8
数日後から、オルダーンの兵士たちは度々ケイラの家へ訪れた。
誰もが「城へ来てください」と言う。
ケイラはその言葉の先にあるものをわかっていた。
ケイラはどの兵士の頼みも即座に断り、居留守を使うことさえあった。
「いいのか」とブブが心配するくらいの間、ケイラはずっと兵士たちを無視し続けていた。
そんなケイラにある日兵士が手紙を一通渡した。
開けてみると、王直筆のものだった。
書いてある文章はほんの少し。
“力を貸すと言ってくれただろう”
切実な彼の表情が浮かんで、はっと胸をつかれた。
言ってしまったことを後悔してももう遅い。
ケイラはちらと机の上に置いた仮面を見た。
前に城を訪れてからだいぶ経っていた。
怒られるだろうか、とぼんやり考える。
兵士は前と同じ道で一番上の階へと案内した。
部屋にはセオンがかしこまり、無言で奥の部屋へとうながす。
「入るぞ」
声を張れず、自分の前で虚しく消えた。
自然とローブを握りしめる。
「来てくれてありがとう」
シャンも静かに言った。
彼の顔を見れなかった。そうなってしまったのは自分の責任のような気がした。
「君がいないと、この国は滅んでしまう」
「私は力になると言った。それは変わらない」
ケイラはやけになって、彼に詰め寄った。
「私はクレアなんだ」
我慢するのはもうこりごりだった。
王子はぽかんとしている。
「クレアはこの間舞踏会に…」
ケイラはそれを確認してから、ごくりとつばを飲む。
怖かった。
勇気を出して、そっと仮面を外す。
きっと彼も初めて姿を見せたとき、同じ気持ちだったろう。
シャンの瞳はケイラをじっと見つめる。
しばらく時計の針がとまったかのように思えた。
ケイラの心臓は秒針と重なり大きく鳴る。シャンの口が小さく動く。
「…クレア」
景色がにじんだ。十年間さまよい続けて、やっと出会えたのだ。
「クレアだね」
しっかりしたシャンの言葉。
彼が手を伸ばそうとしたので、ケイラは一歩後ずさった。
「すまない。幼い頃の記憶を失くしてしまったんだ」
二人の間に沈黙が流れた。
「そのかわりに、デンの娘として、王子の呪いを解いてみようと思う」
「そんなことができるのか」
ケイラはこくりと頷いた。
目を閉じてシャンの中のエネルギーを辿る。
何本もの糸がからまっていて、それを丁寧に外していく。
呪いの魔法を全て解き放った。
目をつぶりすぎて、開けても景色がちかちかとした。
シャンがわずかに輝いた気がした。
「呪いが解けたのか?魔法ではなくて?」
「ああ」
魔法の力を使わずとも、彼はこの世のものとは思えないくらい美しかった。
「ありがとう、クレア。立派な魔法使いになったんだね」
親しげな彼の表情に、自然と頬がゆるむ。
夢で見てきた笑顔と一緒だった。
しかし、今はもうただの魔法使いでは応えきれないほど、遠い存在だった。
「そう。あなたは王に」
名前は呼べなかった。
「城においでよ、クレア」
無邪気に彼は言った。
その言葉の意味を聞く勇気はなかった。
「少し考えさせて。わたしにも育ててくれた人がいるから」
「そうか。ともかく会えてよかった。もうこの世にいないんじゃないかと思ってたんだ。けれど、あの舞踏会の夜、名前は違ったけど、君に会えたと思ったんだ」
口を結んで話を聞いていたケイラだったが、エラの輝く笑顔が浮かんだ。
「エラと話がしたい。会ってきてもいい?」
許しをもらいに行くわけではない。
エラに会えば揺らぐ気持ちがしっかりすると思えたのだ。
シャンはケイラの様子を心配し、そっと肩に手を置いた。
「大丈夫?エラはこの階の王室の右隣だよ」
ケイラは軽くうなずき、「ありがとう」と部屋を後にした。
王室はまだ閉まりきったままだった。
ここを通るたびに、アーク王の衰えた顔、マーリンの声を思い出す。
過ぎたところにもう一つ部屋があり、ちょうど召使いが「エラ様、掃除の方が終わりましたので、失礼します」と頭を下げて出ていく。
ケイラは立ち止まった。
足は迷うことなくまっすぐエラの部屋へと向かった。
なんの言葉もかけず、ケイラは静かに扉を開けた。
ハトに連れられたあの日と重なる。
しかし今度は床に這いつくばってはおらず、椅子にちょこんと座って小さな窓から差す光の方を見ていた。
彼女の後ろ姿はマリアと重なった。
丸い小さな背中は悲しげに見える。
そっと入ったつもりだったが、エラは気付いたようだ。
姿勢は変えずに「どちらさまですか」と鈴が鳴るような声音で聞いた。
「あの魔法使いだ」
静かに答える。するとエラは嬉しそうに振り返って笑った。
「まあ、あのときの。あの時は本当にありがとうございました。ずっとなにかお礼がしたかったんです」
エラの目はケイラをとらえなかった。
半開きで、濁った水たまりのようだった。
「礼はいらない。それより、目が見えないのか」
エラは相変わらず楽しそうだった。
「はい。視力を失いました。シャン様にどうしても会いたいと言ったら、そのかわりに」
彼女は恨むことも悔やむこともせず、ただシャンを想って幸せそうだった。
ケイラは泣きそうになって唇をかむ。
目を失わせる目的が、嫌でもわかってしまった。
「すまない」
彼女の顔もどうしても見れなかった。
「どうして謝るのですか。私は魔法使いさんにお姫様にしてもらえて、とても嬉しかったんですよ」
「王子様とはうまくいってる?」
「ええ。あまり会えないけど。とても優しいです」
他人の口から語られるシャンは、知らない人のように思えた。
これでいい、と自分に言い聞かせる。
「これからは会えるようになるだろう。幸せになってくれ」
彼女はまだ飛べる。明るい光が道しるべをしてくれるだろう。
ケイラはそれだけ言うとさっと部屋を出た。
軽やかに階段を下り、外に出る。
温かい午後の日差しだった。
ブブの気持ちよく眠る姿が浮ぶ。
陽光に照らされた城は、ベールに包まれたようにどこか別の世界のように感じた。
歩いて行くと、ケイラの姿を見て衛兵が跳ね橋を下ろしてくれた。
「馬車でお送りしましょうか」と一人の兵士が尋ねる。
「いや、けっこうだ。ありがとう」
今はこの王国のだれにも関わりたくなかった。
歩いて丘を下りながら、賑やかな城下町を見降ろす。
兵士に頭を下げられながら城門をくぐると、街が目の前に広がった。
一瞬足がとまった。
城壁に背をあずけて一人腕組みしている人物がいたのだ。
その人の容姿、オーラが直接見なくても伝わってくる。
その人物は片手を上げてにこっと笑う。
「やあ、ケイラ。久しぶりだね」