81.また、いつか
静寂が辺りを包む。これほどまでの静寂はいつぶりだろうと、リンファは今に至るまでの道程を思い出す。
元を辿れば神と人との争い、〈人神大戦〉が起きたことがきっかけだった。もちろん、リンファは神の側として剣を振るっていたわけだが、一人の男に敗れ、捕虜の身となった。本当であれば、リンファはそこで死ぬはずだったのだ。ヨルムントがリンファの存在を快く思っていないことは知っていたし、人間に辱めを受けるくらいなら死んだ方がマシだと思っていた。
だというのに、自分を負かした騎士は生きることを説き、連れ出したのだ。
それが全ての始まりだったのだろうと、振り返って思う。
「終わったわ、シグルズ」
今は亡き最愛の人の名を呼ぶ。もちろん、それに応える声はないのだがリンファにはどこかで彼が頷いているような、そんな気がした。
さて、これからどうするか、この世界はどうなるか。不意にそんな未来のことを考える。
リンファの瞳に映った未来には、色々な光景が浮かんでいた。それはまるでアーガルズに住んでいるような人間たちが争う景色やはたまた手を取り合う景色、飢餓に苦しみ飢えて死ぬ子どもや巨万の富を持て余すふくよかな人間。どうやら明るい未来ばかりではないらしい。リンファはため息を吐いた。
彼らが住まう青い星。星というのは夜空に浮かぶ輝く点のことだ。少なくともリンファはそう認識していたが、どうやら星というのは生き物が住める場所らしい。
つまるところ、リンファが見た未来はこの世界樹とは大きく違う世界だったのだ。この世界樹がこれからも存続し、生命の樹として多くの命を育むような未来ではなかったのだ。それが意味するところはこの世界樹というのが枯れてしまうということだ。
それもそうだろう。世界樹を管理していた地神、空神、竜神の三柱は既にこの世におらず、代わりに世界樹第九階層〈神域〉に佇むのはなんてことない愛を知っただけの少女だ。
「私にこの世界樹をどうにかすることは無理そうね」
そう悟っていた。
『そうだな』
不意にそんな声が聞こえる。
「シグルズ?」
おかしい。おかしいのだ。彼の声が聞こえるはずがないのだ。この声は竜の権能の力が及んでいる間にだけ聞こえる未来への道標だ。脅威であるヨルムントを退けた今、その声が聞こえるはずがないのだ。
『世界樹はもうじき枯れる。それは逃れられない未来だ。人と神の戦いはあまりにも苛烈で、愚かで、何も生みださない無意味なものだった。ユグドラシルはそんな歪な階層構造を持つ世界樹を枯らしたいと思っていたんだ。混血の存在を望んだのは地神フェンルだ。だがユグドラシルはその存在を許す代わりに、混血の血に神を殺す力を仕込んだ。いつか来る人と神の戦いのために』
声は淡々とそう続けた。その声音は先ほどまでの機械的な指示音声などではなく、まるで本当に本人が喋っているかのように聞こえたのだ。だからリンファは隣に感じる彼を思い、話しかける。
「ねえ、シグルズ」
声に反応はない。それでも続ける。
「私、正直な話これからの世界とかどうでもいいの。きっとこの世界樹よりはまともな世界が待ってるって思う。けど、それじゃダメなの。私は、私はもう独りぼっちになるのはイヤ。あなたが隣に居てくれないと、私はまた自分の命を蔑ろにしてしまうかもしれないわよ?」
『……』
「だから、応えてほしいの。それで約束してほしいの」
短く息を吸う。これから言う言葉を彼に向けて発するのは三度目だ。一度目は恥ずかし気に短く伝えた。彼の恥じらいの気持ちを持ったのか、はぐらかすだけだった。二度目は心の底からの本心を伝えた。けれどそのとき彼は愛を忘れていた。
けれど今は違う。たとえ今聴こえている彼の声が幻聴であったとしても、確かな気持ちで伝える。これが最初で最後だからという気持ちで口を開く。
「愛しているわ、あなたのこと。だから、約束。新しい世界で私が独りぼっちになっていたら会いに来てほしいの。そのときの貴方はもう今の貴方とは違うのかもしれない。けれど私は、きっと貴方のことが分かるから」
