鏡よ鏡、正直に答えて!(百合注意)
暗い城の一室。かつては華やかだったはずのその場所は、今では冷たく重たい静寂に包まれている。壁に掛けられた巨大な鏡がかすかな光を放ち、その前に立つ女性――魔女が、鏡の中に映る自分をじっと見つめていた。
長い年月、魔女はその美しさを保つために全てを捧げてきた。魔法を操り、外見を磨き上げ、その姿は誰もが目を奪われるほどに完成されている。しかし、彼女の心には満たされない空虚が広がり、その美しさの中に見え隠れするものに怯えていた。
彼女の唇がかすかに動き、その声は城の暗がりに溶け込むように静かに響く。
「鏡よ、鏡、正直に答えて。この世で最も美しいのはだあれ?」
鏡は一瞬の沈黙を経て、淡々とした声で答える。
「それは、あなた様でございます、魔女さま」
その答えに、魔女の唇は一瞬だけ微笑みを浮かべる。しかし、その微笑みはすぐに冷たい笑みに変わり、瞳には深い冷ややかな光が宿る。
「嘘よ、そんな訳ないわ」
彼女は鏡に映る自分の姿を見つめ続ける。透き通るような肌、精巧に整えられた髪、そして鋭い目つき。外見の美しさを手にしていながらも、彼女はその美しさを信じることができなかった。
なぜなら、彼女の心には、他の誰よりも眩しく輝く存在がいたからだ。
魔女が心の中に描くのは、白雪姫の姿。
彼女の存在は、まるで遠くから届く柔らかな光のように、魔女の心に静かに触れていた。白雪姫の無垢な美しさ、彼女の微笑み、そのすべてが魔女の胸に微かな痛みと甘い感覚を同時に残していく。まるで、彼女の存在が魔女の中でそっと囁くかのように。
その囁きは、まるで夜の空に浮かぶ星が、闇を切り裂いて一筋の光を投げかけるようなものだった。その光は、魔女の心の中で見失われた何かを呼び覚まし、彼女の胸を締め付けた。それは羨望でも、嫉妬でもなく、もっと深いところに沈んだ感情――しかし、それを表に出すことはできなかった。
「この世で最も美しいのは……彼女よ」
魔女が白雪姫を初めて見かけたのは、王宮の庭園だった。冷たい城の暗がりを離れ、久しぶりに外へと足を踏み出した彼女は、無意識のうちに人目を避け、ひっそりと王宮の庭に辿り着いた。
そこは春の息吹が感じられる美しい場所で、色とりどりの花々が咲き誇り、柔らかな陽光が木々の間から差し込んでいた。風が木々を通り抜けるたび、花々の甘い香りが彼女の心をくすぐり、まるで忘れていた何かを呼び覚ますかのようだった。
その場所で魔女の目に最初に映ったのは、白雪姫の姿だった。その瞬間、まるで世界が静止したかのように感じられた。白雪姫は大きな白い花に顔を近づけ、その香りをそっと楽しんでいた。彼女の真っ白な肌は、夜明けの霧が溶けるような柔らかさを持ち、髪は星明かりを吸い込んだように深く輝いていた。風が彼女の髪を優しく撫で、その瞬間、魔女の中で何かがそっと目覚めた。
魔女は胸の奥で小さな火が灯るのを感じた。その火は、言葉にできないほどの甘さと、切なさを含んだものだった。白雪姫の姿は、夜空に浮かぶ一番星のように輝き、魔女の心を引き寄せた。彼女が感じたのは、ただの憧れや羨望ではなく、もっと深い何か――まるで、長い間忘れ去られていた宝石が、突然光を取り戻したかのような感覚だった。
白雪姫が花に語りかけるかのように優しく触れるその姿に、魔女は息を呑んだ。白雪姫の指が花弁に触れるたび、その花が生き生きとした輝きを放ち、まるでその指先に宿る魔法が全ての命を目覚めさせているかのようだった。白雪姫の動きは、風が吹き抜ける草原のように穏やかで、同時に心を揺さぶる力を持っていた。
