第3話「初夜勤の夜」
夕方17:30、病棟のナースステーション。
サヤは胸の奥で小さく息を吐いた。今日が、初めての夜勤だ。
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日勤を終えたグレーテルが病院敷地内を歩いていた。
ふと、サヤの姿が目に入る。
(……今日は夜勤か)
少し心配気に静かに見守っていた。
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サヤは緊張で手が少し震える。ナース服の袖を整えながら、スケジュール表を見返す。
夜勤は日勤より業務が少ないと言われるけれど、急変や入退院、夜中の患者のトイレ介助など、すべて一人ひとりの判断が直接患者に影響する。
廊下は昼間よりずっと静かだ。遠くでモニターのビープ音が聞こえる。
足音一つ、ドアの開閉音一つ、すべてが響く。サヤは呼吸を整え、最初の患者のバイタルチェックに向かった。
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三番ベッドの患者の点滴交換中、サヤは手が震えてチューブを少し触ってしまう。
その瞬間、モニターの音がわずかに乱れた。
「……え?」
一瞬、血の気が引く。
「あ、ごめんなさい……大丈夫ですか?」
患者はにっこり笑った。
「うん、大丈夫だよ。気にしなくていい」
その言葉に、サヤの胸の奥がじんわり温かくなる。
「ありがとうございます……!」
少しずつ手順に集中して、患者の呼吸や表情に注意を向けながら動く。
夜勤特有の静けさの中、モニターの音や呼吸音が、逆に安心感を与えてくれることにも気づく。
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夜が更けるにつれ、サヤは体位変換やバイタルチェック、夜間のトイレ介助なども少しずつスムーズにこなせるようになった。
患者に「ありがとう」と言われるたび、小さな達成感が積み重なっていく。
「……大丈夫、できる……」
心の中で何度も呟きながら、初めての夜勤を乗り切る。
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夜勤終わり、サヤはへろへろになりながら寮へ向かう。
グレーテルの家の前を通りかかると、低く、穏やかな声がかかる。
「顔色、悪いな」
(……なんで分かるんだろう)
「……初夜勤だったんです」
「……そうか」
「……ココアでも飲んでくか?」
せっかくのグレーテルさんの誘いだが、
今日は疲れていて、とくに眠気がすごい。
「……いえ、今日はこのまま寮に帰ってすぐ寝ます……」
グッと堪えて今日は帰る意思を伝える。
そのとき、グレーテルが少しだけ近づいた。
ふっと、匂いがした。
石けんのような、清潔な匂い。
それに、ほんの少しだけ落ち着いた木のような香り。
(……やっぱり)
サヤの思考が、静かに追いつく。
この前も感じた、この匂い。
理由なんて分からないのに、胸の奥がすっとほどける。
少しだけ、呼吸が楽になる。
(……落ち着く)
そのまま足がふらつく。
「あ……」
崩れかけた体を、すぐに支えられる。
距離が、一気に近づく。
さっきよりはっきりと、同じ匂いがする。
清潔な石けんの奥に、わずかに残る生活の気配。
(……同じだ)
今度は、はっきりとそう思う。
さっきのは気のせいじゃない。
同じ匂いが、こんなに近くで香る。
その距離に、心臓がひとつ強く跳ねた。
「すみませ……」
「寮まで送る」
「そんな……悪いです」
「うるさい、行くぞ」
二人はゆっくり歩きながら、病院敷地内の朝の空気を吸う。
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寮の前に着くと、グレーテルの手が、そっとサヤの頭に触れる。
「……っ」
(この人……まただ……)
前にも、こんなふうに触れられた。
頭を撫でられた、その距離で、またふわりと香る。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
それと同時に――
少しだけ、ドキッとする。
「……ありがとうございます」
「……勝手にしたことだ」
ぶっきらぼうな声。でも、その声には少しだけ、柔らかさが含まれていた。
サヤは小さく頷き、寮の扉を開けた。
へろへろだった夜勤の疲れも、今なら少し、あたたかい余韻に変わっている気がした。




