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第36話「止まらないために」

 ――病棟。


 朝の空気は、いつもと変わらないはずだった。


 ナースコールの音。


 行き交う足音。


 短く交わされる指示。


 全部、いつも通り。


 なのに。



(……遅い)



 あの一言だけが、まだ残っている。





 ――ミネルの病室。


 今日はラーナがバイタルチェックに入っていた。



「ラーナ」


「……何」


「私ね、今週末に退院だって」



 少しだけ嬉しそうに、でもゆるく笑う。



「……知ってる。おめでとう」



 ラーナはいつものようにぶっきらぼうに答える。



「……ありがとう」


「そのあとは、しばらくは通院しながら……時短で戻る感じかな」


「……無理はしないで」


「んー……たぶん、する」



 少しだけ考えてから、そう言う。



「しないと、なんか……止まりそうで」


「……」


「ラーナってさ」



 ミネルは首を少し傾ける。



「止まっちゃうタイプ、だよね」


「……何それ」


「考えすぎて、動けなくなるやつ」



 責める感じはない。



「でも、それって別に悪くないと思うけど」



 一拍。



「そのまま止まっちゃうのは、もったいないかなって」


「……っ」


「だからさ」



 ふわっと笑う。



「ちょっとくらいズレても、動いた方がいいかもね」


「……」


「サヤもさ、意外とそういうとこあるし


「私も、たぶんそんな感じだし」



 軽く肩をすくめる。



「じゃ、頑張って」





 ナースコールが鳴る。


 少し強めの音。



「ラーナ、こっち」


「はい」



 個室。


 ベッドの上の患者の呼吸が、わずかに浅い。


 モニターの数値が、じりじりと下がっている。



(……まだ大丈夫)


(でも)



 判断のラインが、曖昧な位置にある。


 今すぐ動く必要はない。


 でも。


 動いた方がいい可能性もある。



「……」



 手が、止まりかける。



(様子見……?)


(いや)


(でも、まだ――)



 頭の中で、いくつも選択肢が並ぶ。


 どれも間違いじゃない。


 どれも正解にもなり得る。



(……迷うなとは言わない)



 ふいに、声がよぎる。



(でも、その迷いで遅れるなら意味がない)


「……っ」



 指先に力が入る。


 ほんの一瞬だけ、目を閉じる。



(……止まるな)



 次の瞬間。


 ラーナは顔を上げた。



「ドクター呼びます」



 自分でも分かるくらい、少し早い判断だった。


 まだ余裕はあったかもしれない。


 でも。


 止まらなかった。



「酸素、少し上げます」


「了解」



 手が動く。


 今度は、止まらない。


 廊下の向こうから、足音。


 白衣の影が近づく。



「どうした」



 低い声。


 振り返らなくても分かる。



「呼吸状態が少し悪化してます。数値はまだ保ってますが、悪化傾向です」



 言いながら、自分の判断をなぞる。


 早すぎたかもしれない。


 でも。


 遅くはない。



「……」



 一瞬の沈黙。


 視線が向けられる。


 まっすぐ。


 逃げ場はない。



「処置は」


「酸素増量済みです」



 短いやり取り。


 それだけ。


 ヘンリーはモニターを一瞥してから、わずかに頷いた。



「……そうか」



 それだけ言って、患者の状態を確認する。



(……どうだろう)


(早すぎた?)


(それとも――)



 胸の奥が、ざわつく。



(……見られてる)



 あの視線に。


 あの一言に。


 全部、含まれている気がする。



(……間違ってない?)



 答えは、まだ出ない。



(でも)



 さっきみたいに、止まってはいない。



(……それだけで)



 ほんの少しだけ、呼吸が楽になる。


 ヘンリーは患者の状態を一通り確認してから、静かに手を離した。


 モニターの数値は、わずかに持ち直している。


 大きな処置は必要なかった。


 少しの調整で、十分だった状態。



(……やっぱり)


(早かった……?)



 ラーナの中で、判断が揺れる。



「……ラーナ」


「はい」



 名前を呼ばれて、背筋がわずかに伸びる。



「今の判断」



 一瞬、間があく。


 その沈黙が、やけに長く感じる。



「……悪くない」


「……っ」



 思わず、息が止まる。



「早い」



 短い言葉。


 でも。


 昨日とは、違う。



「……ただ」



 続きが来る。


 分かっている。



「根拠が浅い」



 胸の奥に、すとんと落ちる。



「……はい」



 反射的に、頷く。


 言い返せない。



「数値だけ見て動いたな」


「……はい」


「悪化“傾向”で止まってる段階だった」



 事実だった。


 だからこそ、刺さる。



「……でも」



 一歩、近づく。



「止まらなかったのはいい」


「……っ」



 ラーナの視線が、わずかに揺れる。



「昨日よりは、マシだ」



 淡々とした言い方。


 でも。


 確実に、前より上を見ている言葉。



(……マシ)



 その一言が、やけに残る。



「迷ってもいい」



 ヘンリーは視線を外さないまま続ける。



「その代わり、どこで切るか決めろ」


「……はい」


「今回は、“早めに切った”」



 一拍。



「次は、その理由を自分で説明できるようにしろ」


「……っ」



 言葉が、まっすぐ刺さる。



(理由……)



 さっきの自分の判断を思い返す。


 止まりたくなかった。


 遅れたくなかった。


 それが一番にあった。



(……それだけじゃ、足りない)



 ゆっくりと理解する。



「できるな」



 確認みたいな声。



「……はい」



 今度は、さっきよりもはっきり答えた。


 ヘンリーはそれ以上何も言わず、踵を返す。


 そのまま部屋を出ていく。


 残された静けさ。


 モニターの音だけが、規則正しく鳴っている。


 ラーナはその場に立ったまま、さっきの言葉を反芻する。



(……止まらなかったのはいい)


(昨日よりは、マシ)



 胸の奥に残るのは、悔しさだけじゃない。



(……まだ足りない)



 でも。



(……できないわけじゃない)



 ほんの少しだけ、感覚が変わる。


 視線を落とす。


 自分の手を見る。


 さっきは、止まらなかった。



(……次は)



 ゆっくりと顔を上げる。



(理由も、持って動く)



 小さく、息を吐く。



「……やるしかないか」



 誰に聞かせるでもない、独り言。


 でもその声は、昨日よりも少しだけ前を向いていた。

初めてサヤ出てこなかった、、

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