その瞬間、小鳥たちが白雪姫の周りに集まり始めた。彼女の周囲には、まるで目に見えない絹の糸が張り巡らされ、その糸が全ての命を引き寄せているかのようだった。白雪姫は微笑みを浮かべ、小鳥たちと共に楽しげに囁き合い、その声は風に乗って魔女の耳に届いた。その声は清らかで、澄んだ小川が岩を越えて流れるかのような響きを持っていた。
白雪姫の微笑みは、冷たい氷が初夏の陽射しで溶け出すように、魔女の心の闇を少しずつ和らげていった。
この娘は……まるで光そのもの。魔女は心の中でそう思った。白雪姫の存在は、魔女の胸に閉じ込められた冷たい影を消し去り、そこに新たな温もりをもたらした。彼女の周りに漂う光は、まるで冬の夜が明け、初めて訪れる春の日差しのように感じられた。
そのとき、庭師の一人が近づいてきて、白雪姫に花の世話を頼むための道具を渡した。白雪姫はその庭師に対して、深く感謝の言葉を述べ、何度も頭を下げた。その仕草は、彼女がいかに人々を大切にし、敬意を持って接しているかを如実に物語っていた。魔女はその様子を見て、白雪姫がこの世界の全てを愛し、全てのものに対して無限の慈しみを持っているかのように感じた。
庭師が去ると、白雪姫はすぐにその手で土を触り、花を植え直し、葉を優しく撫でた。その手つきは、まるで一つ一つの花が彼女の心の中に息づいているかのようだった。彼女の手が触れるたびに、魔女は自分もその温もりに触れられることを夢見ずにはいられなかった。
魔女はその光景を、息を呑むように見つめていた。白雪姫の行動は、彼女の外見の美しさだけでなく、その心の内に秘められた純粋な愛と慈しみをも浮き彫りにしていた。
「嘘よ……こんなに美しい娘がいるの?」
その優しさは、魔女の心の奥深くまで届き、彼女がこれまで感じたことのない感情を呼び起こした。それは、甘くて苦い蜜のような感情で、魔女の心を強く揺さぶった。
白雪姫が一息ついた後、彼女は立ち上がり、再び庭を見渡した。すると、魔女の存在に気づいたのか、白雪姫は柔らかな笑みを浮かべながら彼女の方へ歩み寄ってきた。白雪姫の微笑みは、魔女の心の奥深くまで届き、その一瞬、魔女は自分の醜さを全て見透かされたような感覚に襲われた。その感覚は、まるで心の奥に秘めた秘密が暴かれたかのようであり、魔女の胸に鋭い痛みを走らせた。
「こんにちは」
白雪姫は、まるで昔からの知り合いに挨拶するかのように、親しげに声をかけた。その声は、魔女の心に温かい光を灯すようであり、彼女は思わず言葉を失った。白雪姫の言葉は、まるで春の訪れを告げる鳥のさえずりのように、魔女の心に希望をもたらした。
その瞬間、魔女は自分がどれほど弱く、脆い存在であるかを痛感した。彼女は白雪姫の前では、自分の本当の姿を隠しきれないと感じたのだ。心の中に湧き上がる恐怖と羞恥心が、魔女を動かした。白雪姫に自分の心を知られてしまうことが、何よりも恐ろしかった。
「すみません……」魔女はかすれた声で言いながら、白雪姫の手をそっと振りほどき、急いでその場を立ち去ろうとした。自分の醜さを白雪姫に見られるわけにはいかない。彼女に自分の汚れた心を知られる前に、早くここから逃げ出さなければならない。
白雪姫が驚いたように「どうしましたか?」と問いかける声が背後から聞こえたが、魔女は振り返ることなく、足早に庭を後にした。彼女の心臓は激しく鼓動し、冷たい汗が背中を流れる。まるで自分の心が暴かれるのを恐れるように、彼女は一刻も早く白雪姫から遠ざかりたい一心だった。
