8/16「あの頃、イチさんの店」
ぼくはひさしぶりに、自宅の近くにあるイチさんの居酒屋に行った。
ここしばらく、店が開いている時間には帰れなかったのだ。
「で、いまはどこで遊んでるわけ」
「働いてるんだって」
「ふーん」
拭き終わったお皿を戸棚にしまいながら言う。
「ちょっとは顔がしまってきたし、ほんとみたいだね」
「おれはウソついたことないよ」
「ウソつきはみんなそう言うんだよ」
「根性、曲がってる……」ぼくは小声で言った。
「そうだよね」
隣りにすわっているアサミが助け舟を出してくれた。
ここで二年くらい前から見かけるようになった女性だ。
「イチさん、曲がりきってるよ、あたしたち素直だもん」
アサミはぼくと同い年だ。
離婚を経験していて、いまはある事務所の仕切り役をしているという。
ここでイチさんとやり合ったり、ぼくをはじめ数人のよく来る人間と話すのが楽しみで来ている。
最初は生意気なやつだなとお互いに思っていて、ケンカみたいになったりした。
時間が経ち、話が合うことがわかって、ときどき味方になる。
「あんたらは勝手につるんでればいいんだよ」
すごく不機嫌みたいだが、イチさんはこれが普通なのだ。
アサミとぼくがなんとなく敬遠し合っていた時には、あんたはこっちに座りなさいと言って席を並べさせたりしていた。
そういう親切をする時のほうが、かえってヘンに見えたりする。
はじめのころ、ぼくはこんなことを言った。
「このトシになると、友だちがほしいよな」
彼女がそうだねと返事をしかけたら、反対側の隣りから踊りのお師匠さんが茶々をいれた。
「またこの人は、これが手なんだよ、こういう手練手管で近づくんだから、あんた気をつけなさい」
イチさんも加わった。
「そうだよ、女なんて何人いるかわかんないんだから、この人は」
ひどい色事師のような言われ方で、光栄かなと思った。
彼らは、ほんとうに気に入らない客にはこういう言い方はしない。
アサミがどこまで本気にしたかは、わからなかった。
ぼくがアサミを口説いたことはない。
彼女はなかなか魅力のある女性だと思うけれど、イタリア人ではないし、だから口説くということはない。
それに、彼女に色恋ざたを仕掛けたら、せっかくの友だちを失ってしまうのではないだろうか。
友だちがほしい……自慢はできないが、ぼくは本当に正直なのだと思う。
話はいまに戻って、ぼくはアサミがぼやくのを聞いている。
「もう四月だよ、あたしこうやってひとりでトシとっていくのかなあって思うよ」
「おれでよければおれでもいいけど、いまゼニないしな」
正直すぎる会話だが、いつもこんな感じだ。
「あんたは、かわいいおねえちゃんが一杯いるんでしょうよ」
「いや、そういうのは、もういい」
イチさんが割って入る。
「もういいって、かわいくないねえ、この人は。若い女には飽きたから、かわいくないあんたがいいんだってよ」
「かわいくない同士でちょうどいいじゃん」
「いや、そうは言ってないけど」
ひとが聞いたらどう思うかはわからないが、少なくともぼくは楽しい。
無邪気な会話といえるだろうか。
(おれが多少やさしくたって、おまえに対して何の力にもなれないよな)
(そこにいてくれるだけでいい、いつもそう言われたけど、それがおれを辛くさせてたんだ)
(おまえがいつか終わらなきゃって言った時に、もうその時は来てたんだな)
(きっと、ありがとうって言葉も余計なんだ、おれはバカだから、つい言いたくなるけど……)
そんなふうにぼくは考えた。誰かに向けて。
イチさんの話はこれが最後かな?
『ファレノプシス 〜夢の更新 Phase4 終幕〜』
18日(火)「9 父のビシソワーズ」、19日(水)「10 聖夜の前に」
それぞれ21:00に投稿!




