名を
魔法力師による治療は、表面的な傷に対してのみとなった。あまり深い部分まで魔法力で癒してしまうと身体本来の治癒力が衰えてしまうことがあるかららしい。初めて魔法力による治癒術を受けたメリッサは、温かいものが自分の身体に流れ込んできて擦過傷を癒していくことに感動していた。
目に見える擦過傷を消し、額の切り傷を少し浅くして魔法力治療は終わった。完全に傷が癒えるまでは二か月かかると言われたが、メリッサ自身はまあ一か月もすれば治ってるんだろうな、と考えていた。そんなメリッサの顔を覗き込んで、医師は「安静ですよ。何よりも安静が必要ですからな」と言い含めた。
リッチェ達侍女は、医師から手当の方法や薬の事などの説明を受けている。
たくさん背中に当てられたクッションに身をもたせかけ、メリッサはふうとため息をついた。これでは恐らく行儀作法の実践の講義は取りやめだろう。いや、他の講義もしばらく止められる可能性もある。講義が止まれば、幾ら復習をしても自分の頭で理解できる速度は落ちる。
また、時間がかかってしまう。そう思うと憂鬱な気持ちになった。
「皇太子殿下がおなりです」
寝室の入り口で皇太子侍従の声がした。はっとしたメリッサが身体を起こしかけると、それを目にしたイズリーシュが手で制した。
「メリッサ、構わないから楽にしていて」
イズリーシュは柔らかい声でメリッサに言った。努めてそうしていないと、今にも眉間に深い皺を刻んでしまいそうだ。
イズリーシュは怒っていた。こんなに激しく怒りを感じたことは、自分の人生においてなかったことだ。
どちらかと言えば、イズリーシュの人生は、諦観と義務感、焦燥で出来ている。唯一の皇子として生まれてしまったおのれの不運を呪っても仕方がないと諦めたのがいつのことだったか、もう覚えていない。周囲からの無邪気な称賛も期待も、イズリーシュにとっては呪詛のように思え、それが降り積もって身動きが取れなくなっていく、と感じていた。
どんなに現状を悲しんでも呪っても、変わることはない。唯一の皇子であり皇太子である事実は変わらない。それなら、自分自身が幸福になれなくとも帝国の民草が少しでも幸福と感じられるような政を行う皇帝になろう。
そう、自分に言い聞かせ、勉学に励み、人と接するときには当たりをよくし、敵をできうる限り作らないようにと心がけてきた。
その一環としての、メリッサへの求婚だった。継嗣がいない状態は、広大な版図を持つ帝国としてよくないことである。それを理解しながらも、おのれには子ができないという事実に打ちのめされ悩み迷っていた時に、メリッサの出現は天恵だと思えた。
そう、ただ、継嗣が欲しい、安定した帝国の運営を図る。それだけの筈だったのに。
メリッサの言動一つ一つがイズリーシュの心を刺激する。ふとした時に、メリッサは今頃何をしているのだろうかと考えてしまう。どんな贈り物をすれば喜ぶだろうか、どんな話なら身を入れて聞いてくれるだろうかと考えてしまう。
お茶会の時、初めて見たメリッサの心からの笑顔は、その後随分長いことイズリーシュの心をぎゅっと掴みしめていた。あの笑顔を思い出すと、なぜか心が痛む。胸の内がじくじくとして鼓動が早くなる。
おそらくはこれが恋であることを、イズリーシュは自覚している。
ただ、自覚したからと言ってどうすればいいのかが、よくわからない。
メリッサはイズリーシュの婚約者だ。候補、と名をつけてはいるが、イズリーシュの中でメリッサと婚姻することはもう決定事項である。
ただ。
メリッサの心が自分に傾かないまま、名実ともに伴侶となることができるだろうか。メリッサの心がないまま、伴侶の営みを行うなどとは考えたくなかった。
かといって、ではどうすればメリッサの心が得られるのか、それもわからない。イズリーシュは自ら誰かの関心を買おうとしたことはなかったのだ。
そうやって迷っているうちに、メリッサを傷つけられた。しかも自分が一番嫌いな人物に。
未だに母を小馬鹿にし、父に色目を使うあの中年女性がイズリーシュはたまらなく嫌いだった。自分に気色の悪い振る舞いを仕掛けてきたことも一度や二度ではなかった。ひとえに母のために我慢してきていたのだ。