魔女は城の暗い廊下を駆け抜け、自分の部屋に戻ると、鏡の前に立ち尽くした。息を整えながら、自分の顔を見つめる。そこに映るのは、かつての美しい外見を保ちつつも、その内側に醜さと自己嫌悪が渦巻く自分の姿だった。
「これが私……こんな私が、白雪姫にふさわしいはずがない……」魔女は自分に言い聞かせるように呟いた。彼女の心には、白雪姫の無垢な美しさと自分の醜さが対照的に浮かび上がり、その差に絶望するばかりだった。
それは、彼女が決して手に入れることのできない光に対する焦がれるような切望――まるで彼女自身が影に閉じ込められた存在であるかのように、白雪姫という光に触れることを夢見ては、すぐにその夢を打ち砕かれてしまう。
それ以来、魔女は白雪姫の前に出ることを避けるようになった。彼女の心はまるで迷子の蝶のように、光に引き寄せられながらも、その光に触れることを恐れていた。だが、その一方で、彼女の胸の奥に灯った小さな炎は、どうしても白雪姫の姿を追い求めずにはいられなかった。魔女はひっそりと、影の中から白雪姫を見守り続ける日々を送るようになった。
王宮の庭で花を愛でる白雪姫の姿、動物たちと無邪気に戯れる姿、宮廷の人々に優しく接する姿――そのどれもが、魔女の心を複雑に揺さぶった。白雪姫の微笑みは、柔らかな春の風のように魔女の心に触れ、そのたびに彼女は自分の中に眠る感情を抑えきれなくなるのを感じた。
遠くから白雪姫を見つめる魔女は、その純粋さにますます惹かれていったが、同時に自分が決して彼女にふさわしくない存在だという思いが、冷たい鎖のように彼女の心を締め付けた。
夜になると、魔女はひっそりと白雪姫の部屋の近くに立ち、灯りの漏れる窓越しに彼女の影を見つめた。白雪姫が静かに本を読んだり、優しい歌声で子守歌を口ずさむその姿は、まるで月の光が夜の静けさの中に優しく降り注いでいるかのようだった。魔女はその光景をただ遠くから眺めるだけだった。彼女に近づくことが許されない――それを痛感しながらも、白雪姫の美しさに心を奪われ、抑えきれない感情が胸の中で渦巻いていた。
彼女の美しさは、まるで雲の切れ間から差し込む太陽の光のように、魔女の心の闇を一瞬だけ照らし出し、その後に深い影を残した。魔女はその光に手を伸ばしたかったが、同時に自らの醜さに気づかされ、その手を引っ込めてしまう自分を憎むばかりだった。
そして、その醜さが白雪姫に知られてしまうことへの恐れから、彼女はますます自分を閉ざしていった。
それでも魔女は、白雪姫を見守り続けることをやめられなかった。彼女の無邪気な笑顔や、周囲の人々に与える優しさは、まるで冬の寒さの中に差し込む一筋の光のように、魔女の心をわずかに暖めた。その瞬間、魔女はまるで自分もその光に包まれることを許されたかのように感じたが、その感覚はすぐに消え、代わりに深い孤独感が彼女を包み込んだ。
魔女は毎晩、鏡の前に立ち、自分の姿を見つめ続けた。そこに映るのは、外見だけは美しいが、その内面には暗い影を抱える自分自身。その姿は、まるで暗闇に囚われた影のようであり、光を求めながらもその光に触れることを拒む自分自身を象徴していた。
その姿を見つめるたびに、魔女の心はさらに深い闇へと沈んでいき、白雪姫への切ない想いが彼女の胸を苦しく締め付けるばかりだった。
魔女は、暗い部屋の中で再び鏡の前に立っていた。日々の習慣のように、彼女は問いかける。
「鏡よ、鏡、正直に答えて。この世で最も美しいのは誰?」
鏡は、いつものように静かに答える。
「それは、あなた様でございます、魔女さま」
