朝が来ても、変わらない
「……やっぱり、陽介が言う通り“無理”なんだなぁ……」
竜子の、泣き出しそうな顔で目が覚める。
締め切ったカーテンの隙間から差し込む白い線は、朝を報せていた。時刻は早朝五時三十分。体に疲労は残っていない筈なのに頭が重い。ベッドサイドに置いた携帯を寝たまま手に取って、通知を見る。穂積の業務連絡と、園崎からの連絡。いつもは一番上にある筈の通知はなく、ゆっくりと息を吐き出して目元を覆うと、起床を促すように目覚ましアラームが鳴った。
「……うぜー」
落ち着いたa波のさざめきが、今日は煩わしい。
そう感じるのは、あんなことがあったのにいつもと変わらずに朝がやってきたからなのかもしれない。あんなことがあったのに、体は十二分に休んで軽い。制服に着替えて荷物を持ち一階へと降りると、朝早いのに母さんが起きていた。
リビングはテレビがつけっぱなしのままで、数日前に起きた亜人による連続殺人事件が報道されている。
<昨夜未明、連続殺人容疑で指名手配されていた賀射土黒容疑者が、サービスエリアにいるところを通報され――>
アナウンサーの落ち着いた声と、映し出された監視カメラ映像。淡々と語られるその事実は喜ばしい限りなのに、唇をきつく噛みしめてしまう。
亜人が加害者になったときの報道は、どこか“慎重”であるようでいて、妙に温度が低い。
「能力を悪用」「人間では考えられない手口」――そんなフレーズが、当たり前のようにテロップに並ぶ。
落ち着いた声。けれど、選ばれた言葉は、“やっぱり違う”と刷り込むように響いていた。
「差別をなくしましょう」と社会全体では繰り返し唱えているくせに、こうしてニュースの“表現の揺らぎ”ひとつで、見えない偏見は確かに息をしている。
人間と亜人が一緒に暮らすのが当たり前になってきた時代。
けれど、幼少期から“区別されて育った世代”の中では、たったひとつの事件が、日常のすべてを壊す理由にすり替えられてしまうのに。
(………この事件がなかったら、あそこまで普通科が嫌悪感を抱くことはなかったんじゃないか?)
いや、これは他責すぎる思考だ。
嫌悪感を抱かれたって、あの時手を引かれたって俺があそこで合間にきちんと入り込めていたら。あのとき園崎の手を振り払ってでも、アイツの手を掴んでいたらこんなことにはならなかったはずだ。
それを、口では竜子のせいではないと言っておきながら、本当に竜子がけがをさせたのかもしれない。自分が驚かせた事が原因だ手を引いてしまった。
後悔が、口の中に苦みとなって押し寄せる。
――容疑者は、幼年亜人保護法に基づき高校まで亜人科で教育を受けており、社会に出てからの適応には困難が伴っていた可能性があります。
その間も、不安を煽るように亜人による殺人事件を報道する声が続いている。
たまらずリモコンで別番組に変えたところで、後ろから母さんが声を掛けた。
「陽、朝はおにぎりでいいの?持ってく?」
その声は、きのうの騒動を察しているようには聞こえない。
しかし、今だけはそのいつもと変わらない声色がひどく落ちついて、俺はぶっきらぼうに返した。
「持ってく」
「そう、三個入れとくから朝たべちゃってね。お昼には悪くなるかもしれないから」
「おー」
「聞いてるの?」
「あざーす」
「あざーすじゃないわよ、もう」
ぶつくさと言いながらも、母さんは手際よくランチバックにゴロゴロとしたおにぎりを入れていく。どう見たって三個以上入っているように見えたが……まぁ、部活には穂積をはじめとした成長期が多くいるのだから残す事はないだろう。俺はリュックを背負い、片手にランチボックスを持って家を出ると、少しの期待を持って隣の家の――ベランダを見た。
「…………ドラ美」
ベランダに、竜子の姿はなかった。
それどころかカーテンが閉じている。起きているのか、寝ているのかも分からない状況。頼りの携帯も昨日から連絡がない状態で――竜子が起きてこない事なんてままあることなのに、今日は死んでしまったように静まり返っていた。
ゴール前、蹴ったボールがまたキーパーに防がれた。
――これで、十回無得点。軸足を踏み込んで放ったボールは、カーブをかけて際どいコーナーの隅を狙っていた。しかし際どい場所を狙ってもなお、行動が読まれているらしい。予測したようにカーブの先へと飛び出した穂積の手が、アッサリとボールを弾く。
「……陽介、今日は随分と外すな」
跳ね返るボールが、やけに遠く感じて足が止まる。
穂積の言葉は嫌味ではないし、彼の言葉に喜びは無い。帽子を目深く被っている彼は、ちゃんとボールが見えてんのかってくらい影が落ちて目元が見えない。前に落ちたボールを拾った穂積が歩み寄ると、手にしたボールをグッと胸に押し付けて息を落とした。
「……そうやって、気持ちが乱れると分かりやすく精度が落ちるのは、昔から変わらずだな」
俺は答えない。
穂積は続けて言った。
「………昔からそうだったよ、お前は。その時も東陽が原因だったな」
「は?」
竜子の名前に、感情が先に言葉となって落ちる。
「小学校最後の試合でも、東陽が泣かされたとかで酷いもんだった」
「…………そうかよ」
俺は、小さく笑ったつもりだった。
けれどそれは、顔をゆがめただけだった。
穂積はボールを押し付けたまま、遠くを見るようにして言う。
「……あの時の東陽は、凄かったな」
「…………だな」
あれは、小学校最後の大会前だったと思う。よくも知らないクラスのやつに、「人間と亜人が一緒にいるのって、なんか変だよな」「陽介~、お前試合前に怪我させられんなよ」とヤジを飛ばされた時のこと。毎日応援にきてくれていた竜子は顔を真っ赤にして泣きだして、それを見てヤジを飛ばしたやつらはバツの悪そうな顔をして逃げていったけど、でも次の日の試合、竜子は誰よりも大きな声で、角から火花を散らしながら応援していた。
その声があったから、俺は吹っ切れたし走り抜けた。
ゴールを決めた。
穂積はそんな過去をふと思い出したように、手にしたままだったボールを俺の足元に落とした。
「……あの時と同じだ。周りが何を言っていようが――亜人と人間っていう種族の前に、お前と東陽は、幼馴染じゃないのか」
朝練前で、いまだ静かなグラウンドで穂積の真っ直ぐな言葉が響く。
「……そうだった」
独り言ちるように呟き、手を――ほんの少しだけ震える右手を、まるで誰かの手を取り戻すように強く握った。
心の中でまだ燃えている小さな火を、消さないように守るみたいに。
穂積がゴールの前で構える。
俺は、助走をつけるようにゆっくりと歩き出し、次第に速度を上げる。
踏み込んだ足は、たしかに地面を捉えていた。
ボールが放たれ、空を裂くように飛んでいく。
そして、ゴールネットが、軽やかに、けれど確かに――揺れた。