第6話「沈黙の診断」
夕方。
業務終了の鐘が鳴る。
ナースステーションに、わずかな緩みが生まれる。
「お疲れ様でした」
淡々とした声。
ラーナは、誰よりも早く白衣を脱いだ。
(今なら)
無駄のない動きで外へ出る。
冷たい空気の中、迷いなく敷地の端へ向かった。
――あの家。
灯りが、ついている。
(やっぱり)
ノックはしない。
そのまま扉を開ける。
中は、暖かかった。
シチューの香りが、ふわりと広がる。
「……勝手に入るな」
低い声。
奥に、男。
長い髪に無精髭。肩には黒猫。
「用務員にしては、いい環境」
ラーナは淡々と言う。
「……用件は」
「確認」
一歩、踏み込む。
「今日の患者」
グレーテルは答えない。
「酸素不足。潜在的な呼吸低下。
バイタルでは判断できないレベル」
視線をまっすぐ向ける。
「どうやって気づいた?」
沈黙。
「……勘だ」
「嘘」
即答。
「再現性がないものは、医療じゃない」
グレーテルは、小さく息を吐いた。
「……面倒だな」
「よく言われる」
間を置かず、ラーナは続ける。
「質問を変える」
一歩、近づく。
「あなたは誰」
空気が張り詰める。
エイルが、じっとラーナを見る。
「……ただの用務員だ」
「違う」
即答。
「現場を見ていない人間の反応じゃない。
経験がある。それも――かなり上」
沈黙。
グレーテルは、わずかに視線を逸らす。
「……お前には関係ない」
「ある」
「患者に関わるなら」
その言葉に、ほんの一瞬だけ――
グレーテルの表情が揺れる。
だが、すぐに戻る。
「……深入りするな」
低い声。
「それは忠告?」
「……さあな」
曖昧な返答。
ラーナは、それ以上踏み込まない。
「……分かった」
(逃げた)
と、ラーナは判断した。
背を向ける。
扉の前で、足を止める。
「でも」
「私は止まらない」
振り返らずに言う。
扉が閉まる。
⸻
静寂。
エイルが、尻尾をゆらりと揺らした。
「……めんどくさい子ね」
「そうだな」
短い返事。
「でも」
くすっと笑う。
「どっかのめんどくさい子より、ずいぶん冷たい態度だったように見えたわよ?」
沈黙。
グレーテルは、わずかに眉をひそめる。
「……気のせいだ」
「ふーん?」
楽しそうに目を細める。
「分かりやすいわね」
「……何がだ」
「本命、別にいるでしょ」
「……うるさい」
視線を逸らす。
窓の外。
雪が、静かに降っていた。
⸻
夜。
寮へ向かう道。
吐く息が白くなる。
「はあ……寒い……」
サヤは肩をすくめながら歩いていた。
ふと、足を止める。
見慣れた灯り。
「……グレーテルさんの家」
少し迷ってから、小さく呟く。
「……ちょっとだけ」
足が、そっちに向いた。
⸻
扉の前。
「……すみませーん」
軽くノック。
反応はない。
「いないのかな……」
手をかけた、そのとき。
ガチャ。
「開いてる……不用心だな」
「すぐ戻るつもりだったからな」
「うわっ!?」
すぐ後ろ。
振り返ると、至近距離にグレーテルがいた。
「グレーテルさん……!」
「勝手に入るな」
「すみません……」
距離が近い。
一歩下がろうとして、足を滑らせる。
「っ……!」
腕を掴まれる。
「危なっかしいな」
「す、すみません……」
顔が近い。
ふわりと、あの匂いがした。
(……また)
一瞬だけ、呼吸がほどける。
(やっぱり……ちょっと、かっこいい)
(……近いと、ずるい)
前にも思ったはずなのに。
この距離だと、余計にそう感じる。
整った顔立ち。
静かな目。無駄のない動き。
ほんのわずかな表情の変化だけで、心臓が跳ねる。
「……立てるか」
「……あ、はい!」
体勢を戻す。
――でも。
手は、まだ離れていない。
外の冷たさと違って、その手は少しだけ温かい。
(なんか……)
(落ち着く……)
無意識に、少しだけ距離が近づく。
「……どうした?」
少しだけ意地の悪い声。
「……さ、寒いから!つい!」
思わず言い訳する。
「……そうか」
グレーテルは、わずかに目を細めた。
「なら、入るか」
「え、いいんですか!?」
「外にいるよりはマシだろ」
⸻
家の中は暖かかった。
シチューの香りが広がる。
「うわ……いい匂い……」
「座れ」
「はい!」
ソファに腰を下ろすサヤ。
ロッキングチェアにはグレーテル。
少しだけ近い、いつもの距離。
⸻
「今日、どうだった」
「えっと……」
少し考えてから。
「ちょっと怖かったです」
「何が」
「患者さん、急に状態変わって」
「……ああ」
「でも、みんなで気づけて」
少し笑う。
「よかったな」
短い言葉。でも、優しい。
⸻
「グレーテルさんって」
「ん?」
「やっぱりすごいですよね」
「……何が」
「見ただけで分かってたじゃないですか」
少しの沈黙。
「たまたまだ」
「絶対違います」
即答。
「なんとなくですけど、ちゃんと“見てる人”って感じがして」
その言葉に。
グレーテルの動きが、ほんのわずかに止まる。
「……お前」
「はい?」
「やっぱり変なとこ、よく見てるな」
「え、そうですか?」
「普通ですよ?」
「……普通じゃない」
小さく呟く。
⸻
「……そういえば」
グレーテルが何気なく言う。
「今日、もう一人来たぞ」
「え?」
「お前のとこの、無愛想なやつ」
「……ラーナ?」
「そんな名前だったか」
サヤの動きが、少しだけ止まる。
「え、ラーナ来たんですか!?」
「勝手に入ってきた」
「えぇ……」
「質問攻めだ」
「ラーナっぽい……」
少し笑う。
でも。
ほんの少しだけ間が空く。
「……ふぅん」
小さく呟く。
「どうした」
「いや……」
視線を逸らす。
「私だけじゃなかったんだなって」
ぽつり。
「……なんだ」
「え?」
「拗ねてんのか」
「ち、違います!」
即答。
「別にそういうわけじゃ……!」
少しだけ視線が泳ぐ。
「……はは」
小さく笑う。
「安心しろ」
「え?」
「こんな廃れた家に近づいてくる変わり者は、お前くらいだ」
「え……」
「だから、そう何人も来る場所じゃない」
言葉が、ゆっくり落ちてくる。
「……それって」
「私、変わり者ってことですか?」
「そうだな」
「ひどい!」
思わず笑う。
でも――
(なんか……)
(ちょっと嬉しいかも)
⸻
「それに」
「面倒くさいのは、お前だけで十分だ」
「それ褒めてます!?」
「どうだろうな」
わずかに口元が緩む。
⸻
そのとき。
ぴょん、と。
黒猫がテーブルに乗る。
「ニャ」
二人の間に、すっと入り込む。
「かわいい!」
手を伸ばすが、するりと避けられる。
「あれ?」
「懐かないぞ、そいつ」
「えー……」
⸻
「……グレーテルさん」
「ん?」
「また来てもいいですか?」
「……好きにしろ」
「やった!」
ぱっと笑う。
その笑顔を見て。
ヘンリーは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……お前は」
「はい?」
「そのままでいろ」
「え?」
「変に慣れるな」
ぽん、と。
頭に手が乗る。
「……っ」
胸が、きゅっとなる。
「……はい」
小さく頷く。
ほんの少しだけ。
その手が離れるのが、惜しかった。
(……なんでだろう)