しかし、その答えはもう魔女の心には届かない。彼女の思いは、すべて白雪姫に向けられていた。白雪姫の純粋な美しさ、その輝きは、魔女の胸に鋭い痛みを与え続けた。自分がいかに劣っているか、いかに醜いかを思い知らされるたびに、魔女の心には絶望が深く染み込んでいった。
鏡はそれでも、彼女の美しさを語り続ける。
「あなたは美しい、あなたの中には真の美しさがある」
だが、その言葉はもはや魔女にとっては空虚な響きに過ぎなかった。白雪姫の無垢な美しさに比べ、自分は決してそのようにはなれないと痛感するたびに、彼女の心の闇は深まっていくばかりだった。
その暗い感情に支配されるように、魔女は一つの決断を下した。彼女は城の奥深くにある秘密の部屋に向かい、かつて使ったことのない古い魔法の書を取り出した。そのページには、邪悪な毒リンゴの作り方が記されていた。
魔女は深い溜息をつきながら、書の指示に従って材料を集め始めた。暗闇に潜む不気味な植物、枯れ果てた森から摘んだ毒草、そして自らの血を一滴。その全てが、毒リンゴを完成させるための材料だった。
「これが……私の真実の姿だわ」
魔女は震える手で材料を混ぜ合わせながら、自分自身に語りかけた。純粋さを持つ白雪姫に対し、これほどまでに醜いことをする自分――まるで魔女は自らの醜さを証明しようとしているかのようだった。
毒が調合され、赤いリンゴの果皮がゆっくりとその毒を吸収していく様子を見つめながら、魔女の心には複雑な感情が渦巻いていた。憎しみ、自己嫌悪。そして何よりも、自分が愛される価値がないと信じる絶望感。
「これで全てが終わるのよ」
魔女は自分に言い聞かせるように呟いた。彼女はリンゴを手に取り、その艶やかな表面に映る自分の顔をじっと見つめた。その顔には、もはやかつての美しさは残っておらず、ただ憎悪と哀しみに染まっていた。
毒リンゴが完成したその瞬間、魔女は再び鏡の前に立った。彼女はリンゴをしっかりと握りしめ、最後の問いかけをするために鏡を見つめた。
「鏡よ、鏡、この世で一番美しいのはだあれ?」
鏡は一瞬の静寂の後、輝きを増し始めた。そして、いつもの答えではなく、魔女にとって思いもよらない映像を映し出した。
鏡の中に現れたのは、幼い頃の魔女の姿だった。
鏡の中に映し出された光景は、彼女の記憶の中で色褪せたはずの過去を鮮やかに蘇らせた。幼い頃の魔女は、無邪気な笑顔を浮かべ、一つのリンゴを友達と分け合っていた。その小さな手に握られたリンゴは、目の前の毒リンゴとは違い、純粋な喜びを象徴するように赤々と輝いていた。
「りんご、一個しかないの。一緒に食べましょ!」
幼い魔女の声は、まるで遠くから響いてくる懐かしいメロディのように、彼女の心に優しく染み渡った。その声には、何の曇りもなく、ただ友達と幸せなひとときを共有したいという純粋な思いが込められていた。
魔女はその光景を見つめ、心の奥底から何かが崩れ落ちるのを感じた。かつての自分が持っていた無垢さ、他者を思いやる心――それらが、自分の心の中で忘れ去られていたことに気づいた瞬間、彼女の手に握られていた毒リンゴが震えた。まるで、その毒が彼女の心を蝕んでいたことを改めて認識させるかのように。
「私は……」魔女は、知らず知らずのうちに流れた涙を拭いながら、震える声で呟いた。「私はこんなにも変わってしまった……」その言葉には、悔恨と失われた時間への深い後悔が込められていた。
かつての自分は、こんなにも美しい心を持っていたはずだった。しかし、その美しさは、年月と共に闇に覆われ、今では手の中の毒リンゴに象徴されるように、醜さと憎しみに染まってしまった。
