第4話「火のそばの距離」
雪は、昼過ぎから静かに降り続いていた。
仕事を終えて外に出たとき、サヤは思わず足を止めた。
「……きれい」
白い粒が、音もなく落ちてくる。
冷たいはずなのに、どこかやわらかくて。
張り詰めていた気持ちが、少しだけほどけた。
⸻
気づけば、足はあの家へ向かっていた。
扉の前で一瞬だけ迷って、それからノックする。
「……誰だ」
「サヤです」
短いやり取りのあと、扉が開いた。
「……また来たのか」
「だめでした?」
「……入れ」
ぶっきらぼうな声。
でも、それがどこか心地いい。
⸻
中は暖かかった。
暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てている。
「今日、雪すごいですね」
「この時期はこんなもんだ」
「そっか……」
差し出されたカップを受け取る。
「……ありがとうございます」
一口飲むと、体の奥まで温かくなった。
⸻
「……今日はどうだった」
低い声。
サヤは少しだけ考える。
「落ち着いてました」
「そうか」
「でも、なんか変な感じで」
「何がだ」
「前より、ちゃんと見えるようになった気がして」
言葉を選びながら続ける。
「怖いままなんですけど、それでも動けるっていうか」
少しだけ笑う。
「グレーテルさんのおかげかも」
「……俺は何もしてない」
「してますよ」
顔を上げる。
「言葉とか、考え方とか。結構、残るんです」
まっすぐな言葉だった。
グレーテルは、わずかに目を細める。
「……変な奴だな」
「え?」
「普通は、そこまで気にしない」
「私は気にします」
即答だった。
少しの沈黙。
暖炉の火が、ぱち、と弾ける。
「……そうか」
⸻
サヤは、ふと口を開く。
「……グレーテルさんって、前に何してたんですか?」
空気が、わずかに変わる。
「……どうしてそう思う」
「なんとなくですけど、詳しすぎる気がして」
正直な言葉だった。
少しの沈黙。
暖炉の火が、ぱち、と弾ける。
「……昔、少しな」
「少しってレベルじゃないですよね」
「……」
「普通、あそこまで分かりません」
まっすぐに見つめる。
「“見れば分かる”って、看護師の“見る”じゃないです」
沈黙。
暖炉の音だけが残る。
「……そう思うなら、それでいい」
それ以上は聞かない。
でも――
「でも」
顔を上げる。
「その経験があるから、今の言葉なんですよね」
静かで、まっすぐな声。
グレーテルは何も言わない。
ただ、わずかに目を細めた。
「やめた人の言葉じゃない気がします」
サヤは、少しだけ笑う。
沈黙。
暖炉の火が、ぱち、と弾ける。
⸻
そのとき。
グレーテルの手が、そっとサヤの髪に触れた。
「……え」
驚いて顔を上げる。
距離が、近い。
こんな距離で見るのは初めてだった。
無精髭も、長い髪も。
普段は気にならなかったのに、
こんなに近いと、全部がはっきり見える。
――整ってる。
ふいに、そんな感想が浮かぶ。
心臓が、急にうるさくなる。
逸らさなきゃいけないのに。
なのに、目が離せない。
「……そんなに見るな」
「えっ」
「穴があく」
ほんの少しだけ、距離が詰まる。
「っ……」
心臓が跳ねる。
「顔、赤いぞ」
「っ……!」
言葉に詰まる。
「……さ、寒いからです!」
思わず、そう言っていた。
そのまま、手は離れない。
距離も、近いまま。
息が、触れそうなほど近い。
空気が、変わる。
何かが、起きそうな気配。
どんっ
「え、わっ」
黒い影が、勢いよく間に飛び込んできた。
グレーテルがいつも連れている黒猫だった。
そのままサヤの膝に収まる。
ようやく、手が離れる。
「び、びっくりした……」
距離が、一気に離れる。
さっきまでの空気がほどける。
猫は何事もなかったかのように丸くなる。
けれど――
ちらり、とヘンリーを見る。
じとっとした、不機嫌な視線。
ヘンリーは、小さく息を吐いた。
「……タイミングがいいな」
「え?」
「……何でもない」
「……この子、甘えん坊ですね」
サヤが笑う。
「……そうでもない」
ヘンリーは短く答える。
その声には、わずかなため息が混じっていた。
「名前はなんていうんですか?」
「……エイル」
短い返事。
「エイル……かわいいですね」
そっと撫でる。
猫は一瞬だけ目を細めたが、すぐにすました顔に戻る。
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しばらくして、サヤは立ち上がる。
「……そろそろ帰ります」
「そうか」
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「今日もありがとうございました」
頭を下げる。
そのとき。
ぽん、と頭に手が乗った。
「……明日も頑張れ」
「……はい」
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外は、まだ雪が降っていた。
「……ずるいな、あの人」
小さく呟く。
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扉が閉まる。
静寂が戻る。
「……ねえ」
暖炉の前から、声。
エイルだった。
「私が止めに入らなかったらどうするつもりだったの?」
沈黙。
「……余計なこと聞くな」
少しの間。
エイルがじっと見つめる。
「へえ」
尾が、ゆっくり揺れる。
「否定はしないんだ」
グレーテルは答えない。
「……ほんと、分かりやすい」
小さく息をつく。
「どこまで踏み込ませるつもり?」
沈黙。
グレーテルは答えない。
エイルはじっと見つめる。
「……壊す気?」
その言葉だけが、静かに落ちた。
黒猫のエイルは心を許した人にだけ喋ります。




