悪いことではない。
けれども、はっきり言ってそれは二十代後半あたりからだと和香は思っている。
二十歳そこそこで年下に見られるということは、イコール「幼い」と言われているということだ。和香にとってはあまり嬉しいものではない。
自身で言った言葉に自身が打ちのめされてしまっている和香を慰めるように、優子がポンポンと彼女の肩を軽く叩いた。
優子は、和香とは対照的に大人びた顔立ちの美人だ。身長は平均より少し高い程度だが、ゆるやかなアーチを描いている瞳に、通った鼻筋、すっきりとしたフェイスライン。顔のパーツ全てがそれぞれ絶妙にバランスを取って、卵型の顔の上に存在しているのだ。そんな彼女を入学式で見た瞬間に一目惚れした和香は、絶対にこの子と友達になろうと誓ったのだった。
結衣にいたっては、高い身長に長い手足を持ち合わせたモデルのような体型。事実、街でスカウトされたこともあるという。中学、高校で陸上部に入っていた時には走高跳をしていたと聞きけば、誰でも納得する。ただ、ネコ目で気の強そうな顔立ちをしているために、残念なことに、初対面だと少々とっつきにくい。けれども一方では、意外と小心者だったり抜けていたりして、「そのギャップがまた良い」と言う男性も多いのだと、和香は優子から聞いている。
「いいじゃない。可愛いいんだもん」
「大丈夫よ。和香ちゃんは可愛いから!あんまりそういうの興味ないかもしれないけど、男子に人気あるのよ?うちの学科あんまり男子いないけど」
優子と結衣に両側からそう言われたが、和香は
「二人は大人顔だし、ちゃんと大学生に見られてるから童顔の気持ちなんてわかんないんだよお。その『可愛い』だって、動物を可愛いっていうのと同じ意味合いでしょ?学童クラブに来てる子どものお母さんに、『この辺の高校なの?』って言われた時のむなしさと言ったら……」
そう答えてしょんぼりと下を向いた。
「そんなことないよ!ちゃんと男子に調査したんだから!」
結衣がはりきって答えれば
「でもそれって、結局男子目線じゃない?」
言葉の出ない和香の代わりに優子が返した。
「まあ、そうやって言ってもらえるのはもちろん嬉しいんだよ?自信にもなるし。嬉しいんだけどさあ……」
優子に続いて和香はそう答えたが、それでも、どうにもならない自分の童顔さに対する苦々しい気持ちは抜けない。
「和香はもっと自分に自信を持った方がいいわ」
「いや別に自信がないわけじゃなくて……」
煮え切らない和香は、優子のエールにも言葉を濁した。
決して自分を卑下したり惨めに思ったりしているわけではないが、二人と比べてしまえば自分は確実に“子ども”であり、幼さは抜けきらない。女友達からこそ「かわいいなあ」と言われたことは多々あれど、高校時代に少しだけ付き合っていた彼を除けば、不特定の男性からそういった言葉をかけられたこともない。
彼氏が自分の彼女を可愛いと感じるのは至極当然のことで、高校時代に付き合っていた彼も同様に、和香のことを褒めてくれていた。しかしそれ以外は一切ない。
もちろん、大学に入学してからも男性から好意を寄せられたことはないし、“いい感じ”になったこともない。
だいたい、芸能人をとってみても、女性から人気のあるタレントは男性からはそれほど支持されなかったりするのだ。もちろん、逆もまた然り。和香とて、ただ単に楽しく飲みましょう、という程度のお誘いであれば、ここまでうだうだと悩むこともなかった。けれども、言ってみれば“男子から見た可愛い女子限定”という制限がかかっているのだ。
だから和香は、自分が参加したところで「やっぱ女の可愛いは信用できねーじゃねーか」と言われるのがオチなのではないだろうか、と思う。
それに、――どちらかと言えば人懐っこい性格ではあるものの――やはりああいった雰囲気の空間は苦手だ。
去年は良く分からないうちに参加しながら、のらりくらりとかわしてきた。けれども、半年ほど経てば大学生活の要領は見えてくる。そうして、見えてくれば何のことはない。参加しなくても何も構わないということに気づいてからは、全力で避けるようにしていた。
和香は自分の思いの丈を必死にぶつけて何とか諦めてもらいたかった。
けれども、土下座をしようかという迫力の結衣に頼みこまれ、視野を広げる為に参加した方がいいという優子の熱のこもったような意見に押され、友達にそこまでされて断るわけにもいかなくなってしまった。
そして結局、その飲み会に参加することになってしまったのだった。