魔女は心の奥底から何かが崩れ落ちるのを感じた。手に持っていた毒リンゴが震え、涙が知らず知らずのうちに彼女の頬を伝って流れた。
魔女は完成した毒リンゴを手に取り、その艶やかな表面をじっと見つめた。毒が染み込んだ赤い果実は、まるで彼女の心の闇を象徴しているかのようだった。手の中のリンゴが冷たく感じられるたびに、自分がどれほど深く絶望と憎悪に囚われているのかを思い知らされる。
しかし、その瞬間、魔女の心にふと別の感情が湧き上がった。もしも、毒リンゴではなく、ただ普通のリンゴを白雪姫に渡して、彼女と仲良くなれたのなら――もしも自分がそんな素直な心を持っていたならば……。
魔女は目を閉じ、あり得ない未来を思い描き始めた。
その未来では、魔女は白雪姫に近づき、ただの美味しいリンゴを差し出す。白雪姫は魔女の差し出したリンゴを見て、微笑みながら感謝を述べる。「ありがとう、いただくわ。あなたも一緒に食べましょう」その言葉には、何の疑念もなく、ただ純粋な喜びが込められている。
二人は並んで座り、リンゴを一緒にかじる。魔女が一口かじると、甘くて柔らかな果肉が口の中で溶けていく。リンゴの甘みは、まるで白雪姫との時間を共有する喜びのように感じられた。果汁が口の中でじわりと広がり、その瞬間、魔女は一瞬自分がこの果実のように純粋な存在になれたかのような錯覚に陥る。
白雪姫は、楽しそうに魔女と会話を交わしながらリンゴを食べ続ける。その笑顔は、まるで二人がリンゴを分け合うことで生まれる友情の甘さそのものを象徴しているかのよう。リンゴの甘さと、白雪姫との時間がもたらす心地よさが、魔女の心に溶け合い、一つの温かな感情として広がっていく。
もし本当にこうなれたなら、どれほど素晴らしいだろう。魔女は心の中で呟いた。白雪姫と共に過ごす甘美な時間が、まるで夢のように彼女の心を癒していく。リンゴの甘みと二人の会話が絡み合い、果てしない幸福感が彼女の心を満たしていった。
しかし、目を開けると、手にしているのは毒を含んだリンゴ。希望の光が見え隠れする一方で、毒リンゴの冷たい感触が彼女の決断を阻んでいた。魔女は再び現実に引き戻され、甘い空想は霧のように消え去った。
しかし、その一瞬の幻想は、魔女の心に微かな希望の光を残した。もしも、白雪姫と共に毒のない甘いリンゴを分け合うことができたなら――その夢が、彼女の心をわずかに揺さぶり続けていた。
彼女は自らの心の闇を振り払おうとしたが、その闇は深く根を張り、どうしても抜け出すことができなかった。白雪姫との甘い空想が、今ではただの無意味な夢のように思えた。自分にはそんな未来は訪れるはずがない――自分は、彼女にふさわしくない存在なのだ。
その時、不意に鏡が微かに光り、問いかけもしないのに、再びその声が部屋に響き渡った。
「魔女さま、あなたは美しい」
魔女は驚き、鏡の方を振り返った。鏡は淡い光を放ちながら、静かに彼女を見つめ返していた。その言葉は、これまで何度も聞いてきたはずの言葉だったが、今は違った響きを持っていた。魔女はその言葉に一瞬戸惑い、言葉を失った。
「魔女さま、あなたは美しい」
その言葉が心に響くたびに、彼女の中で何かが揺らぎ始めた。自分が美しい――そう鏡が告げるその言葉には、今までとは違う意味が込められているように感じられた。
魔女は再び毒リンゴを見つめた。そして、毒が入っていないリンゴも手に取ってみる。この手はどちらの道を選ぶのかで揺れ動いていた。
――
