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第8話「喋る猫」

 コンコン。


 その日もサヤは退勤後、グレーテルの家を訪ねていた。



「……」



 返事がない。



「……あれ?」



 首を傾げる。



「いないのかな……?」



 ドアノブに手をかける。


 ガチャ。


 開いた。



「え」



 思わず、小さく声が漏れる。



(鍵、かかってない……)



 一瞬、迷って。



「……お邪魔します……?」



 そっと中に入る。


 部屋は静かだった。


 人の気配がない。


 その代わり。



「にゃー」



 小さな鳴き声。



「あ、エイル」



 黒猫がこちらを見ている。



「エイルだけか……」



 少しだけ、安心する。


 そのまま部屋に上がる。



「グレーテルさん、どこ行ったんだろ……」



 きょろきょろと見渡す。


 返事はない。


 静かだ。



「珍しいな……いないなんて」



 ぽつりと呟く。


 エイルが近づいてくる。


 足元にすり寄る。



「どうしたの?」



 しゃがみ込んで、撫でる。


 やわらかい毛並み。



「にゃー」


「寂しかった?」



 くすっと笑う。



「……まあ、私もちょっとだけ寂しかったかも」



 なんとなく、そんなことを口にする。



「……あの人いないと、なんか変な感じ」



 ぽつり。


 エイルの耳が、ぴくっと動く。



「……静かすぎるし」



「……うるさいわね、あんた」


「……え?」



 手が止まる。


 空気が、止まる。



「……今の」



 ゆっくり顔を上げる。


 部屋には、自分しかいない。


 視線を落とす。


 黒猫と、目が合う。



「……」


「……聞こえてるでしょ」


「っ!?」



 思わず後ずさる。



「え、ちょ、え、え……!?」



 言葉が崩れる。



「い、今……喋った……?」


「さっきからずっと喋ってるじゃない」


「いやいやいやいやいや!!」



 慌てて首を振る。



「私しか喋ってなかったよね!?!?」


「ほんと鈍いわね」



 エイルは当然のように座る。


 しっぽをゆらす。



「な、なんで……!?」


「猫、だよね!?」


「見て分からない?」


「分かるけど!!」


「そういうことじゃなくて!!」



 頭が追いつかない。


 でも。


 目の前で。


 “猫が喋っている”。



「……あ、あの」



 恐る恐る口を開く。



「グレーテルさんは……今……?」


「薪取りに行ってる」


「……そ、うなんだ」



 あまりにも普通の返答に、逆に混乱する。



(いや、待って)


(猫が普通に会話してるのが一番おかしい……)


「……っていうか」



 ふと顔を上げる。



「なんで普通に答えてるの……」


「質問されたからでしょ」


「いやそうだけど!!」



 思わず声が大きくなる。


 エイルは少しだけ耳を動かす。



「うるさいわね」


「……っ」



 ぐっと言葉を飲み込む。


 そのとき。


 エイルが、じっとこちらを見る。



「ところで」



 少しだけ声のトーンが変わる。



「あんた」


「最近、あの男と仲良くしてるみたいだけど」



 心臓が、どくんと鳴る。



「どこまで関わる気なの?」


「……え?」



 思考が止まる。



「な、なにそれ……」


「そのままの意味よ」



 視線を逸らせない。



「あんたも気づいてるでしょ?」


「……」



 思い出すのは――


 あの、迷いのない指示。


 的確すぎるヒント。


 一言で状況が変わる瞬間。



(……普通じゃない)



 用務員は、本来。


 そんな風に現場に関わらない。



(それなのに……)


「……いつも」



 ぽつりとこぼす。



「的確なヒント、くれるんです」


「用務員なのに」


「勝手に現場に入ってきて」


「でも、それで助かってて……」



 一瞬、言葉を探す。



「……ただの用務員じゃない、って」



 小さく言う。


 エイルが、わずかに目を細める。



「……まあ、間違ってないわね」


「でも、それだけじゃない」



 しっぽがゆらりと揺れる。



「簡単に言うと」


「昔は、天才って呼ばれてた」


「今は、ただの逃げてる人間」


「それ以上は、自分で確かめなさい」


「……っ」


「で」


「あんたは、その“途中”にいる」


「……途中?」


「戻るか」


「そのままやめるか」


「あんた次第ってこと」



 言葉が、重い。



「だから聞いてるの」


「どこまで行くつもり?」



 逃げ場はない。



「私次第って……」


(そんなの、重すぎる)


「どういうこと、ですか……?」



 ガチャッ



「勝手に入るな」


「っ!」



 振り返る。


 グレーテルが立っている。


 片手に薪。



「グ、グレーテルさん……!」


「鍵、閉めてなかったのか」



 淡々とした声。


 エイルを見る。



「……」


「大丈夫よ」


「私が入れたの」



「……今」


「……喋ったか?」


(……こいつが、他人の前で?)



 エイルは、当然のように答える。



「前から喋ってるでしょ」



 沈黙。


 グレーテルの視線が、ゆっくりとサヤに向く。



「……お前」


「何か、聞いたか」



「……は、はい……」



 ぎこちなく頷く。


 少しの間。



「……なに余計なこと話した」



 低く言う。



「別に」


「ただ、ちょっと質問してただけ」



 空気が張り詰める。


 グレーテルの視線がサヤに向く。


 一瞬、迷うように。



「……すまないが」


「今の話は、忘れてくれ」



 わずかに、視線が揺れる。



「……え?」



 サヤは少し戸惑う。



「……分かりました」



 小さく頷く。


 玄関へ向かう。


 扉の前で立ち止まる。


 振り返る。


 グレーテルはもうこちらを見ていない。


 エイルだけが見ている。


 何も言えずに扉を開ける。


 外の空気が冷たい。


 扉が閉まる。


 静寂。



(……私次第って、なに)


(あの人の人生を、左右するってこと……?)



 胸の奥に、言葉だけが残る。

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