80.愛の証明
リンファは自分の身に何が起きたのか分からなかった。憔悴しきった傷だらけの身体、朦朧とした意識、終わりかけの運命。どう考えてもこの命は費えるはずだった。それなのに。
「私、は」
どうして自分は両の足でこうして立っていられるのだろうと不思議でならなかった。殻を見下ろせば見覚えのない綺麗な衣服を纏っているし、傷なんてまるで最初からなかったかのように綺麗さっぱり消え去っていた。
まるで生まれ変わったかのような、そんな感覚がした。
再び視線を持ち上げると、その先に白髪白眼の男がいた。彼はどこか驚いたような顔をした後、その顔を押さえて苦笑した。
「……なるほど、これが世界樹の意思か。世界樹は僕の方を癌だと認識したのか。僕の正しさは間違っていたのか」
声の震えは徐々に大きくなり、その笑い声はいつしか高笑いへとその姿を変えて空高く響いていた。
「嗤うといい! 愛を恨んでしまった僕は、世界樹にとっては排除対象だそうだ! おかしいと思わないか? 愛があるから数々の争いが生まれてくる。生命は大切な家族の飢えをどうにかするために隣人を襲撃し、襲撃された隣人は愛ゆえに家族を守るため武器を手に取る。そんな風に争いの絶えない混沌とした世界の方が正しいと、世界樹は言いたいようだ。僕が思い描く愛のない世界の方がきっと機械的で簡易的な世界であるはずなのに」
「……どういうこと?」
疑問を投げる。実際、リンファにはまだ現状の把握ができていなかった。ただ何か、奇跡に近いようなことが起きた事だけは何となく察しがついていた。
「世界樹がお前を選んだということだよ。いや、もっと昔から世界は、フェンルは〈混血〉を選んでいたのかもしれない。きっとその血が神を殺す力を持っていることも、それが近い将来神を抑止する力になると踏んでだ。世界樹には、最初から全てが分かっていたんだ」
ヨルムントの声は少しずつ萎み、両手をだらりと下げて項垂れる。
「僕は、本当の悪神に成り下がってしまった」
声には覇気を感じない。それもそうだ。ヨルムントにとっては自分のやって来た全てのことが自分よりさらに上位の存在、世界樹そのものに否定されたのと同じなのだ。一体自分の謀略は何のためにあったのか、憎しみは何のためにあったのか。
「淋しい、人なのね」
そんなヨルムントの様子を見たリンファはそんな感想を抱く。
「哀れだろう。けれどもう、後戻りはできない。僕の存在が世界樹を枯らす要因であったとしても、僕の信じた世界樹の姿が間違いなのかどうかはまだ分からない。未来がどうなるかは分からない。……ああ、お前の竜の権能であればもしかしたら分かるのかもしれないけどね。僕は僕のやったことに責任を持たなければいけない。ならば、足を止めることはもうできない」
声から感じる意気は消沈している。それでもリンファはヨルムントが自分に向けた剣の切先から確かな決意を感じた。
固く、鋭く、氷のように冷たい信念。後ろ向きだが確実に前に進んでやる、進まなければならないという執念。
自分にはそういう信念があるだろうかとリンファは思う。色々な人が色々なものを自分に託した。
ある女神は自身の忘れた愛を託した。ある竜は自らの力を託した。ある騎士は自分の命を、その全てをリンファに託した。世界樹は、この世の命運を託したのだ。
だから今、リンファは両の足でしっかりと立っている。母の名を冠した聖剣フロティールを構えている。
竜の権能は未来を見せてくれる。けれどもそれは、肝心な時に先を見せてはくれない。自由にその力を使うことはできない。
あの力は、所詮定まった未来しか見せることはできないのだ。結局のところ、未来を紡いでいくのは自分の意思だ。きっとファフニールも全てが見えていたわけではない。もし全てが見えていたのならば、彼女自身の死も回避できたはずなのだ。だからそれは「確定した未来」だったというだけの話だ。
誰がどうやってその未来とやらを定めているのか、リンファには分からなかった。その力を使えたのもエルマと刃を交えたときだけだ。あれが「確定した未来」であったのならば、誰かがそれを決めていたはずなのだ。エルマが死に、リンファが勝利することを。
誰かが、世界が。
瞼を下ろし瞳で闇を見る。その力が世界樹に由来するものであるならば、きっと見えるはずだ。確定させられるはずだ。未来を。今のリンファであれば。
――視える。
世界は彩に溢れていて、色々な生命が溢れた新たな居住地があって、そこでは人々の愛がある。もちろん、ヨルムントの言った通り愛ゆえに争いが起こることもある。けれども人々はそれを乗り越え、歴史を紡いでいく。空よりもうんと蒼い、綺麗な星で。
