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竜の魔女と混血の騎士  作者: 与瀬啓一
第1章~竜の守り人と混血の騎士~
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09.私はどうしたいの?

「逃げるぞ」


 差し伸べられた男の左手をリンファは払い除けた。


「結構よ。私は兵団まで戻るわ。あなた一人でどこかに行けば? 反逆の騎士さん」


 男は困った顔をした。無理もない、苦労して連れ出した者が牢屋に帰りたいというのだから、それは至極当然な反応だろう。そんな顔にリンファは腹が立った。睨むような視線を男に向ける。


「……誰が、逃がしてなんて頼んだかしら」


 男が一歩、リンファに近づく。


「あのまま兵団に居れば、お前は酷い目に遭うところだったんだぞ」


「別に構わないわ。首を斬られようが火で炙られようが、私は私の目的を果たせばいいの」


「……本気で言っているのか」


「ええ」


 頷くと、男は右手に握る槍を落とし、その両手でリンファの肩を激しく掴んだ。


「……死ぬ程度じゃ、済まされなかったんだぞ!」


「あら、それは結構なことね。死よりも衝撃のある事実なら、神々もご満悦よ」


 死ぬ程度では済まされないとなると、やはり拷問か何かだろうか。苦しいのは正直嫌だが、この際もう何でもいいのだろう。正義の旗を掲げるには十分な土壌だ。


 男が俯き、口を開いた。


「あのまま牢に居れば、お前は国王に飼われていた」


 肩を掴む手に力が入った。男は続ける。


「お前の牢に、髭を蓄えた老人が来たはずだ」


「……ええ、来たけど」


「あれは、アーガルズの国王だ。俺と同じ〈混血〉で、俺と異なり人間として生きることを半ば辞めた男だ。お前はアレに飼われるところだったんだ。甚振り、嬲り、辱め、調教し、服従させる。国王はお前を、そういう道具として扱おうとしていた」


 男は歯を食いしばっていた。


 リンファはそれを聞いた途端、自身の鼓動が早くなるのを感じた。腕には鳥肌が立っていた。これは、何だろうか。けれどきっと、人間に捕まった自分が達成できる最高の結果だと思った。きっと、そうなのだ。


「最高じゃない」


 その言葉が、震える口から零れ出た。


「……は?」


「最高だと言ったのよ。私の身が穢される? 屈辱的に? 最高よ。これ以上の正義の口実はないわ。死ぬ程度では済まされない。拷問のような物理的痛みを伴い顔を歪める苦痛でもない。純粋な生命に対する侮辱を、あなたたちの王様は私に課そうとしたのね? それは神々にとって最良の結果よ」


 男は顔を上げ、口を阿保みたいにパクパクとさせていた。


「お前は、それでいいのか? 身体を誰とも知らない他種族に(まさぐ)られ、屈辱を与えられることに、何も、感じないのか?」


「神々にとってはそれが最良の結果なのよ? 人間が〈竜の守り人〉を侮辱した。穢した。身体を(もてあそ)んだ。それはつまり神々に対する侮辱と同義よ。〈人神大戦〉において、この上ない正義を神々は手に入れて――」


「神に聞いているんじゃない! お前に聞いているんだ!!」


「私……?」


 この男は何を言っているんだろうと思った。


 これまで述べてきたことは、全部全部自分の意見のはずだ。神々が〈人神大戦〉で大義を背負うため、正義を掲げるため、人間という種を根絶やしにするため。全て自分の考えだ、意見だ。だからこの考えは全て自分の――。


「あ、れ」


 自分の、意見なのだろうか。


 芽生えた疑問、そこに居座る違和感。


「……神々が正義を掲げるために、人間を遠慮なく絶やすために、人間に殺されなければならなくて、でも人間の王は私を玩具にするつもりで、それは神々にとって最もいい結果で……」


「そこに、お前はいるのか? お前の気持ちはそこに含まれているのか?」


 男の言葉で違和感に気づく。


 これは全部、命令された言葉だ。他者の願望だ、思いだ。そこにリンファという一個人の思想や理念は全くもって含まれていない。彼女はただ、神々に賛同し手を挙げただけだ。ともすれば、彼女の言葉は彼女の考えでも意見でも思いですらない。