血だらけのメリッサの顔を見た時、思わず腰の装飾剣の柄に手がかかった。後ろからソルンが抑えてくれていなければ、激情の赴くままにあの女を斬り捨てていたかもしれない。
ようやく気持ちを少し落ち着けてここに来たのだったが、寝台に座り、顔に痛々しく包帯を当てられたメリッサの姿を見れば、また心がキリリと痛む。
離れた場所で思わず立ちすくんでいると、侍女が寝台傍の椅子に腰掛けるよう促してくれた。
椅子にかけてから、もう一度メリッサに声をかけた。
「メリッサ‥全治二か月、と聞いた。随分、痛かっただろう」
メリッサは包帯の下からも微笑んだように見えた。
「いえ、大袈裟ですよ。今はほとんど痛みもないですし、大丈夫です。ちょっと血がたくさん出てしまったので、驚かせてしまいましたね」
なんでもないようにそう言ってくれるメリッサが、かえってイズリーシュの心をざわつかせる。いっそのこと先日のように心情を激しく吐露してほしい、とさえ思った。
「大袈裟、ではない。若い女性の、顔に‥傷を」
「あ、でも傷跡は残らないって先生は言ってましたから。それに私の顔くらいそんな傷がついたって」
「メリッサ」
イズリーシュは知らず身を乗り出してメリッサの手を掴んでいた。驚いたメリッサが思わず身を引いたのにもかかわらず、イズリーシュは握った手を離さなかった。
「あなただから、心配なんだ。あなたの顔に傷がついていいことなどない。私が、‥‥もっとしっかりして、あなたを守り切れていれば」
そう言って、イズリーシュはうなだれ、握ったメリッサの手に額を押しつけた。
「すまない‥」
メリッサは自分の手を握り、そこに額を押しつけているイズリーシュに戸惑って視線をうろうろさせた。こんな時、東宮の侍女たちは絶対に目を合わせてくれない。
「あの、殿下」
「‥‥を、」
「はい、え?」
かすれたような声で、弱々しくイズリーシュは言った。
「名を、呼んでくれ」
そう言えば名を呼んでほしいと、先日のお茶会の終わりに言われていたのだった。直接名を呼ぶのは、敬称がない場合、もしくはごく親しい間柄の場合と教わったのだったが。
ぐったりとメリッサの手に頭を持たせている目の前の青年は、確かに皇太子殿下なのだが、今はとても弱っているように見えた。
そんなに名を呼んでほしいのだろうか。自分のような者が呼んでもいいのだろうか。そんな逡巡の後、メリッサは小さく声を出した。
「イ、イズリーシュ様‥」
イズリーシュがゆっくりと顔を上げた。美しいその顔に、少しだけ赤みがさしている。瞳が潤んでいるようで、いつもより美しさに拍車がかかったように見えた。
薄桃色の薄い唇が開いて、メリッサを呼ぶ。
「メリッサ」
「はい」
「もう一度‥呼んでくれ」
「はい、あの、‥イズリーシュ様」
再びメリッサからたどたどしく呼ばれたイズリーシュの顔が、見る見るうちに赤くなった。その赤くなった顔を見ていたメリッサも、何だかいたたまれない気持ちになってきて思わず顔を伏せる。
(こういう時、誰も何にも言ってくれないんだよね)
メリッサはひそかに心の中で嘆息した。イズリーシュが照れている様子はかわいらしいとも感じるが、自分がどう振る舞えばいいのかがわからないので少し困る。仕方がないので少し俯いたまま、黙って待っているとイズリーシュがもう一度、ぎゅっと手を握ってきた。
「もう、ここにいるあなたに無体なことをする者はいないから、安心して養生してくれ」
「あ、はい、ありがとうございます」
イズリーシュの真剣な美しい顔を見てしまって、メリッサはまた恥ずかしくなって俯いた。美人もそうでない人も慣れるというが、一向に慣れる気がしない。
「皇太子殿下、そろそろお時間が」
後ろから控えめな声で侍従が言った。イズリーシュは握ったメリッサの手を見つめてから、そっとそこに唇を落とした。メリッサは驚きと緊張でぴしりと身体が硬直した。
「では、またお見舞いに来る。安静にね」
「は、はい‥」
ようやっとのことで返事をしてイズリーシュを見送ると、メリッサはそのまま後ろに倒れ込んだ。
お読みくださってありがとうございます。