第1話「灯りのある廃屋」
空気が冷たい。
サヤ・アールグレンは白い息を吐きながら、目の前の石造りの建物を見上げた。
ノルドハイム医療院。
「ここが……」
呟いた声は、風にさらわれる。
背後では、同じ制服の新人看護師たちがざわめいていた。
「サヤ、大丈夫?」
隣のミネル・サルダールが声をかける。
「うん。ちょっと寒いだけ」
本当はそれだけじゃない。でも、まだ弱音は吐きたくなかった。
そのとき、重い扉が開いた。
「新人、全員中へ!」
鋭い声に、背筋が伸びる。
――ここから先は、もう学生じゃない。
⸻
「サヤ・アールグレン!」
「はい!」
「循環器内科。担当はカイヤ・アンネフェルトだ」
「……え?」
「アンタがサヤ?」
低い声。
振り向くと、腕を組んだ女性がこちらを見下ろしていた。
「返事は?!」
「は、はいっ!」
「声小さい!」
「はいっ!!」
――あ、終わった。
⸻
初日から戦場だった。
「遅い!次!」
「それ消毒まだでしょ!」
「す、すみません!」
次々飛んでくる指示に、頭が追いつかない。
それでも必死に動く。
怒られる。でも、ちゃんと見てくれているのも分かる。
だから、食らいつくしかなかった。
⸻
気づけば、外はすっかり暗くなっていた。
「……終わった……」
寮へ向かう足取りは重い。
体力も、気力も、ほとんど残っていない。
そのときだった。
「あれ……?」
視界の端に、大きな影が映る。
病院の敷地の奥。普段なら通らない道の先に、それはあった。
古びた、大きな家。
使われていないはずの建物――なのに。
灯りが、ついている。
「……誰か、いる?」
ふわりと漂ってくる、温かい匂い。
「いい匂い……」
思わず足が止まる。
――少しだけ。
ほんの少しだけなら。
そう思って近づいた、その瞬間。
「――何してる」
低い声。
「ひゃっ――」
足がもつれる。
その腕を、強い力が掴んだ。
「……っと」
ぐい、と引き上げられる。
その瞬間だった。
ふっと、匂いがした。
石けんのような、清潔な匂い。
それに、ほんの少しだけ落ち着いた木のような香りが混じっている。
病院の消毒薬とも違う。
でも、不思議と怖くない匂いだった。
(……落ち着く)
一瞬だけ、そう思ってしまう。
⸻
目の前にいたのは、長身の男だった。
長い髪に、無精髭。
鋭い目。
ただ者ではない空気。
「何か用か」
「あ、あの……!今日から配属された新人で、サヤ・アールグレンです!」
反射的に名乗る。
「……そうか」
「あなたは……?」
少しの沈黙。
「……グレーテル。用務員だ」
その肩に、黒猫が乗っていることに気づく。
「……猫」
「いるな」
当たり前のように返される。
なんだこの人。
そう思った瞬間――
ぐぅぅぅぅ……
「……」
「……」
盛大に鳴ったのは、自分の腹だった。
顔が一気に熱くなる。
「……寮に飯は?」
「今日は……多分カップ麺で……」
視線が、どうしても家の中へ向く。
シチューの香りが、強すぎる。
男は小さく息を吐いた。
「……食ってくか」
「いいんですか?!」
思わず前のめりになる。
「あ……すみません!」
「……入れ」
⸻
家の中は、外観からは想像できないほど整っていた。
暖炉の火が揺れている。
落ち着く空間。
「座れ」
「お邪魔します……!」
出されたシチューは、驚くほど美味しかった。
「……おいしい……!」
「そうか」
短い返事。
でもどこか、少しだけ柔らかい。
「……その手」
「え?」
「冷えてる。血流落ちてるな」
「あと、軽い貧血気味。昼、ほとんど食ってないだろ」
「あ……」
「緊張するとそうなる。新人は大体そうだ」
思わず、自分の手を見る。
確かに、少し震えていた。
「……すごいですね、よく分かりますね」
「……見れば分かる」
そう言い切る声は、妙に静かで。
(……なんだろう)
ほんの少しだけ、引っかかった。
⸻
サヤは、今日あったことをぽつぽつと話した。
失敗したこと、怒られたこと、うまくできなかったこと。
グレーテルはほとんど相槌だけだったが、時折的確な言葉をくれる。
「焦るな。最初は皆そうだ」
「……はい」
「見て覚えろ」
「……はい!」
不思議だった。
怖いのに、安心する。
⸻
「グレーテルさん、ありがとうございました!」
帰り際、深く頭を下げる。
「お前、明日はどういう勤務だ」
「明日は日勤で、17時半までです!」
「……そうか」
わずかな間。
「じゃあ、また来れるな」
「……え?」
一瞬、きょとんとする。
でも。
(……また来ても、いいんだ)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……はい!」
今度は、さっきよりもはっきりと返事をした。
⸻
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
静かになった部屋で、グレーテルは小さく息を吐いた。
肩の黒猫が、こちらを見る。
「……あいつに似てるな」
ぽつりと呟く。
その目は、どこか遠くを見ていた。
読んでくださり、ありがとうございます。
まだ始まったばかりですが、
サヤがどんなふうに成長していくのか、
そしてグレーテルの過去がどう関わってくるのか、ゆっくり描いていけたらと思っています。
また、本作はアイデア出しや表現の一部にAIの力も借りながら制作しています。
最後まで楽しんでいただけたら嬉しいです。