「もう一度問う。お前はそれでいいのか?」


 いつの間にか足の甲に視線を落としていた顔を持ち上げる。男の顔を見る。その顔は引き締められ、目は真っ直ぐにリンファの青藍色の瞳を見つめていた。


「私、は――」


 以前、この男に似たように問うたことがあった。「お前なら自分の処遇をどうするのか」と。その時男はこう答えた。


「考えた事もなかったわ」


 同じ答えを、男に返した。


 そして、深く深く考えた。


 どうやら人間の王は自分の身体で欲求を満たしたいらしかった。きっと色々な場所を(まさぐ)られ、道具のように扱われるのだろう。〈神域〉に住まう神々の欠片として生きるリンファに、誇りがないわけではなかった。ただそれでも、自分が神性を纏う存在としては下位中の下位であることは分かっていた。だから神々が〈竜の守り人〉が人間に囚われた場合に、彼女をただの駒として扱うこと自体には疑問を抱かなかった。仕方のないことだと思った。


 だが、人間に道具のように扱われるのは、酸が喉を走りそうなほどに気分が悪い。この時になってようやく、男の口から「国王はお前を飼おうとしている」と聞いたときの鳥肌の意味が、震えの理由が分かったのだ。


「……怖い、わ」


 それがきっと、今のリンファ自身が感じることのできる正直な気持ちなのだ。


 神々にとっての結果としては、最高の結果を生み出すことができるだろう。神の端くれが人間に(くだ)るのだ。神々に対する侮辱として、正義と大義を掲げる旗柱として、これより高くなるものはないはずだ。


 だがそれは、神々にとっての話だ。リンファはどのみち神々に捨てられるも同然なのだから、その思想に彼女の思いは含まれない。


 人間に(くだ)るのは屈辱だ。身体を穢されることには恐怖すら覚える。だが、神々に課せられた使命を(なげう)つことは許されない。何らかの形で神々の目的を達成しなければ、人間という愚かな種はこれからもこの世界樹を汚染し続ける。それは、リンファにとっても好ましいことではない。


 自分の思いと使命がリンファを挟み込んだ。どちらか片方を優先すればどちらか片方が蔑ろになる。初めて自分の考えを真っ直ぐに抱いた少女は悩んだ。悩む彼女の瞳には、月明かりに照らされる錆色の髪の男が映っていた。


 彼は〈混血〉だ。自分と同じ境遇を抱える存在だ。そこには親近感すら覚えたが、彼は人間の側に味方する騎士だ。しかしそれでいて、敵であるリンファに優しく接した人物だ。彼女も知らなかった彼女の思いを汲み取り、逃がそうとした。きっと全てを投げ出して行動したのだろう。そのことに対しては好感が持てた。愚かな人間の愚かな行動だが、その愚かしさは他者を思う故のものであったのだと、今なら理解できる。つまるところ、リンファはこの男に心を半ば許していたのだろう。


 リンファは男の胸倉を両手で掴み、自分の方に引き寄せると、男の唇に自分の唇を軽く重ね合わせた。男の唇は乾燥していた。なんというか、こちらが唇を切ってしまいそうだと思った。


 そんな子どもじみた口づけに、子どもじみた感想を抱くリンファは、突然のことに目を見開く男にこう言った。


「あなたにならこの身体を委ねても構わないわ」


「ま、待て。どうしてそういう話になる」


「あなたのせいよ。あなたが私に優しくするから、私が私の気持ちに正直になってしまったから。神々が欲しているのは私が人間に殺されたり拷問されたり、それこそ辱めを受けたという結果。それを行うのは人間であれば誰でもいいの。この際〈混血〉のあなたでも構わない。私もあなたと身体を重ねるのは許せるわ。きっと、怖くはないと思う。首でも絞めて殺してくれてもいい。あなたに殺されるのであれば文句はないわ」


 それが一番、いい方法だと思った。


 自分の思いも神々からの命令も、両方を選べる。むしろこれ以外に取り得る最良の行動があるだろうか。


「……あなたには、迷惑をかけることになるわ。だってあなたが私を穢して殺したことにするのだもの。きっと神々の反感を買うわ。でも、あなただってそれぐらいの覚悟で私を連れ出したんでしょ?」


「それ、は」


 男が口籠る。この期に及んで迷っているのか、はたまた単純に困惑しているだけなのか。


「あなたの覚悟が本物なら、私を抱いてみせなさいよ。もしそれができないなら……」


 リンファは男の手から地に落ちた槍を拾い上げると、穂の根元を持って穂先を自らの喉に突きつけた。


「よ、よせ、やめろ」


「あなたが私を押し倒してくれたら、やめてあげるわ」


 挑発するように嗤う。


 男はきっと、自分を死なせたくはないだろうとリンファは踏んでいた。だったらこの男が取ることができる行動は一つしかないだろうと。


 さあ押し倒せ。細い両の手首を縛るように掴んで地面に押さえつけろ。身に纏うのはたかだか布切れ一枚だ。引き千切って、さらけ出された白い肌をその目に焼き付けろ。そうして穢してくれ。