魔女は手の中に冷たく重たいリンゴを握りしめながら、ゆっくりと白雪姫のもとへ歩み寄った。夕暮れの庭は、まるで絵画のように静かな美しさを湛えていた。風がそっと木々を揺らし、夕陽が花々に柔らかな光を差し込む中、白雪姫は一人、花壇のそばで微笑んでいた。
その姿は、まるで大地に咲く純白の花のようだった。彼女の周りには、自然の息吹が優しく寄り添い、全ての生き物が彼女の美しさに見惚れているかのように感じられた。魔女はその光景に一瞬心を奪われ、足を止めた。白雪姫の姿は、太陽が沈む瞬間の最後の一筋の光のように、儚くも美しく輝いていた。
魔女は震える手でリンゴを握りしめたまま、一歩一歩白雪姫に近づいた。彼女の心は、まるで嵐に巻き込まれた船のように揺れ動いていた。希望と絶望、愛と憎しみ、その全てが彼女の胸の中でぶつかり合い、どちらに向かうべきかを見失っていた。
「こんにちは、白雪姫」魔女は、精一杯の微笑みを浮かべて声をかけた。その声は、まるで氷のように冷たく固くなっていたが、内心では柔らかなぬくもりを求めていた。
白雪姫はその声に気づき、振り返って魔女を見つめた。彼女の瞳は、深い森の中に差し込む朝の光のように澄んでいて、魔女の心をまっすぐに見通しているようだった。白雪姫の微笑みは、まるで春の暖かな風のように、魔女の心の壁を少しずつ溶かしていくように感じられた。
「こんにちは」白雪姫は、柔らかな声で返事をした。その声は、遠くから響いてくる鈴の音のように美しく、魔女の胸に染み渡った。
魔女は、心の中で再び葛藤を抱えながら、リンゴを差し出した。夕陽の光がリンゴの赤い表面に反射し、それはまるで魔女の手の中で燃える炎のように輝いていた。
「美味しいリンゴ、いかがですか?」
魔女の声は震えていたが、それでも彼女はリンゴを白雪姫の手に渡そうとした。その瞬間、リンゴの重さが彼女の心の重さと一体となり、手が一瞬止まりそうになった。
白雪姫は、魔女が差し出すリンゴを見つめ、その美しさに目を輝かせた。「まあ、なんて素敵なリンゴ!」彼女は喜びを隠さず、その純粋な感動を魔女に伝えた。その無邪気な笑顔は、魔女の心にまるで夏の夜に咲く花火のように、一瞬の光と共に消えてしまうかのような希望をもたらした。
「どうぞ、お召し上がりください」魔女は、内心で嵐のように渦巻く感情を押し殺しながら言った。彼女の声は、風に流されるようにかすかに響いた。
白雪姫はリンゴを手に取り、その滑らかな表面を指で撫でた。その仕草は、まるでリンゴが宝石であるかのように、慎重で優しかった。彼女は魔女に微笑みかけ、感謝の言葉を口にした。
「ありがとう、嬉しいわ」
魔女は、その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられるような痛みを感じた。白雪姫の感謝の言葉は、まるで鋭い刃のように彼女の心を貫いた。
白雪姫はリンゴを口元に運ぼうとした。その動きは、まるで時がゆっくりと流れているのように魔女の視界に映り、その一瞬が永遠のように感じられた。リンゴが白雪姫の唇に触れるその瞬間、魔女の心の中では再び葛藤が巻き起こった。
リンゴが白雪姫に何をもたらすのか――それは、まるで運命が決めた裁定のように、魔女の手を離れてしまった。
白雪姫の唇がリンゴに触れるその瞬間、夕陽が完全に沈み、庭は静寂に包まれた。リンゴが持つ運命が何であるのか、今の魔女には知ることはできない。
ただ、その瞬間が彼女の心に永遠に刻まれることだけが、確かだった。
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