第33話「面倒じゃなくて」
廊下の空気は、まだ少しだけ冷えていた。
サヤは自分の言った言葉を引きずったまま立っている。
「……でも結局」
「……面倒って、私とのこと、ですよね?」
ヘンリーは一瞬だけ黙る。
その沈黙が、余計に長く感じた。
「違う」
短く、それだけ。
でもサヤの中のざわつきは、まだ完全には消えない。
ヘンリーは視線を外したまま言った。
「……このままだと終わらないだろ」
「え?」
「家来い」
あまりにも自然に言われて、サヤは一瞬固まる。
「……え?」
「話す」
それだけ言って、もう歩き出している。
(今の流れで“家来い”?)
(え、何それ)
サヤは半歩遅れてついていく。
「いや、ちょっと待ってください」
「仕事は」
「終わってる」
即答。
(終わってるならいいけど……)
でも、問題はそこじゃない気がする。
⸻
病院の外に出ると、夜の空気が少し冷たかった。
ヘンリーは特に説明もなく歩く。
サヤはその横顔をちらっと見る。
「……あの」
「まだ気にしてるだろ」
先に言われる。
「……気にしてないです」
「嘘だな」
即答。
「気にしてないって言ってるじゃないですか」
「言ってるだけだろ」
⸻
そのやりとりのまま、ヘンリーの家に着く。
鍵が開く音がして、静かな空間に入る。
ヘンリーは水を出して机に置く。
「飲め」
「はいはい……」
サヤが座ると、ようやく空気が少し落ち着く。
でも胸の奥はまだ少しだけざわついている。
「今日の話」
ヘンリーが切り出す。
サヤの背中が少しだけ固くなる。
「面倒って言ったのは、お前のことじゃない」
「それは、わかりましたけど……」
ヘンリーは一拍置く。
「周りにどう見られるかの方だ」
「それでお前が離れるのが、面倒だ」
「……離れるのが?」
サヤは眉を寄せる。
「それ、面倒って言い方じゃないです」
「普通に嫌って言えばいいじゃないですか」
言ってから、自分で顔が熱くなる。
(……今の、私が言わせてる?)
ヘンリーは少しだけ間を置く。
「……俺はずっと、知られてもいいと思ってるって言ってただろ」
サヤは一瞬固まる。
「いやいやそれは……!」
思わず身を乗り出す。
「それとこれとは違うといいますか……!」
ヘンリーは落ち着いたまま視線を向ける。
「でもそうやって、お前は気にするだろう?」
サヤは言葉を詰まらせる。
「……それは、まぁ……そうですけど……」
ヘンリーは小さく息を吐く。
「別に何か言うやつには言わせておけばいい」
「何も気にするな」
一拍置いて、少しだけ続ける。
「わざわざ公にしなくても」
「わかる奴はわかるし、わからない奴はわからない」
サヤは目を瞬かせる。
「……それは」
ヘンリーは即答する。
「それでいいだろ」
サヤは少しだけ眉を寄せる。
「それは……周りのことどうでもいいと思いすぎです」
少しだけ笑い混じりに言う。
ヘンリーは一瞬だけ止まる。
そして、いつも通りの声で。
「そりゃそうだ」
サヤは「ほらやっぱり」と言いかけて口をつぐむ。
ヘンリーは視線を外さず、静かに続ける。
「お前以外はどうでもいい」
一瞬、空気が止まる。
サヤの心臓が分かりやすく跳ねる。
「……え?」
ヘンリーは視線を逸らさず、淡々と続ける。
「それくらい」
「……お前が大事だって伝わってなかったか?」
一拍。
空気が完全に止まる。
サヤは耳まで赤くなりながら、慌てて言う。
「つ、伝わりませんよ!」
「言葉足らずすぎます!」
ヘンリーは小さく瞬きをして、それから短く言った。
「悪かった」
その一言は、いつもの“事務的な謝罪”じゃない。
ちゃんと向き合ってる声だった。
サヤがまだ言葉を探していると、ヘンリーは少しだけ距離を詰める。
そして、自然な動作でサヤの手を取った。
「……っ」
サヤの息が止まる。
ヘンリーはそのまま、ほんの少しだけ引き寄せる。
強くはない。
でも逃がす気もない距離。
「こういう方が分かりやすいか?」
サヤは真っ赤になったまま、視線を逸らす。
「そういう問題じゃないです……!」
ヘンリーは少しだけ目を細める。
「そうか」
でも手は離さない。
サヤは小さく抵抗しようとして、でもすぐ諦める。
(ずるい……)
(今の流れで離せるわけないじゃないですか……)
「……ほんとに」
サヤは小さく呟く。
「言葉足らずすぎです」
ヘンリーは静かに返す。
「次は気をつける」
サヤはその言葉に、さらに赤くなる。
「次がある前提なんですか……」
ヘンリーは一拍置いて。
「ない方がいいか?」
サヤは即答できない。
「……そういうことじゃないです!」
その返事に、ヘンリーはほんの少しだけ息を吐く。
それが、珍しく柔らかい音だった。
手はまだ繋がれたまま。
でももう、さっきの“誤解の空気”はどこにもない。
サヤは小さくため息をつく。
(……ちゃんと、分かった)
「……ほんと、ずるい人ですね」
ヘンリーは短く言う。
「今さらだろ」
そして少しだけ、ほんの少しだけ目を緩める。




