精霊の祝福
その時、コンコンと控えめなノックの音がした。懸命に涙をこらえ何とか「どうぞ」と答えた。がちゃりとドアを開けて入って来たのは、
「こ、こ、皇太子、殿下‥」
イズリーシュ皇太子殿下その人だった。
「すまない、入ってもいいだろうか」
「も、勿論です!」
そもそもここがどこなのかわからないが、絶対にメリッサの持ち部屋ではないのだ。むしろなぜメリッサがここでダーマシルクのワンピースを着せられて寝ていたのか、そちらの方がおかしいのである。
イズリーシュはゆっくりと部屋の中に歩を進め、少しメリッサから離れたところにある椅子に腰掛けた。そしてふう、と息をついてからメリッサの方をひたと見つめた。
先ほども思ったが、恐ろしいほどに整った顔面だ。ここまで整っていると見つめられていることがもはやいたたまれない。目が潰れるのではないだろうか。しかし、目をそらすのは不敬に当たるかもしれない。ひっく、としゃくり声を懸命に抑えながら何とかその顔を見つめる。
イズリーシュはそんなメリッサの顔を見て、痛ましそうな表情をした。
「‥ごめんなさい、こんなことに巻き込んでしまって。‥思いもよらぬことだったよね」
「‥‥っく」
優しいその声音に、また涙が溢れてくる。止めなくちゃと思えば思うほど涙が次々にあふれてきた。それを見たイズリーシュがおろおろと慌てふためき、ハンカチを持って近づいてきた。メリッサの手にハンカチを握らせる。
「ごめんね、ごめんなさい。‥どうか泣かないで‥」
メリッサはありがたくハンカチで目を抑えた。中々涙は止まらない。が、近くに来たイズリーシュからは、何か信じられないほどいい匂いがする。その匂いを嗅いでいると、少しだけ緊張がほぐれ、涙が収まってきた。
「も、申し、訳、ございま、っく、せん‥」
「あなたが謝る必要はない、あなたは巻き込まれただけなのだから」
そう真摯に謝る皇太子殿下の姿は、よく話に聞く素晴らしい皇族そのものだった。巻き込まれた、とおっしゃってくださったが、ではもう婚約の話はなしでもいいのだろうか。
「あの‥殿下、婚約、って‥嘘、ですよね‥?」
どのように口を聞いていいかわからず、思わず普通の言い方になってしまったが、それを咎めるでもなく、だが苦しそうにイズリーシュは返事をした。
「ごめん‥私は、あなたと結婚したい。申し訳ないけど‥聞き入れてくださらないか?」
嘘、じゃなかった。
夢でもないが、夢だとしてもこれは、悪夢だ。
だって、
この人、別にあたしのことを好きじゃない。
恋愛をしているかどうか、なんて目を見ればわかる。この皇太子殿下は全くそんなものに浮かされた目をしていない。理知的で落ち着いた、統治者の目だ。支配者の目である。
メリッサはまた涙がこみ上げるのを感じ、急いで言った。
「ど、どうして、ですか?なぜ、あたしなんですか?殿下は、別にあたしのこと、を、お好きなわけではないです、よね‥?」
イズリーシュは少し目を見開いて、目の前のメリッサを見た。‥この年ごろの娘は、皇太子などに求婚されたら何のかのと言って喜ぶところもあるのではと思っていたのだ。だが目の前にいる娘は全く喜んでいないばかりか、イズリーシュの気持ちが自分に向いていないことまでも看破している。
「そう、だね。確かに私はあなたに一目ぼれをしたわけでも、以前から熱烈にあなたの事を愛しているわけでもない。‥だが、結婚生活を育む中でいずれ、お互いを大切に思いあえるようになれればいいと思っている」
「‥‥それ、は、他の貴族の、お姫様ではだめ、なのですか?ご存じ、かと思いますが、私は平民で、何の知識も、教養もありません」
必死に話しているうちに少しずつ涙が抑えられてきて、何とかまともに話せるようになってきた。そんなメリッサに対して、イズリーシュはずっと申し訳なさそうな目をして見てくる。
「‥本当にごめん。‥君じゃないと、だめなんだ‥ひょっとして恋人とかいたかな‥?もしいるのだとしたら、私からも説明をさせてもらうから‥」
皇太子殿下は、メリッサに恋人がいたとしても諦める気はないらしい。‥ひょっとして純潔が守られていなくてもメリッサを望んだのだろうか。