 そう願いながら、男を見つめた。槍の穂先が僅かに首の皮に突き刺さる。涙のように、傷口から一滴の血が流れ落ちた。


 男の手がリンファに伸びる。恐怖に目を瞑る。自分よりも背の高いこの男が怖いわけではなかった。ただ、初めての経験をこれからするのだから、それに恐怖するのは当然のことだ。目を瞑り、じっと待ち、その身が穢れる瞬間を待った。



「バカ野郎」



 身体を、温かいものが包んだ。初めて感じるような、それでいてどこか懐かしい暖かさ。


 目を開ける。視線の先には誰もいなかった。一度瞬きをして、視線を横にずらす。男の後頭部があった。錆色の短い髪が、月明かりに照らされて橙色に輝いている。


「バカ野郎」


 再びその声が聞こえた。


「……バカとはなによ。その気じゃないなら私はこのまま自分の喉を掻っ切るわ」


「その震えた手で、どこまで正確に喉を切れるかね」


「……」


 リンファは視線を正面に戻し、槍を握る自分の手を見つめる。震えていた。それどころか、しっかりと握っているつもりが、力が全く入っていないことに今になって気がついた。


「自分から命を絶つのが怖いなら、そういうことはするな」


 男の優しい声が耳元で聞こえた。腰に回された男の腕に、頭を撫でるその手に、優しく力が入る。リンファが握る槍の穂先が喉を離れ、がらりと音を立てて地に落ちた。落ちた槍を見るように俯き、「じゃあ」と呟く。


「じゃあ、どうすればいいのよ。私の感情も、神々からの使命も捨てられないから、こうするしかないのに、あなたがそれを拒むのなら、一体どうしろっていうのよ……」


 気がつけば、話す言葉には嗚咽が混じっていた。青藍色の瞳からは、まるで湧き水のように涙があふれ出ていた。


 男はリンファの頭を優しく撫でながら口を開く。


「生き物が手に持つことができる物の量には限度がある。何かを選ぶとき、必ず何かを捨てなければいけない。全部を拾い上げることは不可能だ。必ず何かが、指の間をすり抜けていく。俺だってそうだ。お前を牢屋から救い出すために、騎士である自分を、尊敬する上司を、大切な後輩を、全部を、わざと溢した。俺は自分の感情を優先したんだ」


「それがなによ」


 涙を見せまいと、男の肩に顔を埋める。


「俺はきっと、人間として生きることは二度とできないだろう。大罪人だからな。それに俺は〈混血〉だ。神々だって忌み嫌う。そんな全てに嫌われた男が、ここにいる」


「だから、何が言いたいのよ」


「全てを捨ててお前を選んだ男がここにいる。お前が自分の感情を選んで、神々の使命とやらを捨てても、俺がお前を受け止める。だからもう、なにも恐れるな。神々の使命? そんなもの知るか。どのみち〈人神大戦〉は激化していくんだ。別にお前が正義の旗印にならなくたって、神々は人間を根絶やしにしようとするさ。そんなもののために身を穢す? 命を差し出す? 馬鹿げている。それは本当のお前の望みじゃないだろ。まだお前の言葉には、神々の使命とやらが圧し掛かっている。

 お前を選んだ俺がここにいる。お前のありのままの言葉を俺は受け止める。だからお前の本当の言葉で、本当の気持ちを教えてくれ」


 男の真っ直ぐな声を聞いた。


 神々に課せられた使命を捨て、自分の心を選んだ先に、この男がいる。いてくれている。


「選んで、いいの?」


 リンファが呟く。


 神々の使命は大事だ。ここで捨てれば、一生神々に攻め立てられ、挙句の果てには消されるかもしれない。だが、自分に嘘を吐いて使命を謳い続けるのには、もう疲れていた。


 自分の心に正直になった先に、何もいないと、誰もいないと思っていた。守護竜ファフニールでさえも、そんな自分に失望するだろうと。


 だが、そんな自分を受け止めると言ってくれた男がいる。正直になった先に、誰か一人でもいてくれるのなら――。


「私は――」


 願ってもいいのだろうか。なけなしの神性が付き纏い、〈竜の守り人〉としての責務を押し付けられた。それら一切を捨てて、まるで空を舞う鳥のように。


「私は、自由になりたい」

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