真っ直ぐに正直に自分の気持ちを伝えた。胸の内を打ち明けた。少し間を置いてから、男の声は恥ずかし気に『……ああ』と相槌を打つだけだった。
彼だ。この反応は正真正銘彼のものだ。こういう風に曖昧な回答をするのも、少し間を置くのも、簡素な物言いも。全て彼のものだ。けれど今は、今だけはもう一つ彼の口から引っ張り出したい言葉があった。
「一世一代の愛の告白をした女の子に対してそれはないと思うわよ」
『いや、そういうわけじゃ』
「じゃあ、何を言うべきか分かるでしょ?」
どこかニヤついている自分がいた。押し黙ってしまったシグルズの口からその言葉が発せられることが何よりも嬉しいのだ。だからリンファはこれまでの人生で最も耳を澄まし、その言葉を待った。
『……俺も、お前を愛している。だから、また会おう』
言葉を聞いた瞬間、リンファの心臓が早鐘を打つ。体中が熱くなり興奮に鳥肌が立ち、熱くなった目元にはいつしか涙が溜まっていた。
「ええ。また、いつか」
それ以降、彼の声は聞こえなくなった。仮にもし幻聴だとしたならば、愛ゆえに幻を見る痛い光景だったな、などと客観的に考える。
ただそれでも、彼の言葉で聞きたいことが聞けたのだ。この世界に悔いはないだろう。
――大地が揺れる。
世界樹がその終わりを告げていた。いつしか褐色に褪せた枯葉たちが風に攫われ宙を舞っている。枝が世界樹の枝が腐ったかのように落下し、大きな地響きが足元と鼓膜を揺らした。
この世界樹というのがどれほどの月日を経てこの大きさに成長したのかは分からない。けれど散り際はあまりにも一瞬だった。
既に足場と呼べるものはリンファの下になかった。宙に投げ出され、枯葉枯れ枝と共に落下していく。
そんな中、リンファは心の中で新しい世界を思い描いた。本当のことを言えば新しい世界なんてものに興味はなかったが、シグルズともう一度で会えるならば、新しい世界も悪くはない。
どんな世界になるだろう。どんな出会いになるだろう。どんなことをして、どうやって仲良くなっていくのだろう。そう思うと胸の鼓動が治まらない。
リンファ自身自覚はほとんどないのだが、彼女はユグドラシルの力を受け継ぎ神に近しい存在となった。いや、きっと新しい世界では神と同義に扱われるだろう。彼女が視た青い星は数え切れぬほどの生命を抱えた命の星。生命神であるリンファを中心にその星は作られる。
落ちる最中、リンファはその手を天にかざす。陽光を遮る手からは無数の蔦が伸び、それらは規則的放射状に伸びるとリンファの身を包んだ。その中で膝を抱え瞼を下ろす。
きっと新しい世界も愛で溢れていますようにと願いを込めて。
§
一振りの剣を携えた男が森の中を歩む。草をかき分け獣道を進んでいく。どうやらこの森には昔から巨大な竜が住んでいるらしく、それはそれは金銀財宝を寝床にして鼾を立てているのだそうだ。
どうにもかつては守り神として崇められていたらしいのだが、世の中の情勢が変わるにつれてそういった信仰心も失われた。竜の方から人間社会に干渉してくることもなく、ほとんど忘れ去られている状態だった。
しかしその金銀財宝の噂というのは男の周囲では幾度となく話題にされた――言い方を悪くしてしまえば使い古されたネタだった。
ただまあ、その噂を信じて森に出向き行方が分からなくなる者も多くいるという話がある以上、おそらくそこには本当に恐ろしい竜がいるのだろう。ではその竜を倒して金銀財宝を手に入れれば、その偉業を成し遂げた者はまさしく英雄だ。
巨万の富を独り占めするもよし、人々に分配して新たな信仰対象になるもよし。宝の使い道なんてものはいくらでもある。
そんな思いで森の中を進んでかれこれ半日が経つ。明朝に出発したというのに、辺りはすでに月明かりが照らしている。
そこから少し歩いた先で、男は開けた場所に出た。ちょうど男の住む町の中心にある噴水広場ぐらいだろうか。それなりに広い場所の中心に小さな泉があった。
やけに不自然な地形だなと思いつつも、男はここで野宿をすることに決めた。熊などの野生動物に襲われる可能性も考えるが、自分の剣の腕であるならば問題ないだろうと天幕を張る準備をする。
