嵐
先日キャンセルされていた経済の講義が入ったため、今日はかなり時間に余裕の持てない一日になっていた。経済学のハーレン卿は七十に手が届こうかという年配であったが、人柄は穏やかで明るく、小難しくなりがちな経済も身の周りのものになぞらえて面白く話してくれるので、メリッサは好きだった。今日はキャンセルされた時の分を合わせてたっぷり二回分、三時間余り話が聞けた。終わってみれば疲れはしたが、楽しい時間でもあった。
次の礼儀作法の実践の時間がすぐに迫っていたが、さすがにメリッサに疲労の色を見たリッチェが講師に連絡をして、三十分ほどの休憩を入れた。
薫り高い新茶を丁寧に淹れて、メリッサに供する。メリッサも一口それを口に含んだ後、ほうっと息を吐いて長椅子に背を預けた。やはり、疲れていたようだ。
「メリッサ様、もう少し休憩の時間を取りましょうか?‥お顔の色もあまりよくないようにお見受けしますし‥短い時間でも少し横になられてみては」
メリッサの様子を見ていたリッチェはそう言って声をかけた。しかし、身体を起こしたメリッサは、薄く微笑んで首を横に振った。
「出来ていないところもたくさんありますし。‥少しでも、マシになっていたいんです」
「左様ですか‥ですが、ご無理はなさらないでください」
「ありがとう、リッチェさん」
メリッサはそう言ってリッチェに笑いかけ、再び長椅子に背を持たせかけ、軽く目を閉じた。
その時、扉の向こうで何やら騒いでいるような気配がした。この部屋の扉はかなり頑丈で重く硬い木材で作られている。それでも物音が聞こえるというのは、相当に騒いでいるということだ。
リッチェは眉を顰め、メリッサの様子を見ながら素早く扉の方へ歩いた。隠し窓を少し開けてみれば、甲高い中年女性の声が聞こえる。
「私がわざわざここまで足を運んでやったというのに、会わせられないとはどういうこと?私の身分を何だと思っているの?」
反射的にリッチェはぴしゃんと隠し窓を閉めた。厄介な女が来たものだ。どう対応するのがいいか。今は護衛騎士が抑えているが、あの女は絶対にここに入るまで諦めないだろう。リッチェは扉から取って返し、次の間で衣類を整えていたキルウェに声をかけた。
「キルウェ、すぐに殿下の侍従に連絡を取ってちょうだい。裏の出入り口から出て東宮詰所に向かって。セロレーン夫人が押しかけてきている、とお伝えしてくれればきっと伝わるわ」
セロレーン夫人、の名を聞いたキルウェはさっと顔色を変え、頷いてすぐに裏の出入り口に向かい部屋を出た。
同じ部屋に取って返し、まだ長椅子にもたれたままのメリッサを確認すると、先に控えていた侍女のマリサに耳打ちをする。
「セロレーン夫人が来ているようよ。おそらくすぐにここに入ってくるでしょうから、記録用の魔適具を探してきて。部屋に戻ったらすぐに起動してくれる?」
「わかったわ、多分書棚に予備があったと思うから取ってくる」
「お願い」
そしてメリッサの傍によって、そっと肩を揺すった。メリッサが重そうに瞼をあげる。
「あ、ごめんなさい、少し‥寝ていましたか?」
「いえ、ほんのわずかな時間です。それよりもメリッサ様、今扉の向こうにセロレーン夫人が来ているようです」
「セロレーン夫人‥」
ぼんやりとした頭の中で、メリッサはその名前を反芻した。
現皇后陛下の姉君ではなかったか。
ばっとメリッサは身体を起こした。顔が青ざめてしまっている。拳をぎゅっと握ってリッチェの顔を見つめた。
「ど、どうしましょう、お客様を迎えるような仕度は何も‥」
硬く握られたメリッサの拳を、リッチェは優しく覆って撫でてやった。
「大丈夫です、私たちが何とか致します。‥‥おそらく、耳によくないことをおっしゃられるとは思いますが、メリッサ様はあまりお話にならなくても大丈夫ですから。ただ、笑顔だけを心がけていてくださいませ」
「‥はい」
メリッサの顔を見てリッチェは力強く頷き、扉の方に向かった。
そしてゆっくりと、少しだけ扉を開けた。
「‥‥ですから、皇太子殿下のお許しなく、貴族の方をこの部屋に通すわけには参りませんと申し上げております」
「私はイズリーシュの伯母なのよ?その私が会うと言っているのだから、イズリーシュの許可なんていらないでしょう?」
耳障りな甲高い声に、内心ため息をつきながらリッチェはその身体を扉の隙間に滑り込ませ、外へ出た。
セロレーン夫人‥現皇后陛下の姉であり、一代限りの侯爵位を賜っているセロレーン侯の妻、タシーナ=セロレーン。皇后陛下が皇太子時代の皇帝陛下に見初められた際にも、なぜ自分ではないのかと随分妹である皇后陛下につらく当たったらしい、という話は皇宮に勤めるものなら誰でも知っていることだ。
皇帝陛下夫妻の気遣いもあり、ようやくセロレーン侯と婚姻を結んだのに、それでもまだ、事あるごとに皇帝陛下に色目を使ってくる、‥‥そういった行いなどから「皇宮の鼻つまみ者」と陰で言われているような人物だった。
四十を過ぎてもなお、まだ年若い娘が着るような派手やかな衣装といっそけばけばしいと言えるような化粧をした姿で、セロレーン夫人はキッとリッチェを睨みつけた。
「お前があの平民付きの侍女なの?さっさと通しなさい!何と不敬な」
不敬はどっちだ、とその場にいたものすべてが思ったが、とにかく皇宮の常識が一切通じない人物なのだ。それでも筋を通すため、リッチェは一度は断りの文句を述べた。
「イズリーシュ皇太子殿下より、メリッサ様に貴族の方は何人たりとも会わせることまかりならぬと厳命を受けております。どうか、お引き取り下さいませ」
そう言って膝を引き、最上級の辞儀礼をした。
だが、セロレーン夫人は苛々と手袋を片方脱いで自分の掌をぱしぱしと打ちながら言い返した。
「貴族、でしょ?私は皇族よ!関係ないわ。お退きなさい!」
お前が皇族だったことは一度もない。またそこにいた全員がそう思ったが、口に出すことはできない。
セロレーン夫人はリッチェを身体で押しのけるようにして扉を大きく開き、メリッサの部屋の中に入り込んだ。
メリッサは緊張の面持ちで長椅子の横に立っていた。先ぶれも供もなく、いきなり入ってきた大柄な中年女性に、ぴしりと身体が固まった。
セロレーン夫人は、唯一メリッサがメイドの時に打擲してきた貴族だったのだ。
メイドになりたての時、お茶道具一式を調えてセロレーン夫人の控え室に持参した時、お茶の温度が熱いと言って、大きな指輪のついた手の甲で殴られた。
運が悪かった、と言ってメイド長も先輩メイドも、メリッサを叱ることなく慰め治療をしてくれたのだった。
しばらく腫れがひかなかったあの痛みを思い出し、メリッサの身体は強張った。
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