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第2話「正しさと、やさしさ」

 寮の廊下は、しんと静まり返っていた。


 長い一日だった。足は重く、頭もぼんやりしている。


 それでもなんとか自分の部屋の前までたどり着き、サヤは小さく息を吐いた。



「……ただいま」



 誰に言うでもなく呟いて、扉を開ける。


 ――先に、誰かいた。


 ベッドの上に座って本を読んでいる。


 淡い灯りに照らされた横顔は整っているが、表情はほとんど動かない。



「あ……」



 一瞬、言葉に詰まる。相手が顔を上げ、静かな視線がまっすぐこちらに向く。



「……同室」



 短い一言。



「あ、うん。サヤ・アールグレンです。今日からよろしくお願いします」



 数秒の沈黙のあと、相手は自分の名前だけを言う。



「……ラーナ・ソルフェーズ」



 返事はない。ページをめくる音だけが部屋に響く。


 気まずさに耐えきれず、サヤはそそくさと自分のベッドに荷物を置く。


 少しだけ距離を感じるけれど、不思議と落ち着く。





 ラーナ・ソルフェーズは、無駄がない。サヤは、何度目か分からないその感想を胸の中で繰り返す。



「次、三番ベッド。血圧測定」



 短く淡々とした声。サヤも一歩遅れて動く。


 ラーナはもう、患者の腕を取り、手際よく測定の準備をしていた。



「力、抜いてください」



 優しさは感じないけれど、患者は抵抗せず、安心したように目を閉じる。


 ――なんで?


 自分の方が声をかけて笑顔もあるのに、どうしてラーナは安心感を与えられるのか、サヤは理解できない。



「サヤ、記録、遅い」


「あ、ごめん……」



 またもや淡々とした指摘。サヤは反省しつつも、どこか尊敬の念が芽生える。





 廊下を足早に歩いていると、角を曲がった先で人影にぶつかりそうになった。



「っと」


「あっ……!」



 反射的に顔を上げる。



「あ、グレーテルさん!」


「……お前か」



 低い声。


 作業着姿のグレーテルが長い髪と無精髭の肩に猫を乗せていた。



「すみません、急いでて……」


「前見て歩け」


「はい……」



 軽く頭を下げる。


 そのまま通り過ぎようとした、そのとき。



「――その患者」


「え?」



 足が止まる。



「呼吸、浅いぞ」



 ぼそりとした一言。


 思わず振り返るが、グレーテルはもうモップを手に床を拭いている。



「え、あの……」


「仕事しろ」



 短い、けれど鋭い言葉。


 腑に落ちないまま、サヤは足を速めた。



「……今の人」



 後ろから、ラーナの声。


 いつの間にか、少し離れた場所に立っていた。



「え?ああ、グレーテルさん。用務員さんだよ」


「……そう」



 短い返事。


 けれど、その視線はまだ彼の背中を追っている。



「……変」


「え?」


「なんでもない」



 すぐに視線を逸らす。



 そのとき、近くで先輩たちの声が聞こえた。



「またあの猫連れ、うろついてるよ」


「ほんと、あの人何考えてるか分かんないよね」


「前もさ、“それ処置違う”とか言ってきてさ。何様って感じじゃない?」


「はは、ただの用務員なのにね」



 くすくすと笑う声。



 サヤは、少しだけ眉をひそめた。



「……そんな人じゃないのに」


「……」



 ラーナは何も言わない。


 ただ静かに、先輩たちの会話と、遠ざかる男の背中を見ていた。





 処置室に入ると、先ほどの患者がベッドに横になっていた。


 呼吸は、確かに浅くなっている。



(……ほんとだ)



 処置室で、メイ・ラーソンの声が響く。



「酸素飽和、低下。原因は?」



 サヤの「肺機能の低下、かも……」に、即座にラーナが指摘する。



「分泌物の増加と、呼吸音の変化。気道閉塞の可能性が高い」



 対応も、判断もすべてが速い。サヤはただ見て学ぶしかない。


 メイに褒められるラーナの姿に、サヤは胸が締め付けられる。





 外は冷えていたが、サヤはグレーテルの家の前に立っていた。灯りが温かい。


 扉を叩く。



「……誰だ」


「サヤです」



 短いやり取りの後、扉が開く。入ると暖炉の火が温かく、猫も膝に乗っている。



「……座れ」



 サヤは腰を下ろし、今日の悩みをぽつりとこぼす。



「……私、向いてないのかもしれません。同期にすごい子がいて、ラーナっていうんですけど……」



 グレーテルは静かに聞き、暖炉の光の中で目を細める。



「……なあ」



 低い声。サヤは顔を上げる。



「いい看護師ってのは、何だと思う?」



「正確に処置できること……」



「じゃあ、機械でいいな」


「……でも、それじゃ患者は人間じゃなくなる」


「正しいだけじゃ、足りない」


「そういう奴は必要。でも、お前みたいなのも必要だ」


「無駄に悩んで、考えて、立ち止まる。そういう奴が一番患者を“人間として”見る」



 胸の奥がじんわり温かくなる。



「劣ってると思うなら追いつけ。感情だけじゃダメだ。技術も磨け。逆も同じだ」



 その意味はまだわからないけれど、サヤは信じられた。





「……ありがとうございました!」



 立ち上がって帰ろうとするサヤに、グレーテルはゆっくりと立ち上がる。


 そして――


 ほんの一瞬、ためらうように。


 それから、そっと手を伸ばした。



「……明日も、頑張れよ」



 軽く、サヤの頭に触れる。


 その瞬間。


 ふわりと、あの匂いがした。


 木のような、少し落ち着いた香り。


 どこかあたたかくて、安心する匂い。



(……あ)



 一瞬、思考が止まる。


 昨日も感じた、あの感覚がよぎる。


 ぐっと近づいた距離に、心臓が跳ねた。



「……はい」



 声が少しだけ上ずる。


 グレーテルはもう手を離していて、何事もなかったように視線を外している。


 サヤは自分の頬が少し熱くなっていることに気づきながら、小さく頭を下げた。



「……ありがとうございます」



 外に出ると夜の冷たい空気が頬を撫でるけれど、胸の奥にはほんのり温かさが残っていた。


 負けてるままで終わりたくない。そう思えたから。





 寮の部屋。


 扉を開けると、ラーナがベッドに座っていた。



「……遅い」


「ごめん」



 短いやり取り。


 少しの沈黙。


 サヤは、意を決して口を開いた。



「ラーナってさ」


「なに」


「すごいよね」



 ラーナは、少しだけ目を細めた。


「別に」


「私、全然追いつけなくて」


「そう」



 興味なさそうな返事。


 でも、ほんの少しだけ視線がこちらを向く。



「……でも」



 サヤは、笑った。



「追いつくから」


「……」


「絶対」



 しばらくの沈黙。


 それからラーナは、ふいに視線を逸らした。



「……勝手にすれば」



 ぶっきらぼうな声。


 でも、ほんの少しだけ。


 ほんの少しだけ、その声は柔らかかった気がした。





 その夜。


 ラーナは、目を閉じながら小さく呟いた。



「……遅いんだよ」



 誰に向けた言葉でもない。


 ただ、自分自身に向けたものだった。

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