背負った荷を下ろし、泉を背にしてドカッと地べたに腰を下ろす。
「誰かいるの?」
突如聞こえたその声に男は動きを止める。女の声だ。まるで鈴のように軽やかで透き通った清流を思わせる美しい声。背後の泉の方からだった。
恐る恐る振り返る。そこで男は視線を釘で打ちつけられたかのように動かすことができなくなった。
そこにいたのは裸の女性だった。歳は自分と同じくらいだろうか。華奢な身体で胸は小さく、それでいてどこか大人びた雰囲気を醸し出した妖艶な姿。月明かりを受けた空色の髪が銀色に輝いており、男はそのあまりの美しさに釘付けになっていた。
「女の裸をそんなにじっと見るなんて、色を覚え始めた子どもかしら?」
そんな風に揶揄われる。「ああ、いや……」と曖昧な言葉を口にして、もっと見ていたい気持ちを抑え込んでそっぽを向く。少なくとも男は紳士であろうとしている。普段からそうやって生活しているつもりだったが、女の裸体に見惚れてしまう程度には邪念があったらしい。即座に雑念を振り払い、彼女の身を案ずるような言葉を言う。
「年頃の少女がこんな夜中にこんな暗い森で何をしているんだ。しかも、その……裸で」
「ただの水浴びよ。おかしい?」
何が不思議なのかと言わんばかりに言う。いや、どう考えたっておかしい。
「この森には危険な竜が住んでいる。俺はその竜を倒しにきた者だ。今晩は天幕を貸してやるから、ここで寝るといい」
「あなたはどうするの?」
「俺は外で見張りをする。俺は問題ないが、きみが熊にでも襲われたら大変だ。もちろん、竜に襲われたらひとたまりもないが。ああ、安心してくれ、いくら二人きりだからと言ってきみに手を出すようなことはしない」
提案すると、彼女は「ふうん」と鼻で返事をして何かをぼそりと呟いた。
「そう、ね。そうさせてもらうわ。錆色の髪が綺麗なお兄さん」
「ジークフリートだ。お兄さんはよせ」
適当にそう自己紹介を済ますと、火おこしの準備を始める。一晩限りの付き合いで名前を聞く理由はなかったが、こちらが名乗ったのだから一応聞いておこうと思い「名前は?」と尋ねる。
すると彼女は少し考える素振りを見せて「……そうね、リンファと名乗っておくわ」とどこか訳ありげな回答をした。
§
今のこの世界で、彼女は一頭の竜として過ごしていた。もちろん、かつての姿に戻ることもできるのだが、竜のままでいる方がこの世界においては当たり前のものとして世に知れ渡った。
かつては創世の神として崇められたものだが、その信仰はもはや薄氷程の厚さもない。ファフニールという名の竜が住んでいることだけが、世の中の時代の流れに乗っていた。
だったらもう、自由に生きてやろうじゃないかと彼女はかつての姿を取る。リンファという名前の少女の姿を取る。あの時よりは多少大人びた容姿にはなったが、依然胸は小さいままだった。そこだけは少し残念ではある。
まあ、そんな姿――しかも裸体、を人に見られるとは思わなかったわけだが。
しかし人はそれを運命と呼ぶのだろう。
ジークフリートと名乗った男の容姿に彼女は覚えがあった。錆色の短髪、鍛えられた肉体、少しだけ高い背。人を心配する素振り、どっちつかずな物言い。その全部が、記憶の奥底に眠る最愛の人と重なったのだ。気を遣う彼の言動に「変わらないのね」と小さく囁く。
名前を聞かれた彼女はあえて「リンファ」と名乗った。彼が仮にもし、愛した男の生まれ変わりであるならば、愛を知った一人の少女として接したいと思ったのだ。
それにしても、運命というのは残酷だ。どうやらジークフリートは竜を殺しにきたらしい。つまりリンファのことを殺しに来たのと同義だ。もちろん彼がその事実を知る由もないが、リンファは「またこうなるのか」とかつての出会いを懐かしむ。
敵同士に始まる出会い。けれどそれが愛を教えてくれたのだ。だったら今回は、今回こそは、愛し合い共に生きたいと願う。
――だって私は、あなたを愛していますから。
―完―




