物理法則の無視
「グルルル……ッ!」
目の前の獲物が、突然「見えない何か」に守られたことに、レッドベアは明らかな困惑を見せていた。 爪を弾かれた感触が残っているのか、ベアは警戒するようにレンの周囲をゆっくりと旋回し始める。
レンは荒い呼吸を整えながら、冷静に状況を分析した。
(魔力は残り少ない。あと数回、大きな固定を使えば空っぽになる)
右足の傷は『固定』で止血しているものの、筋肉が断裂していることに変わりはない。走ることはおろか、立ち上がることさえやっとだ。 正面から殴り合えば、間違いなく負ける。
(勝つには、一撃必殺しかない)
レンは腰のベルトに手を伸ばし、護身用の安物のナイフを引き抜いた。 刃渡り15センチほどの、錆びかけた鉄のナイフ。これ一本で、分厚い毛皮と筋肉を持つBランク魔物を倒す? 普通に考えれば不可能だ。 だが、今のレンには「物理法則」という味方がいた。
「来いよ、デカブツ」
レンは挑発するように、ナイフを構えたまま手招きをした。 その挑発が通じたのか、あるいは獲物が弱っていると判断したのか。 レッドベアの全身の毛が逆立った。
「ガアアアアアッ!!」
咆哮と共に、地面を抉って突進してくる。 さっきまでとは比べ物にならない速度。数トンの質量弾が、レンを挽き肉にしようと迫る。 回避は不可能。防御も、さっきの「空間の壁」程度では突き破られるかもしれない。
だが、レンは動かなかった。 動く必要がなかった。
(速ければ速いほどいい。重ければ重いほどいい) (その運動エネルギーが、全部お前の「死」に変わる)
ベアが目の前まで迫る。 大きく口を開け、レンの頭を噛み砕こうとした、その瞬間。
レンは持っていたナイフを、自分の顔の目の前――ベアの喉元へと突き出した手放した。 そして、ナイフが空中に浮いた状態で叫ぶ。
「――『固定』!」
キィンッ! という高い音が鳴り、空間座標に「定義」が書き込まれる。 レンの手を離れたナイフは、重力にも空気抵抗にも影響されず、その空間に「絶対座標」として張り付けられた。
それはもう、ただのナイフではない。 この世界で決して動くことのない、最強の障害物。 そこへ、時速数十キロで突っ込む数トンの巨体。
結果は、物理法則通りに導き出された。
ズドォォォォォンッ!!
鈍い激突音の後、グシャリという湿った音が続いた。
「……ガ、ッ?」
レッドベアの動きが、空中でピタリと止まる。 その巨体は、レンに触れる寸前で静止していた。 いや、支えられていた。 大きく開かれた口の中――その上顎から脳天にかけて、空中に固定されたナイフが深々と突き刺さり、串刺しにしていたのだ。
自分から突っ込み、自分の勢いで脳を貫いた。 自重による自滅。
「……僕の筋力じゃ、お前の皮膚は貫けないけど」 「お前自身の体重なら、話は別だ」
レンは目の前でビクビクと痙攣する巨獣を、冷めた目で見つめた。 やがて、ベアの瞳から光が消え、脱力した巨体がドサリと地面に崩れ落ちる。 固定されたナイフだけが、血に濡れたまま空中に浮いていた。
「はぁ……はぁ……」
緊張の糸が切れ、レンはその場にへたり込んだ。 勝った。 Bランク相当の魔物を、Gランクの僕が、ソロで倒した。
「ざまぁみろ……」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。 自分を捨てたパーティか、理不尽な世界か、それとも運命か。
レンは震える手で、空中のナイフの固定を解除した。 チャリ、と音を立てて落ちるナイフ。 それが、レンの新しい冒険者人生の始まりを告げる合図となった。