世界樹の構造は歪だったのだ。種によって階層分けをしてその高さで差をつける。互いに不可侵であるべきと同時に、罪を犯すことも許された。そんな歪な世界。
新しい世界はきっと、もっと人々が容易に手を取り合うことのできる場所になる。
それが確定した未来ならば、もう何も恐れることはないのだ。
『力をものにしたのか?』
「ええ」
愛した男の声にリンファは相槌を打つ。エルマとの戦闘のときも、彼の声が聞こえた。
『竜の権能が導く声は、リンファの最も愛するものの声で導かれる』
「そう、そうだったのね。まるで人の心まで見透かしているみたい」
リンファの言葉に男の声は答えない。この声は声でしかない。死んでしまった最愛の騎士が口を動かして話しているわけではないのだ。『来るぞ』と一声合図だけだして、ヨルムントの刃がリンファに迫ることを教えてくれる。
『奴の剣先をよく見ろ。どこを狙っているか分かるな?』
頷く。ヨルムントの剣先に視線を集中させる。その刃は明らかにリンファの喉元を狙っていた。情動に身を任せたかのような単純な突き攻撃。
『剣の側面で受け流すんだ。その後奴の横腹に蹴りを入れろ。それはもう、目一杯の力を込めて』
再度頷き、言われた通りにする。
この声はいわば確定された未来への道案内だ。きっと声の通りに動かなくても、権能の力で強制的に体は動かされるものだ。この声が無ければリンファはここまで的確に攻撃を捌ききれない。
剣を受け流し横腹に蹴りを入れる。ヨルムントが僅かによろめいた。
「ニーズヘッグ!!」
ヨルムントが叫ぶ。彼の握る炎姿の剣が黒い何かを纏わせ身震いする。それが蛇のように伸びていき、少し前にリンファの身体を痛めつけた邪竜の姿を成す。
何も知らないリンファであれば、またニーズヘッグに喰い殺されていただろう。その鋭い鱗で切り刻まれていただろう。だが、今は違う。耳元で一緒に戦ってくれる声がある。
『奴の鱗を一か所に集めろ』
「どうやって?」
声に問う。すると声は『一度その光景を見ただろう?』と口にした。そう、先刻リンファを瀕死に追いやった鱗の牢だ。
あのときの状況を思い出し、リンファは権能で竜の翼を生やす。一度大きく羽ばたかせ、天へ一直線に飛翔する。
「囲め、ニーズヘッグ!」
眼下でヨルムントが睨み上げていた。周囲の景色が一気に暗くなり、嫌なほどの虫の翅音のようなものが聞こえた。鱗同士が身を寄せて近づいてくる音だ。
今の状況は完全に先ほどと同じ状況だ。ニーズヘッグが囲んだ内側の空間にリンファがいる。空間は少しずつ狭まり、やがてその身を否応なく刻んでいく。
「ここからどうするの?」
声に尋ねる。すると声は脈絡もなく『シグルズ・ブラッドは死んだ』と言葉にする。
『英雄の成り損ないは死んだ。つまり奴の権能の効果も消えている。奴が母親から受け継いだ〈貪汚の権能〉の効果も。奴がお前から奪った魔力炉は、既にお前の中に戻っている』
言われ、そういえばそうだったなと思い出す。思えば彼との出会いは敵同士で、あの時はこんな風に彼を愛することになるなんて思いもしなかった。彼に守られるうちに、自分が彼に奪われた力のことなどとうに忘れていたのだ。
つまるところ、今のリンファは己の水魔法を存分に扱える。
「凍りつけ」
リンファが口にしたのは対象を凍らせる魔法。その対象というのはもちろんニーズヘッグである。一か所に凝縮した状態のニーズヘッグを凍らせることなど造作もなかった。分厚い氷に覆われた鱗たちはピタリと動きを止める。
『叩き割れ』
声が指示する。言われた通り、リンファは左手を竜の爪に変化させて自身を覆う凍った鱗たちを叩き割った。氷と共に砕ける鱗。はらはらと雪のように降りゆく様を眺めるリンファの視線の向こうに、ヨルムントの驚いた表情があった。
ああ、終わりが近づくと、リンファは直感的に思った。フロティールで手のひらに傷を作ると、そこから垂れる血で白藍色の細剣を赤く染める。
「さようなら、愛に狂った哀れな神様。次の生では愛されるといいわね」
剣先を真っ直ぐにヨルムントに向け、翼を羽ばたかせ風を切る。フロティールは思いの外綺麗にヨルムントの胸に収まった。そこから炎が噴き出ると、傷口から少しずつヨルムントの身体が灰に変わっていく。
「……ああ、僕の負けだ。完敗だ。僕は愛が嫌いだったけど、愛の温かさは本当みたいだ。フロティール、きみの娘はこんなに強く、温かく、愛し愛され立派な女性に成長したよ。僕の観察結果を――君に、伝えられないのが、残、念――」
その言葉を残したヨルムントの表情は笑っていた。笑ったまま、崩れ去るようにその存在は燃え尽きた。
そうして、竜神ヨルムントは世界樹から消滅した。