「恋人、はいませんが‥もし恋人がいて、あの、私が純潔を保っていなくても、殿下は‥」
「君を望んだよ」
間髪を入れずにイズリーシュは答えた。そんなことがあるだろうか。皇族に嫁入りする娘が純潔を保っていなくてもいいなんて、そんなことあるわけがないのに。
メリッサは無論男性経験はなかったが、あったとしてもこの結末は変わらなかったのだと思うと愕然とした。
「なぜ、なんですか?なぜ、あたしを‥」
「そう、か、そう思うよね」
ふうう、とイズリーシュは長いため息をついた。パン、と手を叩く。するとどこからか侍女がやってきてイズリーシュの傍に控えた。
「お茶と、何か軽くつまめるものを。それから彼女にガウンをかけてやってくれ」
かしこまりました、と言ってすぐに侍女は下がっていった。自分より身分が上の侍女が仕事をしているのに、自分はベッドの上に座っているのが何とも居心地が悪かった。
すぐにまた侍女が入ってきて、細かな刺繍の施された少し厚みのあるガウンをメリッサにはおらせようとした。思わず「だ、大丈夫です」と言ったが、侍女は柔らかく微笑んで素早くメリッサの肩にガウンをかけて去った。別の侍女がティーワゴンを押してお茶を淹れ、イズリーシュに供している。その後、美しい銀のトレーに、ティーカップとサンドイッチが盛られた皿を載せてメリッサが座っているベッドの上にセットした。「すみません」と言ったメリッサに、この侍女もやはり柔らかく微笑むだけだった。
イズリーシュは下がっていい、と手で合図して侍女を部屋から下がらせるとゆっくりとお茶を飲んだ。
そして話し始めた。
「信じてもらえるか、わからないけど‥」
イズリーシュは、幼い頃から人の額のあたりに〇のマークが見えていたそうである。金色に光る〇が、全員に見えるので人はみなそれがついているものだと思い込んでいた。
ところが、鏡を通すと見えない。だから自分の額には何も見えなかった。小さい頃はそれが不思議で色々な人に尋ねたが、誰もその意味をわかってくれるものはいなかった。
五歳くらいになった時、同年代の貴族の子どもを集めたパーティーで、遊んでいる拍子にある子どもの手を握った。すると、身体全体をぶわっと何かが覆い、見えるものの色が変わった。額に見えるものは緑色になり、1や2や3などといった数字がちらほら見え出したのだ。これまでにないことだったし今までに味わったことのない感覚にイズリーシュは怯えて泣き出してしまった。乳母や両親にも訴えたが、誰にもそのことの仔細がわからない。
その後も一人でいれば、人々の額に見えるのは〇、つまり数字の0だったが、誰かと接触したり手を繋いだりすると違う色で違う数字が見える、という状態が続いた。何らかの意味はあるのだろうと思ったが全くその数字の意味するところは解らなかった。
色々な文献を当たったり、魔法術や呪術の類に至るまで調べたりしたのだがやはりわからずじまいだった。
十六歳になったころには、もうわからないものだ、数字が見えるだけで特に弊害はないのだから気にしないようにすればいい、と諦めの境地になってきていた。小さい頃から見えている0はもうそこにあって当たり前のものであるから諦めれば気にならなくなっていた。
ところがある時、土砂災害に見舞われた地方都市を慰問に回っていると一人の子どもに出会った。汚れてはいたが不思議な雰囲気を持った子どもで、思わずイズリーシュもその子どもに声をかけた。
「こちらに食べ物がある。着替えもあるが要らないか?」
そう声をかけたところ、子どもはぼさぼさの髪の間から瞳を光らせてイズリーシュを見つめてきた。そして、まるで老婆のような声で話し出した。
「へえ、珍しい。精霊の祝福をもらったんだね」
聞きなれない言葉に驚いて、イズリーシュは言葉を返した。
「精霊の祝福‥?」
子どもはにやりと笑うとイズリーシュの近くまで来てその顔を覗き込んだ。側仕えの侍従たちが色めき立ったが、イズリーシュはそれを手で制した。
なぜかこの子どもの話を聞きたかった。
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