返事
大臣の一人が部屋を出ていった後、イズリーシュは大きなため息をついた。侍従のソルンが濃く淹れたお茶をその前に差し出す。ミルクピッチャーを置いて言葉をかけた。
「殿下、お疲れ様です。どうぞひと息お入れください。‥今日は会議が詰まっていて、お食事も召し上がっておられませんよね?」
そう言いながら、一口で食べられるほどの大きさに切ったサンドイッチののっている皿をも机に置いた。
イズリーシュは机上にあった書類をざっと片付けながら、また大きく息を吐いた。
「‥‥既得権益を削るっていうのがどれだけ大変なのかを、身をもって知らされてるよ‥」
ソルンは、少し困ったような顔で微笑んだ。侍従であるソルンは執務のことについて口を出す立場にはないが、イズリーシュがこういう時、何か言葉をかけてほしいと思っていることもよく知っていた。
「カンメル地区は、もともとあそこを牛耳っていたカルテルが長いですからね‥そこに手を入れる、というのは誰もあまりやりたがらないでしょうし」
「そのカルテルから甘い汁を献上されているやつもいるからな‥」
イズリーシュは苦々し気に呟くと、ティーカップの中にミルクを全部入れた。カップのふちまでいっぱいいっぱいになってしまう。
「おっと」
カップを机上に置いたまま口をつけてお茶を啜った。持てるほどの中身になってから手に取って飲む。ソルンは眉を顰めた。
「イズリーシュ様」
「ああすまない、ここでだけだから」
行儀の悪さを咎められ、イズリーシュは苦笑した。
ソルンはそんなイズリーシュの顔を見て微笑んだ。そもそもイズリーシュがこのような振る舞いをするのは、ごく内々の者たちの前でだけだ。「非の打ちどころのない皇太子」「輝ける皇太子」と呼ばれるイズリーシュは、ほとんど毎日、衆目に晒され気の抜けない生活をしている。
側近の自分の前でくらい自由にさせてやりたい、という気持ちもあった。
「ああ、そう言えばメリッサ様へのお手紙と贈り物はあちらにしっかり届いたようです」
ソルンが思い出したように言った。それを聞いたイズリーシュは、「そうか」と短く答えて動きを止めた。
カップを持ったままじっと沈思黙考している主人を見て、ソルンは心を痛めた。
この若く明晰な主人が、ずっと婚約者を持たないことには何か意味があるのだろうと、ソルンはずっと気にかかっていた。
そしてようやく、イズリーシュが見つけた婚約者は————平民の、メイドだった。
正直、イズリーシュが何を考えているのかよくわからない。ソルンも何度か面会したことはあるが、どう見ても、そのあたりにいそうなごく普通の少女にしか見えなかった。
特段美しいわけでも居ずまいが素晴らしいわけでも、頭脳明晰なわけでもない、普通の少女。
しかし、イズリーシュは頑なに彼女としか結婚はしないとまで言い切り、婚約者候補として東宮に留め置いている。
ソルンは自分の主を心から尊敬しているし、主の判断には従うつもりだ。
だが、あの少女は‥今になってもイズリーシュに全く心を開いていないように見える。味方ばかりとは言えない皇宮の中で、日々執務に追われるイズリーシュにはせめて温かい家庭を持ってほしいとソルンは思っていた。
そもそも、ここまでイズリーシュに心を砕かせるとは何様のつもりであろうか。これといって秀でたところもない平民に過ぎないのに、わが主のことを軽んじすぎではないだろうか。
‥‥おそらくこういったソルンの心がわかるのだろう、メリッサ付きの侍女はいつも非常に冷たい受け答えをしてくる。特にあのリッチェという侍女はそれが甚だしい。
「殿下、お召し上がりになりませんか?後二十分ほどで、クアレ選王国の国使との会談になりますが」
じっと固まったままのイズリーシュに、ソルンは小さく声をかけた。イズリーシュははっとしたふうで、目の前の皿に機械的に手を伸ばした。
そのままゆっくりと小さなサンドイッチを口にするイズリーシュを見て、またソルンはやりきれない気持ちになる。
あの、平民の少女が来てから主の精神状態はどうも落ち着かないような気がするのだ。本当に主のためを思えば、あの少女は排除すべきなのかもしれない。しかし主が色々とあの少女に対して心を砕いているのを見ているだけに、ソルンはその決心がつかなかった。
コンコン、と控えめなノックの音がした。自分が執務室に入っている時はノックをするなと言い置いているのに、とソルンは苦い気持ちを抱えながらドアを開けた。
そこにいたのは東宮の侍女だった。
「執務中に失礼致しまして申し訳ございません。イズリーシュ殿下へメリッサ様よりの書状をお持ち致しましたので、ご入室の許可をいただきたくノックを差し上げました」
「メリッサから?」
ソルンが応答する前に、素早くイズリーシュが立ち上がった。そのままつかつかとドアまでやってきて、手ずからその書状を受け取った。侍女は小さくお辞儀をしてから後ずさり、下がっていった。
文箱を開ければ、ふわりと花の香りがした。そう言えばいつも、メリッサの部屋には花が飾ってあった事を思い出す。
イズリーシュは中から封筒を取り出し封を切ってから、手を止めた。
メリッサから手紙が来るのは初めてだ。
どのようなことが書いてあるのか。
また、恨み言かもしれない。解放してくれという、イズリーシュが聞き入れられない嘆願かもしれない。
イズリーシュは便箋を閉じたまま、ふうと深呼吸をした。
そして思い切って便箋を開き、その文面を見た。
イズリーシュ殿下
贈り物をありがとうございます。リッチェさんに綴りや言い回しがおかしくないか、見てもらいながらお返事をしたためております。
私は、嫌な人間でした。殿下も色々とお苦しみのはずなのに、そこに私の思いは至っていませんでした。
殿下の優しさに甘えてしまっておりました。
申し訳ございません。
殿下は私と違ってたくさんのお仕事があり、お忙しいのは承知しております。ですから、私のところを訪れるために、という無理はなさらないでください。
いただいたご本は大切に読ませていただきます。
お菓子はもういただきました。とても美味しかったです。ありがとうございます。
素敵なバングルは、私がつけられるだけの人間になれた時に、使わせていただこうと思っております。
今はとてもお忙しいと伺っております。お身体を大切にお過ごしください。
お返事などは気になさらないでください。
メリッサ=ロント
ところどころ、皇太子妃としてなら拙い文章もあったが却ってそれがあることで、この内容がメリッサの心から出たものであるのだ、ということがわかる、そんな手紙だった。
イズリーシュはずっと、その手紙を見つめたままじっとして動かない。ソルンはそっと声をかけた。
「殿下、お時間が迫っております、どうか少しでも軽食をお召し上がりください」
その言葉に弾かれたようにイズリーシュは顔を上げた。ぎくしゃくと席に座って、また機械的に食べ始める。
その様子を窺いながら、ソルンは少し自分の認識を改めた。
お読みくださってありがとうございます。




